近江紀行以来の国内旅行となったこの年のGWは会津へ行くことに決めた。動機には近江がある。16世紀も終わりに近い天正18年(1590)、秀吉の命で蒲生氏郷が会津黒川の地に転じて来た。地名を黒川から若松に変え、黒川城に7層の天守閣を築き名を鶴ヶ城と改めた。近江の日野、伊勢の松坂と同様、ここでも産業を興し日野から木地師や塗り師を呼び寄せ茶碗作りをひろめ、日野商人は味噌や酒造りに資本を投入した。近江ゆかりの地として早い機会に会津に来てみたかった。

会津は福島県の西に位置する一地方である。福島県は、東北地方の南端、東京よりおよそ200kmの距離にある。草加より車で3時間半であった。人口は2百万余り、面積は、約14千平方kmで滋賀県の3.5倍、全国では、北海道、岩手県についで広い。南北につらなる奥羽山脈と阿武隈高地によって3分され、西より会津・中通り・浜通りとよび、気候も微妙に日本海、内陸、太平洋とその趣を変える。

今回の行程は車で猪苗代に入り、磐梯山の東側を上がって裏に回り湖沼地帯を散策して喜多方に出、磐梯山の西方を南下して会津若松にはいる、つまり磐梯山を大きくぐるりと左回りする旅である。夫々の場所には個性的なテーマがあった。
猪苗代は野口英世である。裏磐梯は五色沼を中心とする湖沼、喜多方は蔵とラーメン、そして会津若松は蒲生氏郷と白虎隊である。但し蒲生氏郷は近江人の勝手な思い入れであって、地元では会津塗りや茶碗に取って代わられていた。人物としては氏郷よりも松平容保(かたもり)の方が圧倒的に人気がある。会津の繁栄は氏郷によって生まれ容保とともに滅んだといってもよい。明治以後の会津の人々は大事にそれを慈しんでいる。


猪苗代

東北自動車道を郡山で盤越自動車道に乗り換え、右手になだらかな磐梯山を眺めながら20分ほど西進すると猪苗代湖の中心につく。ここで野口英世が生まれた。

野口英世記念館 

野口清作(英世)は1876年(明治9)、湖畔の貧しい農家の長男として生まれた。
1歳半のとき、いろりに落ちて左の手に大火傷を負い指がくっついた話しは有名である。15歳のとき左手の手術を受け、それを契機に医学を志すようになった。24歳になった1900年(明治33)12月、まさに20世紀前夜に単身渡米、以後世界を股にかけた活躍が始まる。ペンシルバニア大学をはじめ、ブラウン、イェール、パリ、東京帝国とそうそうたるメンバーが彼に学位を授与した。

彼は小さな顕微鏡一つで次々に病原体を発見していった。俗界では梅毒のことをスピロヘータと呼ぶようになった。エクアドルで発見した病原体が起こす黄熱病によく似た病気がアフリカにあると聞いて1928年、西アフリカにわたった。そこでの研究中に自ら黄熱病に感染して51歳の生涯を閉じた。ベッドでつぶやいた彼の最後の言葉は「私には分からない……」ということだったという。
彼の墓地はニューヨーク市ブロンクス区ウッドローンにある。

アフリカの黄熱病原体は電子顕微鏡でしかみられない小さなものだった。後世これらはバクテリアに対してウィルスと呼ばれるようになる。野口の顕微鏡ではウィルスは見えなかった。見えないものはわからない。このエピソードは宇宙の星を思わせる。昔、天空に散らばる星の数は少なかった。それに応じて宇宙も小さかった。望遠鏡が発達するにつれ宇宙に存在する星の数がふえていき、宇宙は大きくなった。

哲学に認識と存在という基本概念がある。認識できないものでも存在しうるのか。それとも認識できないものは存在しないのか。私は幽霊やブラックホールのことを考えている。野口英世は熱に冒されつつ透明人間のようなスピロヘータのことを考えていたのだろう。

彼の父親は酒飲みでいま一つの男だったが母シカはしっかり者だった。彼女は英世が世界的に名を成し、日本から帰国の要望が高まりつつあった1912年(明治45)1月、12年前にいったきりの息子に宛てて思いきって手紙を出した。このために習った文字でかなり読みづらいたどたどしい字だが、読んでいるうちに胸が熱くなってくる。

「おまイのしせ(出世)にわみなたまけました。…(中略)…はやくきてくたされ。いつくるトおせてくたされ。わてもねむられません」

英世は34歳、シカは60歳であった。
息子は「忙しくて……」と返事しながらも3年後に15年振りの帰国を果たした。息子の立派な姿に安心してシカはその3年後この世を去った。家はそのまま保存されてある。

