ナッソー

カンクン

バハマ諸島 ナッソー(1984年10月)    

マイアミまで飛び、そこで乗り換えて大西洋の小島につく。タックス・ヘイヴンとして幽霊会社がたくさんある所だが、観光リゾートとしても人気がある。700もの島からなるバハマ諸島は1973年に独立した英連邦の一員である。人の住む島は30あまりある。アメリカがまだ独立していなかった頃、海運の中心地であったロードアイランド植民地との通商が盛んであった。商売には奴隷売買や海賊行為も含む、互いに巨利を分かち合う間柄であった。

首都ナッソーがあるニュープロヴィデンス島の名はロードアイランド植民地の首都プロヴィデンスからきているのかどうか。長さ30km、幅10kmの小さな島で、観光は1日あれば済む。海岸沿いのベイストリートが繁華街で麦わら帽子や藁細工、貝のネックレスなど土産物を売る商店が並んでいる。ナッソーは世界最大の藁の市場だそうで
ストロー・マーケットという一角がある。店先はポーチや2階のベランダがアーケイドをなしている。建物は植民地時代の香りが漂う瀟洒な造りが多い。

フィンキャスル要塞は1793年に築かれ、石ブロックが舟形に囲んでいる。そこから「女王の階段」と呼ばれる70段ほどの石段を降りると、高い要塞の石壁と、木の茂った崖に挟まれた路地に出る。建物はなく、そこでもバハマ人の親子が藁帽子を石垣や路上に並べて売っていた。

町の西はずれに
アルダストラ庭園がありそこでフラミンゴの群れに出会った。群れの中に入っていっても人を恐れる様子はなく、折れそうな細い脚に長い首を姿勢よく伸ばして悠然と散歩している。足から頭まで全身がピンク色なのが南国らしい雰囲気である。首と頭だけを眺めていると、ピンク色の豆もやしが生えているように見える。

私たちが泊まったのはベイストリートの北向かいに橋を一渡りしたところのパラダイス島で、ホテルやカジノ、そしてゴルフ場があるだけの、ナッソーの前庭のような所であった。浜辺のホテルに泊ったのだが風がきつく肌寒い日であったので、日光浴もせず子供の砂遊びにつきあうだけにとどめた。それでも明子は水着になって海に入りたかったようである。剛哲は私の望遠レンズのフードで砂をすくうのが気に入ったようだった。

パラダイス島の東沖に「海の庭」という海底庭園がある。船底がガラス張りの「ノーティラス号」というショウボウトに乗って海底庭園を中心に近くの海底散歩を楽しんだ。バハマ諸島海域の海は浅いことで知られていて17世紀以来、スペイン、フランス、イギリスの探検家や商船、移民・奴隷を乗せた船が数多く座礁して沈んでいる。またこれら特異な海域を利用して海賊の出没する場でもあった。多くの遭難のなかには事故もあれば海賊の餌食になったものもあったのであろう。19世紀になっても原因不明の沈没や行方不明、幽霊船ともよばれる遺棄船の事例が世間に知られるようになって船乗りに恐れられるようになった。第二次大戦以降、船舶だけでなく飛行機までも消失してしまう事件が起きて、ついに「バミューダ海域の謎」として現代の世界七不思議にまで発展してしまった。

バミューダ海域とは西大西洋のバミューダ島、プエルトリコ島、フロリダ半島を結ぶバミューダ・トライアングルをいう。 バハマ諸島はこの三角形の、左の頂点の内側にあたる。もともとバミューダ島周辺は魔のサルガッソー海とよばれ、海難の多い地域として知られていた。幽霊船は子供の頃の漫画によく出てきたが、船体には異常が無く、水や食料も残され、時には食事の準備がされた状態で、人だけがいなくなっているのだ。この謎がまだ解けていないのである。

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メキシコ・カンクーン (1998年正月)     

ニューヨークを含め2度目のアメリカ駐在も8年目に入った。1度目が6年半であったからそろそろ帰国の内示があってもおかしくない。アメリカ紀行もまだ行ってみたい所は残っていたが、北米に通算15年近くいてアメリカ国外を見ておかないのも惜しい。子供の友だちの父兄から、バンフ・カルガリーのカナディアン・ロッキーがよかったとか、メキシコのアカプルコやカンクーンに行ったとかいう話がつたわってくる。

