時の太鼓
一関藩時代(1682〜1868)一関田村家初代藩主田村建顕公は、時刻を民に知らせることは、民生の安定はもとより、文武産業の振興にもつながるものとして、 時の老中阿部豊後守に願い出て「時の太鼓」を打ち鳴らすことを特に許されたのである。 貞享3年(1689)7月1日より、一関の城下町に毎日子の刻、午の刻(午前0時と正午)二回、標準時刻を知らせる太鼓が鳴り饗いた。 当時、時を知らせる太鼓を打ち鳴らしたのは、皇居、幕府、御三家(水戸、紀州、尾張)に限られていただけに、参勤交代で一関を通る大名や旅人たちは、この太鼓の音に驚き、又羨望の的だったといいます。以来田村家館の裏門東側(現在裁判所前)に太鼓楼を置き、昼夜二回打ち鳴らしたが、大太鼓のうえ「南蛮製瓔珞」入りのため、余韻はすばらしく藩内四十か町村に響き渡ったのである。そのため「一関には過ぎたるもの二つあり、時の太鼓に建部清庵」として、もてはやされたのです。藩民は、これを誇りに思い太鼓の音を生活の励みとしたが、時間を尊ぶ勤勉さと「打てば響く市民性」は、今も受け継がれている。造りは、一本のけやきの大木をくりぬいて作り、口径3尺2寸5分(97.5cm)胴長3尺3寸5分(105cm)重さ50貫(187kg)。木口の上下端に牛皮を張り、胴面に朱漆塗りを施してある。 一関市
長昌寺 宮沢 真柴 一関市 岩手県