この旅行の3ヵ月後、突如2年後に野口英世が新千円札に登場するというニュースが流れた。それ以降記念館への観光客が3割も増えたそうである。



会津民俗館 

2−3百年もの前の二軒の住宅が保存されている。一つは名主を勤めていた旧佐々木家で役場にもつかわれていた上流階級の家である。他は旧馬場家で中流農家を代表する。居間や土間に珍しいものや懐かしい道具があふれていた。


佐々木家の囲炉裏は床間にきってあるが馬場家の囲炉裏は土の間にある。そもそも馬場家には畳の間がなかった。馬場家は曲家の造りで入ったところが厩(うまや)である。幼い頃父の実家を訪ねたときの印象が蘇ってくる。そこは入り口のすぐ右が牛屋であって、藁と牛糞尿の匂いが鼻をついた。

壁土造りのかまど、瓦製のこたつなどは私も使っていたものだ。こたつに入れた豆炭の熱は大変なもので、コタツをのせた座布団はやがて焦げて穴をうがつ。足を直接コタツに触れようものなら即座にやけどをする。こたつを十分に布で包むことが肝要である。

農協でみた精米機や脱穀機などもあった。藁で編んだ長靴や寝袋のような分厚い綿入り寝間着布団などは雪深い地方特有のものだろうか。佐々木家の下男頭の間はわずか2畳で寝るだけの空間であったが個室であることに意味がある。馬場家の土間には箱床があって農民はその中に藁を敷いて寝た。人形の男性が寝ていたが一瞬棺桶に横たわる死人に見えた。夫婦二人が入り込むには狭すぎるはずだ。

敷地の奥まった一角に大小様々な石地蔵が群れをなしていた。万霊塚という。その中に混じってひときわ目立つ石像があった。土着信仰の対象物としての男根と女陰である。大抵は豊穣・子孫繁栄の象徴ということになっているが素朴な性愛欲望の発露と見ても差し支えない。

このようなモチーフを好んだ映画監督がいた。たしか今村昌平ではなかったかと思う。大学のキャンパスが安保闘争で騒がしかった頃、学生食堂の窓を暗幕で覆い映画研究会が芸術鑑賞の名を借りて「にっぽん昆虫記」「神々の深き欲望」などを自主上映し、学生の旺盛な性的好奇心に応えていた。左幸子の土臭い汗ばんだ性がスクリーンからにじみ出る。過激派の学生もこのときはタオルやヘルメットを脱ぎ捨ててこれらの芸術映画を鑑賞しに来た。この時期に見た坂本スミ子の「エロ事師たち」もよかったし、岸田今日子の「砂の女」もよかった。ついでだが外映では「春のめざめ」や「制服の処女」などが記憶にある。

道路をまたいで「世界のガラス館」がある。滋賀県長浜の黒壁ガラス館の数倍もある規模だった。どちらが古いのか知らないが、新しいほうが他の影響を受けているものと思われる。隣接する「地ビール」のレストランは楽しい。
 
猪苗代湖を10分ほど西にまわった高台に天鏡閣という高松宮邸のルネサンス風洋館がある。妻は見学したが私は入らなかった。室内の家具調度品はロココ調だったそうである。なお猪苗代湖は別名天鏡湖と言われる。天の鏡のように磐梯山の姿を湖面に映すからだそうだ。

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裏磐梯       
 
民宿

初日、憲法記念日は曾原(そはら)湖畔の民宿に泊まる。
女将は病み上がりのように弱々しい話し方をする小柄な女性だった。玄関や24畳の座敷には訪問客の撮った風景写真が壁面を覆い隠すように飾られていた。日立市の写真同好会と思われる人々の写真が多い。話題を写真に移すと女将の目が急に輝いて、一つ一つ場所と撮影者について語るのだった。
「これうちのおばあさんなんですよ」と言って指差したのは裏の田んぼで田植えをする老女の写真であった。背景のあぜ道を数人の観光客が徒然に歩いている。いい写真だった。

その隣の写真には沼に畳一枚ほどの小さな箱船を浮かべて身を乗り出している男女が写っていた。船の配置といい、二人の仕草のタイミングやアングルといい実に好ましい。
「これも田植えですか」
「ジュンサイ取りです。それはうちのじゃありません。頼まれたのですがうちは断ったのです。隣の人です」

ジュンサイと言われて食べたことも見たこともないが、その言葉には聞き覚えがあった。純菜か旬菜とでも書いて、ある種の野菜の集合名詞だろうと思っていたが、辞書をひくと固有名詞として「蓴菜」、 古名「ぬなわ(蓴)」とあった。「蓴」と書かれても読めもしなければ色形の見当もつかない。