この冬休みが恐らく最後のチャンスであろうという予感がして、カンクーンのパック旅行に4人で参加することにした。車は運転しない。行く場所も、泊る所もプロに任せてある。私はカメラをさげて集団のあとをついているだけでよい。その分、費用がかさむことになったがやむをえない。是非ともパスポートにメキシコ国のスタンプが欲しかったし、アメリカ・インディアンとは違う、マヤのインディアン文化を見ておきたかった。



マヤ文化

マヤ文化はメキシコ、グアテマラ、ホンジュラスおよびエルサルバドルに縦長く広がった文化をさす。インカ帝国のような「マヤ帝国」という統一国家はつくられなかった。3万年ほど前、まだベーリング海峡が地続きであったころ、モンゴル高原からシベリアにかけて生活していた私たち縄文人の祖先が歩いてアメリカ大陸に渡ってきた。

一部の人たちは最寄りのアラスカで豊かな海の資源に魅せられ、一部は北米の大平原や森林で鹿やバッファローを追うことに決め、他の一部の人たちは中米のジャングルにはいっていった。最も好奇心と体力の旺盛であった人たちは遠く南米まで足をのばし、アンデスの高地に帝国を築くことにしたのであった。エスキモー、アメリカ・インディアン、マヤ文明、インカ帝国の順に、南にいくほど文明度が高くなっているように思えるのは偶然か。

およそ2万年前、中米の各地にちらばり狩猟採集をはじめたアジア人はやがてトウモロコシを発見し栽培に成功した。トウモロコシによる農耕を開始した彼らは定住性を強め、生活が豊かになるとともに文明の扉を開けていったのである。

メキシコ市から数10キロの所に「神々の座」と呼ばれる太陽のピラミッドや月のピラミッドなどを有するティオティワカンがある。紀元前2世紀ごろに建設された古代マヤ文明最大の都市遺跡である。8世紀にティオティワカンが滅亡した後、メキシコ中央高原には多くの都市が作られるようになりトルテカの時代にはいる。

13世紀になるとアステカがメキシコ盆地に入り、自らを「守護神メシの民」、メシカと呼んだ。メキシコという国名の起源である。このメシカ(アステカ)王国はスペインに征服されるまでの3世紀の間隆盛を極めることになる。

一方、7世紀のころ中部低地にいたマヤ人たちの一部は、北部ユカタン半島へ移動して、チチェン族はチチェンイッツァー、ウシ族はウシュマル、そしてマヤパンなどという都市を築いていった。その後チチェンイッツァー、ウシュマル、マヤパンの3都市の間で合従連衡が繰り返されたが、12世紀の終わりにマヤパンがこの地方を統一した。1441年にはウシ族とチェチェン族の連合軍が取って代わる。
私たちの訪ねたのはこの土地であった。

16世紀にはいって銃と聖書と伝染病を携えてやってきたスペイン人により、インカもマヤの文明も滅ぼされる。スペイン人は銃によって土地を奪いインディアンを虐殺し、金や銀を持ち帰ったのである。厳寒の地アラスカだけが難をのがれた。

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チチェン・イツァ(Chichen-Itza)


チチェンイッツアは7世紀から13世紀前半にかけて栄えたマヤ文明最大の都市遺跡である。カンクンから車で2時間あまり内陸にいったところ、ユカタン半島のほぼ中央部の密林の中にある。道中、地元マヤ人たちの住む町をいくつか通りすぎたが、沿道で物を売る人たちは一昔前の日本人の体型ににて、みんなズングリムックリして背が低かった。

遺跡群は7から10世紀の旧チチェンと、10から13世紀の間に造られた新チチェンの2つの区域にわかれ、ピラミッドや球戯場など有名な遺跡は新しいものである.


