強い地方分権、北にいくほど豊か。 ヴィンヤードからコーンフィールド。 スカーフ、スカート姿の農夫。 東西の交通要所、数多くの戦争の場 品数の少ないショップ・ウィンドウ |
スイスと良く似た国土、ワイン、ペイストリー 親切な人々 サライエボ事件、ヒットラーの生地 トルコの侵入 |
ビール…・バッドワイザーの故郷、あくの強いビール ミニスカート 水着姿で働く女性―労働奉仕で働く女学生か 貧弱なショーウィンドウの品物 |
ビールの話 チェコ共和国の国民は世界で一番ビールが好きな人達である。1998年の統計では国民1人あたり年間161リットルのビールを飲むという。1日平均約0.4リットルである。子供や病人、老人、女性を考慮して、仮に飲酒人口が全国民の3分の1だとすると、飲む人は毎日平均大びん2本飲む計算になる。2位はやはり酒の好きだった聖パトリックの母国アイルランドで、1人あたり年間151リットル、アメリカ人は13位でチェコ人の約半分となっている。日本は23位で57リットル、チェコと同じ想定をするとビールを飲む人は毎日平均約中びん1本となって私の場合に合致する。実はチェコとスロヴァキアが分かれるまでは2番であったが、年間平均85リットルしか飲まないスロヴァキア人と別れたおかげで、チェコはアイルランドを抜いて世界一の名誉に輝いた。なお国別の年間ビール消費量でいえば、1位がアメリカの226億リットルで東京ドーム18杯分のビールを飲む。2位は中国で196億、3位がドイツの105億、日本は健闘して第5位につけ1年で東京ドーム6杯近くのビールを飲んでいる。 ![]() |
テレジン(ナチス強制収容所)
次の38日目、私たちはプラハからドイツ国境の中間にあるテレジンの小さな要塞を訪ねて、歴史の暗黒部分を正視する時間をもつことになった。この要塞は北からの侵略にそなえてジョゼフ2世皇帝の時代、1780年に築造されたものであるが、19世紀からは要塞の役目をおえて軍隊の監獄として使われた。1939年3月15日、ボヘミアとモラヴィアを占領したナチスは1年後この要塞を強制収容所に変えてしまった。1941年早々に、最初の1500人の囚人が改装なった獄舎に到着して以降、1945年の5月まで4年余りにわたって、ユダヤ人のみならずロシア人、チェコの共産主義者、ジプシーなど何万人もの命がここで抹殺されたのである。無愛想な人々、男性的女性。 ゲーテ…フランクフルト、 ベートーベン…ボン |
ベルリン
コペンハーゲン
43日目は徒歩での市内観光である。首都コペンハーゲンの町は人口120万人で国の約4分の1がこの都市に集中している。コペンハーゲンは「商人の港」という意味で北海からバルト海への入口にあたり、海運と商業で栄えた。古くは北欧のヴァイキングの本拠地でもあった。清潔な落ち着いた町というのが私の第一印象であった。すべて英語で用が足り、教育水準の高さを感じさせる。旧市街は17世紀前半の時代、クリスチャン4世の独壇場である。ヘルシンゴーからフェリーで20分渡った対岸はスウェーデンの南端に近いヘルシンボリである。ヘルシンゴーとは最初の4文字(原語ではHからGまでの7文字)を共有している。何かの意味があるのだろう。人口10万人のちいさな港町である。紀元は10世紀の要塞の町であったが今はその塔が残るのみである。
この町には半日いただけで、翌日の大移動にそなえての時間調整という意味合いが強い。スエーデンについてのメモは残っていない。訪れた国の人形を買うことにしていたルールもここは省いた。ヘルシンゴーを半日見ただけでスウェーデンを見たとは、良心が許さない。