ジュンサイは清い水の池や沼に群生するスイレン科の多年草である。暖かくなるころに楕円形の浮き葉が沼全体を覆い、その下に成長してくる若芽・若葉を摘み取るのである。顔が水面につかんばかりに前かがみになって腕を水中に伸ばして採る。脚をのばし船底にうつぶせになって採る人もいる。摘み取りは5月から8月まで続く。そういえば民宿の近くにはいくつもの田んぼとも沼とも思われない湿地が目に付いたがジュンサイ沼だったのである。

6月9日NHK朝7時のニュースで、山形県村山市からジュンサイ取りの模様を伝えていた。水中カメラが茎からのびる若芽を捕らえた。若芽や若葉は寒天質にくるまって羊水のなかの胎児のようである。ぬめりに指が滑って素人でははかが行かない。茎をちぎろうとしないで、親指の爪でピンと茎を切り取る。個人的体験の有無が一片のニュースの深みを劇的に変える。

宿の夕食は量において豪華だった。メインは一つでなくサシミ、てんぷら、すき焼き、トンカツの合計である。それに焼き魚、野菜の煮物と生サラダ、たこの酢の物、茶碗蒸、餃子が付く。ご飯、漬物、吸い物を加えると器の数は優に10を超えた。要するに老若男女、どんな好き嫌いの激しい客でもどれかは気に入ってもらえようとする配慮と理解した。おまけに全員に日本酒1合が付いてきた。食事を終えた家族連れの机を片づけていた女将さんが、徳利を振り振り「全然飲んでいませんから。どうぞ、どうぞ」と食事中の客に分けまわっていた。子供であろうが女性であろうが頭の数だけ徳利が配られるのも無差別網羅主義を貫いている。

この宿ほどではなくても概して日本旅館の夕食は大きすぎる。客が食べきれないとわかっていても出す。ホテルは泊まるためにあるが、旅館は食うためにある。食うほどに値段が上がり、宿側は値を維持するために食わす。この宿に限っては客に満足してもらおうとする素朴なひたむきさが伝わってくるようであった。女将を失望させないためにも残さないでおこうという気にさせる。

翌朝、昨夜からの胃のもたれをおして再び充実した朝食をいただく。パン・コーヒー・ハムエッグ・メロンの洋食と、ご飯・味噌汁・鮭・納豆・味付け海苔の和食が一緒に出てきた。コーヒー、ご飯はポット・お櫃の入れ物ごとである。

私たちは食事を堪能した旨の謝辞を述べて宿を離れ、早朝の曽原湖を散歩した。湖を取り巻く遊歩道は落ち葉で柔らかい。カラマツ林にはまだ根雪が身を隠していた。木々の途絶えた地点から見はらす村に一条の煙がゆらいでいる。奥琵琶湖、余呉湖でみた風景だった。


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湖沼めぐり


曽原湖から少し南にさがると中瀬沼レンゲ沼があり、周囲が板歩道で結ばれて一時間あまりの探勝路となっている。10分ほどいくと小高い丘の展望台にでる。磐梯山の北面を背にして、淡い色合いをなす新緑がひっそりとした水面に写る。印刷物によくでてくる裏磐梯有数のカメラスポットである。ウグイスの声が飛び交うカラマツの林を歩くと小さな湿地に水芭蕉がその清楚な姿を見せる。まだ広がりきっていない幼い緑葉の中心に遠慮がちな純白の花が顔をのぞかせていた。尾瀬のような群生はみられない。

地図を見ると近くに別のカメラスポットの印があった。
小野川湖畔である。橋のたもとに車を止め二人連れの若者の後をついていった。若いカップルは太股まであるゴム長靴をはき釣り竿を手にしていた。奥まるにつれ釣り人の数が増えてきた。それぞれ自分のスタイルでただ無言で水面のわずかな揺らぎを捕らえようとしている。対岸には親子三人連れが浅瀬に入り、父親はまだ小学生と思われる息子に竿の投げ方を教えていた。

檜原(ひばら)湖は磐梯高原最大の湖である。冬はワカサギの穴釣りでにぎわうらしい。周辺にはキャンプ場もあり五色沼の出口にあたるバス停近くからは遊覧船に乗ることもできる。観光ずれしていて新鮮味がない。


五色沼

檜原湖南端と秋元湖の間の丘陵に散在する大小の沼を総称して五色沼という。各沼はコバルトブルーとエメラルドグリーンを基調にしつつも微妙に異なる色合いとたたずまいをみせていた。ガイザーとちがって、ここには硫黄の臭いや、赤・黄・茶・灰といった毒々しい色はない。

