村田川渡船場跡 村田町 中央区 千葉市 千葉県
この地は、南房総と結ぶ房総往還の要衝でした。古来、村田川は下総国と上総国との国境*で、防衛上の必要があってか橋は架けられてなかったといわれます。このため明治20年(1887)頃までは、船による渡しがありました。この渡しを古くから文人墨客をはじめ多くの人々が渡って行きました。康生2年(1456)10月、千葉氏の内紛で千葉宗家胤直父子を滅ぼした馬加城主馬加康胤は、将軍足利義政の命を受け追討に向かった一族の東常縁(古今伝授を受けた人)の軍に敗れ、市原市八幡で敗死し首を村田川岸に晒されたと伝えられています。また、1868年4月江戸城明け渡しに不満な幕府撤兵隊は江戸を脱走し木更津方面に集結した。一旦は勢力を盛り返し、追討軍と村田川・養老川を挟み激戦を交え、敗れて木更津方面へ退却しました。今は川筋もかわり元の川は埋め立てられ公園となり、当時の姿を偲ぶよすがもありません。平成10年3月 千葉市教育委員会
*川跡の左側:千葉市村田町  右側:市原市八幡