46日目、フェリーで西ドイツの北東の港町、トラベミュンデに上陸した。そこから中世の時代絶大な経済力でヨーロッパを支配したハンザ同盟の中心地、リューベックとハンブルグを通り抜け、一路最後の訪問国オランダに急ぐ。昼過ぎにはアムステルダムに到着した。
トップへ
北海に面した小村で凍り付くような寒い日に、子供が堤防の穴に腕をつめて国を救った話を小学校のときに読んだ。今その場所はスパーンダムで、少年の名はハンスであることを知った。オランダはネーデルランドという言葉のとおり、国土の4分の1が海面下にある低い国である。面積はスイスやデンマークとほぼおなじでアムステルダムのある北ホーランド州とハーグやロッテルダムのある南ホーランド州に分かれる。私たちが見たのは北のオランダである。国土がせまく土地が平らであるため自転車利用がさかんで、国民1人あたり1台以上を持つ自転車王国である。
最後のページのメモには「チューリップ、チーズ、木の靴、水車」とあるだけで印象は何も書かれていなかった。日本が鎖国時代に親しくしていた関係で、国民の対日感情はよい。1ギルダーは約120円でドイツマルクやスイスフランと等価である。
ホテルにチェックインをすませ夕方までバスでの観光である。郊外をさきに見ることにして市内は明日自由に見る予定になっている。オランダ名物の水車は年々少なくなって、郊外までいかないと見られなくなってしまった。近づくと古い小屋のようなものなのだが、運河をあぜ道にした田園の遠景に複数の水車が配置されている風景はオランダでしか見られない魅力的な絵である。
チーズ小屋を見学する。南ホーランド特産の黄色の円盤状に固められたゴーダ・チーズと、北ホーランドの赤い球状のエダム・チーズが知られている。私たちが訪ねたところはゴーダ・チーズを作っているところで、ほんのり黄色く焦げ目のついた鏡餅のように丸くまとめたチーズの固まりに、焼きごてで印をつけてできあがる。それを幾重にも重ねてリヤカーで運びだす。チーズは新鮮なミルクのように香ばしく歯ごたえがありながら歯にまつわりつくような粘りがあった。
北の郊外、アイセル湖に面した村フォレンダムを訪れる。子供の絵本にでてくるような小さな漁村である。見るからに小さな家のなかをのぞくと、ナチス強制収容所でみた3段ベッドよりも狭くるしくて、ウサギの小屋よりも小さく思えた。日本の家の狭さを恥じることはない。村には伝統衣装と木靴を身につけた人をよく見かける。男は黒一色で頭に小学生の学生帽のような小さな帽子をのせている。女も黒のワンピースに縦縞のはいった長いエプロンをして頭には先のとんがった看護婦の帽子のようなものをかぶっている。男の帽子は「屋根の上のバイオリン弾き」にでてくるユダヤ人のそれにも似ていた。いずれも色彩に乏しい地味な衣装である。
その村の木靴を売っている店にはいると、目の前で彫って見せてくれた。みやげに絵柄のはいったミニ木靴と粗削りの実物大のものと2足買った。大きいほうは逆さまに架けられるフックが付いていて領収書入れにもなれば、花瓶がわりにもなりそうだ。
店の前に真っ赤な大きい木靴が無造作に置いてあった。大きすぎて盗まれることは心配していない風である。妻に記念写真を申し出た。いつもは風景の一部だが今度は人物本位の写真を撮ると告げた。バレリーナのように大きくハの字に脚を開いて、妻は会心の笑顔を作ってみせた。
夕食後の自由時間のときに飾り窓の女を見学することにした。旗をもつ添乗員のあとをついていく団体行動ではなく、あくまで自由行動の一部である。ジーダイクといわれる周辺がその場所である。運河沿いの柳の並木に囲まれた、京都先斗町のような狭い路地に、レースのカーテンを左右にゆわいだ窓が並んでいた。額縁の中のモデルのように足をくんだ女、タバコをふかす女、立ち上がって手招きをする女、化粧中の女などがいる。カーテンが閉まっている窓は営業中というサインである。