五色沼入り口にある
毘沙門沼は中の島を持つ大きな沼でボ−トを浮かべる行楽客で賑わっていた。磐梯山を雄大に映し、若葉に包まれた沼の水面はミルクで薄めた青さである。後ろを歩いていた子供が「バスクリンの風呂みたい」とつぶやいた。うまく言うもんだなと感心しながら私はその色をぜひ撮りたいと思った。

赤沼は緑色である。水辺に吹き寄せられた木の枯葉が沼を赤茶色に縁取っている。それ以外に赤味は見えない。

深泥(みどろ)沼は三色に分かれている。手前が灰緑、奥が深青、その間に茶褐色の帯びがある。藻らしきものが淀んでいて怪しげな緑の渦をかたどっている。五色沼の中では最も興味をそそられる沼であった。

竜沼弁天沼は木立にはばまれてその全貌をとらえにくい。垣間見るかぎりでは変哲もない感じがする。竜と弁天に結びつくものを探そうとしたが思いつかなかった。

瑠璃(るり)沼と毘沙門沼だけが道の南側にあり沼の向うに磐梯山を見渡せる。ベストスポットは歩道から少し奥まったところで、大きな岩を3個ほど踏み越えたところにベンチがあった。道からはベンチが見えない。カメラを2台ぶら下げて一人ごそごそ歩み寄ると、気配を感じて飛び立つ蚊や蝿のように若い二人連れがベンチから腰を上げて出ていった。私はベンチを一人占めして山を入れた沼の写真を撮った。水は瑠璃色だったかどうか定かでない。

青沼は青かった。風が強くて水面が波立つと光が乱反射して白くなる。なかなか一面が青一色になるまで風がおさまらなかった。肌寒いなかでしばらく我慢して、水面が穏やかになったところでシャッターを切った。水が青いのは普通のことでなにが撮りたかったのか自分でもわからない。しかし、とにかく写真を撮っておかねば不安だという気持ちは断ち切れない。


柳沼で最後である。毘沙門沼についで大きい。大きいだけで特徴がない。雨が落ちてきてあたりはかなり暗く沼の色は黒に近い。フィナーレにしてはややもの足りなかった。

探勝路を少し外れたところに
弥六沼があるが雨のためあきらめた。五色沼は季節や時刻によっても色が変化するという。よく晴れた日の朝や夕方はおそらく今日よりも鮮やかで美しい色合いをみせてくれるものと思われる。

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喜多方 

会津若松の「北方」にあたるのでこの名がある。蔵とラーメンの街としてテレビや旅行雑誌に取り上げられてからがぜん全国的に有名な観光地となった。漆や煉瓦造りでも知られる。

喜多方ラーメン
 

会津の喜多方ラーメンは、札幌・博多とならび日本三大ラーメンのひとつだそうで、市内には130軒ものラーメン店があるという。そのうちの一つ喜多方ラーメン館では麺の最終工程をガラス越しに見ることができた。黄色のペーパタオルのように帯状に巻かれた平麺がローラーで伸ばされ、細く縦に裁断された麺はちぢれて出てくる。長さ50cmほどに切られてビニール袋に押し込まれると、機械が袋とじをして下の箱に落としていく。

土産物の売り子に喜多方ラ−メンの特徴を聞いてみた。
「博多はトンコツで、札幌はミソですよね。喜多方はどこが違うんですか?」
「麺がちじれていてええー…」と、語尾上げ調の若い女の子は自信なげだった。
女の子によばれた店長が代わって説明してくれた。
「この地は酒や醤油造りが盛んで、飯豊(いいで)連峰からの伏流水がいいんですね。地元の醤油をつかったコクのあるだしが自慢なんです」
「トンコツとミソとショウユか……」私は頭の中を整理した。
そういえば自宅近くの草加バイパス沿いのラーメン屋で、博多と札幌と喜多方ラーメンの写真が掲げてあって、私はその中でなじみのない喜多方を注文したのを思い出した。妻に「喜多方ってどこ?」と聞いたものだ。二人とも知らなかった。

杉山集落
  

喜多方市街から北に6kmほど行ったところ、飯豊山地のふもとに19軒の蔵からなる山里がある。集落全体が蔵でできている。貯蔵のためや作業場としての蔵もあるが生活する家その物が蔵造りになっている。壁は真っ白な漆喰であったり、黄土色の粗壁であったりする。入口や窓の観音扉は3重のいかにも重い感じのする構造物ではある。蔵はその分厚い土壁のせいで夏は涼しく冬は温かいと聞いた。最近住宅業界でも「蔵」は一つの基本コンセプトになっているようである。

蔵の屋根、がそれぞれ少しずつ異なっている。兜形の屋根が特徴的である。壁は塗り直したての新しいものもあれば、殆ど昔のままに捨て置かれたような蔵もある。村全体としてはそれらがうまく調和して、観光資源としての保存区域をなしていた。ここでは半分が「小澤」姓である。おなじ山間の集落、近江の蛭谷ではすべてが「小椋」であった。

三津谷(みつや)集落
  

杉山集落から2kmほど戻ったところに数軒の赤レンガ造りの家が集った村がある。明治の時代にドイツ人技師が蔵の壁に赤レンガを使用したのが始まりだといわれている。従って同じ蔵でもデザインそのものが西洋風で、窓はアーチ型であり、玄関はバルコニー風である。入り口にシャンデリアがぶら下がっている蔵もあった。レンガの色はアズキ色したまだらな灰褐色である。
同じ蔵の里でも2kmの距離をおいて和洋二様式の蔵建築群が見られるのは面白い。

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喜多方市煉瓦館
  

三津谷集落から2分も行かないうちに煉瓦館の標識がでてくる。振り向くと北西の方角に雪を抱いた飯豊連峰が白く輝いていた。

明治中期の煉瓦師樋口市郎が作った7段登り窯を10段にして復興し、隣に資料館を建てたものである。屋根も水平を維持しながら数段に登っている。煉瓦煙突の上方にH.Cというイニシャルが読み取れた。Hは樋口の頭文字かと思うが定かでない。登り窯の姿は雪国のかまくらが階段状につながっているようで何度みてもあきない。

小奇麗な資料館にはいると二人の上品な婦人が出迎えてくれた。私たちが今日の一番客だった。館内には煉瓦の作り方が展示されていて、入り口付近は陶器の売り場になっている。三津谷焼きというのだが、作者はみんな素人だという。この地の陶芸クラブの会員が勝手に値付けして並べているのだそうだ。数は随分あった。先生と呼ばれる人達は30年以上のベテランで、案内役の婦人が示した某先生の作品にはいい値段がついていた。安いのは数百円の茶碗からある。
二人はどうもボランティアのようで、雇われている風にはみえない。「よろしかったらお茶をどうぞ」と、私たちが展示品を見ている間に茶椀を4つ用意していた。

会津漆美術博物館
  

会津漆器が蒲生氏郷による地場産業振興策の産物であることは冒頭で述べた。それが喜多方にも広がった。木地師がろくろでおわんやお盆などに形どったあと、塗り職人が漆独特の黒や朱の地塗りを行い、さらに蒔絵、沈金を行う職人の手によって芸術品にまで高められる。漆は1本の木から約200gしか取れない貴重品で、今はほとんどが中国からの輸入である。 
 
靴を脱いで入り口の広間に上がると受付机に正座した若い女性が早速展示品の説明を始めた。凝縮した油絵のように表面に凹凸のある大きな壷は見るからに毒々しく暗い赤緑色を帯びて、手で触れることがはばかれる。廊下を渡ると土産売り場に出てその奥はどっしりとした分厚い観音開きの扉が開かれた土蔵につながる。買いたいものがたくさんあった。妻は手鏡を、私は赤牛のベゴ人形を買った。

帰路は蔵屋敷あづまさを通ることになっている。大きな蔵造りの米穀商家である。天井近くに設けられた一段の棚には数組の古色豊かな雛や五月人形が並べられていた。近くに見れば素晴らしい古典ものにちがいない。

桐の博物館

市街のおよそ南西端に桐の下駄が円錐状に積み上げてある。
「桐も会津だったの!」
「桐は桐生じゃないのか」
二人ともいいかげんである。
それにしてもこの地方には名物品が多い。漆器、酒・味噌・醤油、蔵、ラーメン、陶器、煉瓦、そして桐。人を加えれば野口英世、蒲生氏郷、松平容保、白虎隊、そして小原庄助。

桐製品の最も古い例は東大寺大仏開眼供養の祝舞に使われた伎楽面だという。桐の輪積みトンネルをくぐって博物館の内部にはいるとまず真っ赤な獅子舞の面が目に入った。桐はその材質の軽さからまず面に利用された。琴も桐である。かって会津地方の農家では、女の子が生まれると桐苗を植え、花嫁になる時に成長した桐の木でタンスをつくって持たせてやった。桐は材質が固く火にも水にも強いだけでなくやさしくて気品がある。その他整理小箱、花器、茶筒、茶托、お盆、下駄など用途が多い。土産売り場にはそれらが沢山あった。