運河にかかった橋の上から望遠レンズを窓の方向にむけて覗いていると、どこからか男の声がして、あわててカメラをしまった。偶発的なでき事だったのか、私に対する警告だったのか。あたりが暗くて声の主を見つけることができない上に、何を言われたのか理解できないからさっぱりわからない。とにかく、それを無視しつつシャッターを押す勇気はなかった。あの時、1枚くらい撮っていても時間は1秒もかからなかっただろうし、シャッターの音だって聞こえなかったはずである。にもかかわらずおとなしく引き返したのは、はじめからうしろめたさを感じていたのだと思う。
47日目、終日気の赴くままに町を見て歩く。アムステルダムは北のベニスといわれるように160もの運河と1000をこえる橋の町である。ガラス張りの屋根つき遊覧船が絶え間なく運河を廻っている。船の乗客と運河沿いのニレ並木を歩く人と橋の上から手を振る人達の間で交歓がおこなわれる。
通りや橋の上から手回しオルガンの軽やかな音楽が流れてくる。現地語でストラート・オーヘル、英語でストリート・オーガン、日本語では街頭オルガンという。この音色はアメリカのカウンティー・フェアにはつきものの調べである。外見を仰々しく飾り立てたおもちゃのパイプオルガンをリヤカーに積んだ紙芝居やのようなものだ。それが17世紀そのままの家並みと運河とめがね橋にマッチして町全体を愛らしい雰囲気で包んでいた。気に入った町の順位をつけるにあたってヴェニスとハイデルベルグをあげたが、どうやら3番目はアムステルダムにきまったようである。
建物の外観をながめているのも楽しい。中央駅は東京駅の原型であるらしいが私にはコペンハーゲンの中央駅のほうが似ているように思われた。家の造りにも特徴があって、まず幅がせまく4階建てまで高いつくりになっている。これは昔の家屋税が家の幅を基準にしていたために、ダッチ一流の合理性があみだした工夫であった。高くせずに奥行きを深くすると京都の商家のつくりになる。家の上部に細長い棒が手前に突き出ているのは、家具その他の荷物の出し入れを狭い急な階段をさけて、外の窓から行うために荷物をつるす滑車を取り付けるためのものであるという。屋根の切妻にも特徴があって、3角の2等辺が階段状のもの、直線のもの、あるいはベル状の形をしたもの、肩から首がでているようなもの、単純に水平にきったものなど様々である。とくにベル状のものはデンマークやスエーデン、そしてプラハでもよく見かけたように思われる。異国情緒を感じさせるたたずまいである。
アムステルダムはユダヤ人の多い町である。西のエルサレムともいわれるようにヨーロッパのユダヤ文化の中心地でもあった。ここで生まれた17世紀の哲学者スピノザもユダヤ人である。アムステルダムがダイヤモンド研磨産業の中心であることもユダヤ人と関係している。
運河沿いのアパートのような建物の天井裏に家族とともに隠れ住んでいたアンネ・フランクは、1942年から44年の8月ゲシュタポに見つかって連行されるまで、自分の思春期の記録を日記に書きつづった。ただ1人生き残った彼女の父親によって戦後の1949年に出版されたその日記は50ヶ国語に翻訳されいまだに世界のベストセラーに名をつらねている。映画「アンネの日記」で見た、ドンデン返しの本棚や、窓下に連れ去られていく人々を見下ろすシーンや、息詰まる部屋の生活などがよみがえって来る。なかでも初潮を迎えておとなになったアンネが、天井窓から空を眺めるラストシーンは彼女の行く末を知っているものの心を痛めずにおかない。アンネ・フランクはバーゲン・ベルセン・キャンプに連れて行かれ1945年3月、そこで発疹チフスのために15歳の若い命を終えた。連合軍がドイツを解放する2ヵ月前のことである。
トップへ
トップへ |