館内の展示で初めて桐の花なるものをみた。藤の花に感じが似ている。清少納言が枕草子で桐の花について書いていた。

桐の花、紫に咲きたるは、なほをかしきを、葉のひろごりざまうたてあれども、また、こと木どもとひとしう言うべきにあらず。唐土にはことごとしき名つきたる鳥の、選りてこれにしもゑるらむ、いみじう心ことなり。まして琴に作りて、さまざまに鳴る音の出で来るなど、をかしなど、世の常に言ふべくやはある。いみじうこそはめでたけれ。
桐の花が紫に咲いているのはやはり美しく、葉の広がりかただけはいやな感じがするけれども、また他の木などと同列に並べて論ずべきではない。中国ではおおげさな名前がついた鳥(鳳凰)が、選んでこの木にすむというのは、格別な感じがする。まして桐を琴に使って、そこからさまざまな音色が出てくることなどは、おもしろいなどと世間並みのことばで言えようか。たいそうすばらしいものである。

そういえば勲章に使われる皇室紋章は菊花と桐花である。

喜多方蔵の里
  

喜多方市内には2600棟以上もの蔵があるという。このような多くの蔵が造られたきっかけのひとつは明治の大火だった。一面の焼け野原の中に蔵だけが残った。普通は倉庫として用いられる蔵だが、喜多方では住居(蔵座敷)、店舗(店蔵)、工場、醸造場、寺院など、その形態は様々である。用途としての蔵ではなく、建築様式としての蔵である。

桐の博物館から数ブロック北にあがったところが蔵を集めた展示会場である。
穀物蔵、味噌醸造蔵、商家風の座敷蔵などがある。いずれも入ると重厚な威圧感に圧迫される。窓が少なく暗い空間は長時間の生活には馴染めそうにない。

121号線の漆美術博物館の近くは蔵造りの家屋が道をはさんで立ち並び旧街道の風情が強い。そこを観光用の二階建て屋根付き馬車がのんびり通る。家並みのなかで人目を引くのは
小原酒蔵で、モーツアルトの曲を聞かせて造った酒が自慢である。酒の胎教のつもりである。酒の名は「蔵粋」で「くらしっく」と読む。中にはギヤラリー「モーツアルト」を併設しているという、よほどのクラシック音楽ファンだったにちがいない。見学しておくべきだった。

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会津若松
 

日新館

街の北東、やや離れたところに会津藩校がある。砲練場、天文台、武術水泳のためのプ−ルも備えた規模、質ともに日本有数の学校であった。白虎隊の若者もここで学んだ。教室には師弟のモデル人形が配置され江戸時代の授業風景を再現している。何十畳もある大部屋の論語教室では実物の教師姿の案内役が正座していた。構内は孔子を祀る大成殿を中心として文武の教場が並び、小学校にあたる「素読書」から大学の「講釈所」まで儒教を中心とした総合教育がなされた。教育水準の高さは水戸の弘道館、薩摩の造士館とともに「天下の三館」と言われた。

大成殿をすぎて外に出た所が弓道場である。50名ほどの凛々しいいでたちの若者男女に出会った。土塀に囲まれた広場からはときおり歓声がわく。壁から1mほど離れた外側が線状に50cmほど土が盛られている。そこに登ると壁越しに中をのぞける仕掛けである。庭に面した道場の廊下に20名くらいが一列にならび順に弓を引いて矢を放っていた。数十メートル先の砂堤に並べられた的を狙う。全員矢をうち終わると砂堤の両側に控えていた若者が静々と一列にならんで中央に歩み寄り、一斉に膝を折り座った姿勢で矢を拾う。一人一的を担当する。矢を脇に抱えて退場するころには建物の廊下には別の一団が弓を携えて整列していた。粛々とした儀式が繰り広げられる。福島県弓道連盟の研修であった。

会津武家屋敷

会津藩城代家老酉郷邸を復元したもので、35室にも及ぶ広大な屋敷の敷地内にはこの他、中畑陣屋、茶室嶺南庵も併設されている。猪苗代の民族記念館でみた中流農家と名主階級の家が庶民の家屋だとするとこの武家屋敷は上流エリート階級の大邸宅である。日新館であったように、ここでも各部屋に配置された人形が臨場感を盛り上げるに一役買っていた。

男が篭城を決めたとき西郷家に残された婦女子21人は、足手まといになってはいけないと自決を選んだ。2才から9才までの幼子の命は母の手によった。この直後に西郷家に踏み込んだ西軍の土佐藩士、中島信行は、死にきれずに苦しんでいる美しい娘に出くわした。娘は兵士に「(お前は)敵か見方か?」と尋ねると中島は思わず「見方だ」と答えてしまった。断末魔に苦しむ娘は安堵して自らの刀を中島に差し出し、中島は涙ながらにその刀で若い乙女の願いに応えた。
その様を再現してある部屋を息が詰まる思いでみる。母に抱かれた幼児と若者の足もとにうずくまる長女細布子は凝視に耐えない。辞世の句も並び置かれてある。

頼母の妻 千恵子(36歳)
「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬふしはありとこそきけ」
頼母の妹 眉寿子(26歳)
「死にかへりいく度世には生るとも ますら武雄となりなんものを」
頼母の妹 由布子(23歳)
「もののふの道と聞しをたよりにて 思ひ立ぬる黄泉の旅哉」
頼母の次女 瀑布子(13歳)
「手をとりて 共に行なば迷はじよ」 上の句
頼母の長女 細布子(16歳)
「いざたどらまし 死出の山道」  妹の発句を受けて下の句
頼母の母 律子(58歳)
「秋霜飛んで金風冷かに 白雲去って月輪高し」

飯盛山

日新館と武家屋敷のほぼ中間に白虎隊20名の自決の場所がある。退却する白虎隊の少年は戸ノ口堰の洞門(弁天洞)を通って飯盛山の南側にたどり着いた。
墓地は山の中腹にある。街のなかに鶴ヶ城を見渡せる。その方角に煙の上がるのをみて20名の若者が自刃した。そのうち一人飯沼貞吉は命を取りとめ、白虎隊の最期を語り伝えた。線香が立ち煙るなかに19基の墓がたつ。

旧滝沢本陣を見て白虎隊記念館を過ぎると飯盛山に登るための動く歩道にでる。そこで100円ほど払わされた。たかだか50mほどのベルトコンベアを有料にすることもなかろうと思うが……。

白虎隊の話しは愛国心の象徴として捉えられやすい。戦前ドイツ帝国はこの地に記念塔を寄贈した。贈呈国は碑に愛国的な文を刻んだところ、戦後連合軍の知るところとなり、その碑文はのっぺらぼうに削り取られた。マッカーサーがいなくなってその一部が復刻されて今に至っている。
白虎隊の関知せぬ話しではある。


坂を下りる途中さざえ堂という奇妙にねじれ歪んで一見グロテスクな六角の堂がある。世界にもまれな建築物であるとされ、正面入り口から一本の螺旋状の傾斜を登ると戻ることなく背面の出口に降りてくるという。登る者と降りる人間がすれ違うことがない仕組みになっている。交通整理に効果的だし、秘密保持の方策として、プライベイト・バンクやラブ・ホテルに利用できそうな建築方式だ。



会津酒造歴史館

城の北口すぐ近くに構えるのは宮泉銘醸の一番蔵で、宮泉とよばれる井戸水が自慢である。まだ9時前で、えんじ色のはっぴ姿の女性がかいがいしく土産品を整えていた。
「もういいですか?」「どうぞ、どうぞ」
蔵の中が公開され、酒造りの歴史や行程などが判りやすく展示されていた。一人の若い女性が二人を蔵に招き入れ酒の造り方を説明してくれた。酒の種類は精米度により、純米大吟醸は玄米の60%を削り落とした白米からできるという。展示されている40%米は小粒の宝石のように丸く艶味を発していた。普通の純米酒の精米歩合は70%というから大吟醸がそれだけでも高価であることが理解できる。

酒造りの最高責任者を「とうじ」、「とじ」と呼ぶ。展示解説は「とうじ」の語源について3つの説を紹介していた。杜氏、藤次、あるいは刀自と書く。中国の書物に「杜康酒を造り始む。故に酒造者を杜氏という」とある。あるいは、むかし藤次郎という酒造りの名人がいてその名が転じて杜氏となったともいう。また日本の古書に「…大邑刀自、小邑刀自あり、今酒を造る者をとうじと呼ぶは、刀自なるべし」とある。

古代から酒を造るのはもっぱら女性の仕事だったので、老女という意味の「刀自」が杜氏になったのだという。広辞苑には「戸主(とぬし)の約。「刀自」は万葉仮名。@家事をつかさどる女性 A主に年輩の女性を敬意を添えて呼ぶ語 B… C…」とあった。
現に案内書には女性杜氏の酒蔵を紹介してあった。会津若松七日町の鶴乃江酒造、喜多方の清川商店、会津坂下の曙酒造。いずれも見学、試飲できる観光スポットである。

会津の酒造りには岩手盛岡の南部杜氏が貢献した。宮泉銘醸の杜氏も盛岡の人である。南部杜氏を育てたのは近江の高島商人であった。はじめ砂金を求めて遠野に出て行った村井新七はその後盛岡に商売の拠点を構えた。多くの高島商人が彼の後を追い、その中の一人小野権兵衛(後に改姓し村井権兵衛)が志和村で酒造りを始めた。どぶろくと言う濁り酒にかわって上方流の澄酒をつくりこれが大ヒットしたのである。やがて地元の杜氏が育ってゆき彼らは各地で活躍するようになった。越後・丹波の杜氏とならび日本三大杜氏と呼ばれている。

酒造見学の楽しみの一つが試飲サービスで、ここでも大吟醸を気前よく振る舞ってくれた。酒のつまみの漬物類も豊富でどれもかすかに辛味をきかした上品な味だった。ひとあたり試した頃には適度な酔いを感じる。朝酒でなおさらである。試飲した中でも濁り酒のサイダー割りは口当たりといい味といいカルピスのようでうまかった。女性にもいけそうだ。この濁り酒を一本土産に買った。

鶴ヶ城

氏郷最大の遺産である。黒川城に7層の天守閣を加え蒲生家の家紋である鶴を新しい城の名とした。戊辰の戦役で一ヶ月の篭城にも耐えたこの城は明治七年陸軍省の命令により取り壊された。現在の天守閣は昭和40年に再建されたものである。白壁がまぶしく雄大な姿である。


城内はゴールデンウィークとあって大変な人出で賑わいお祭り気分があふれていた。そのなかで、ちょび髭をたくわえ人力車をひく愛想の良い車夫が人気を集めていた。カメラを構えると職業モデルのように要領よくポーズをとってくれる。レンズに向かって微笑むようなことはしない。
本丸内には、土井晩翠が鶴ヶ城をイメージして作詞したといわれる「荒城の月」の歌碑があった。

そのちかくに
「麟閣」とよばれる茶室がある。千利休の次男、少庵が豊臣秀吉から逃れ会津領主の蒲生氏郷を頼ったとき、城内に建てたものである。
氏郷は勇猛な武将であるだけでなく、歌をよくし茶道に親しむ文化人であった。天正19年(1591)、千利休が秀吉の怒りに触れて死を命じられたおり、氏郷はその子、少庵を会津にかくまった。その後小庵は京都に帰って千家を再興し、宗左、宗室、宗守の3人の孫によって表、裏、武者小路の3千家に引き継がれていったのである。

会津と近江

今回の旅の目的の一つは、会津に近江のゆかりを訪ねることであった。
1590年、小田原城の北条氏を降した秀吉は、徳川家康や伊達正宗を牽制するために、北の要衝である会津黒川城に氏郷を据えた。氏郷は黒川城に入るとすぐに、故郷日野城近くにあった綿向神社の若松の森を偲んで黒川の地名を若松に変える。

氏郷は城下町を武士の住む郭内と町人の住む郭外とに分け、日野からつれてきた日野商人を城郭外北口から伸びる通りに住まわせた。一帯は日野町と名付けられたが日野町は「火の町」に通ずるというので後に甲賀町と変えられた。
甲賀町口には門跡を記す石碑が建ち、背後の石垣はただ1つ残る郭門の一部である。
氏郷は東北初のクリスチャン大名であった。蒲生氏郷の資料館としてその名を冠した「レオ氏郷南蛮館」がある。


氏郷は秀吉の朝鮮進攻出陣先の九州で発病し京都へ帰ってきた翌年1595年、40歳で惜しまれてこの世を去った。会津にきてわずか5年後のことである。遣骨は京都の大徳寺昌林院、日野信楽院、そして会津の興徳寺に分けられた。氏郷の墓は興徳寺境内に五輪塔として辞世の歌碑とともにある。

   限りあれば 吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山風

神明通りの東、NTTの西側だがいずれの側からも寺が見えない。一方通行の通りを2回巡って、結局車をすて歩いて探した。興徳寺は人から隠れるようにしてあった。車で行くにはまことにわかりづらい。

甲賀町から七日町通りにかけて近江商人ゆかりの店を訪ねることができる。
洋館の漆器老舗「白木屋(高瀬家)」、黒漆喰の店蔵「鈴木屋利兵衛」商店、そして中合百貨店(安藤家)等である。中合百貨店は福島の近江商人安藤呉服店が会津に出店して中村合名会社と称したものである。近江商人の遺産に限らずこの町にはよく保存された古い建物が多い。その多くが現役で活躍する老舗であるところが特徴的である。

2002年5月
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