カスティージョ(ピラミッド)


ツアーガイドが最初に案内したのがカスティージョ(城)とよばれるピラミッドであった。実際に見る初めてのピラミッドである。

エジプトの四角錐にくらべて、頂上に神殿をもつインディオのピラミッドは天に吸い込まれていく高さを感じさせない。実際、クフ王のピラミッドが高さ146mであるのに対し、この城は23mにすぎず、また4面には階段を設けあくまで上まで登ることを想定している。人を寄せつけない砂漠の孤高のピラミッドとは対照的である。

側面の階段はそれぞれ91段で、頂上の台部に至る。全部足すと91x4+1=365で、1年間の日数となる。思ったよりピラミッドの傾斜は急であった。1段の高さもしっかりある。妻と明子が中ほどで休んでいる間に剛哲は頂上まで登っており返してきた。私も中段まで登った。振り返ると地上の人々が垂直下に見え、下半身に悪寒が走った。高所恐怖症に「慣れ」という処方箋はない。


この階段の最下部にククルカンという羽毛のあるヘビ水神の頭部が飾られている。年に2回、春分と秋分の日になると、太陽が階段にヘビの形の影を浮かび上がらせ、ククルカンの神体を完成させる。

マヤに限らず中南米のインディアン文化は天文・暦学と密接な関係をもっていた。次にみるのがその極めつけである。


カラコル(天文台)


長方形の石造り神殿の階段(カラコルとはスペイン語でカタツムリの意)をのぼるとテラスに出て、そこに高さ13mのドームが立つ。360度展望できる天文台である。内部は

展望部まで登ると四方に広がるジャングルが見渡せた。ユカタンのジャングルは熱帯雨林のうっそうとしたものでなく、中位程度に背ぞろいの木々が地平線まで広がっている感じである。大蛇や野獣が飛び出してくるおそろしげさがない。

内部には観測用の穴が穿たれていた。いくつかの穴は特定の位置に照準を合わせている。真南、春分と秋分の日没、そして金星の観測用などだ。春分と秋分の日は、先述のピラミッドに蛇神の影を落とす日として特に重要な意味を持つ。


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球戯場

カスティージョと並んで有名なのが球戯場である。長さ168m、幅70mの長方形のスタジアムで、両端は演壇になっていて、王や貴賓が席をとった。一方の端と170mもの先の他方の端との間で、ささやき声で会話ができるという。また、左右の壁の間で手を叩くとその反響音が正確に7回聞こえるという。それは風の方向や日の高さによっても影響をうけない。この音響効果の秘密はまだ解き明かされていない。

そのような高度に科学的な解説を聞いた後の話しは、なんとも血生ぐさい非科学的なはなしであった。球戯場の壁にバスケットボールのリングを縦にしたような石の輪が取付けてある。ボールをそこに通すと点を得る。1チーム7人づつの2チームで争われる。おもしろそうな球技で、そこまではよい。

ところで試合後、勝った方のキャプテンの首が負けチームのキャップテンにより切り落とされ、神に捧げられるのである。球戯場の壁にはそれを示すレリーフが残っていて、首を切り落とされた跡から噴き出した血が7匹のヘビに変わっている。
神に首を捧げることによって天国への切符を手に入れたことになるのだそうだ。このような名誉に浴しなかったものは天国へ行くには13階段を上らなければならない。

天国への切符を手に入れるため、一軍の将はどれだけ、勝利することにモチベイトされたものか、内心負けることを祈っていたのではないか。
また一方で、自軍の大将の首を捧げるためにチームの選手はどれだけ勝つことにこだわったものか、上司と部下の人間関係によって個々の選手の勝負に対する対応は様々ではなかったか。

生き残りがおればぜひインタビューして聞いてみたい疑問である。
神を信じない者の浅はかな妄想だろうか。神はときに人心をもてあそぶ癖があるらしいが、それにしても罪なルールを考えたものだ。


ツォンパントリ(髑髏の城)


球技場の近くにツォンパントリ(髑髏の城)と呼ばれる石垣がある。戦争捕虜の刎首をその石垣の上にならべ、髑髏のレリーフを彫っていったという。球技場で勝ったキャップテンの首も仲間入りしたのか、どうか。マヤの神は首だけですませない。

チャックモール


この土地では雨の神チャックが信仰された。どこの古代世界でも貪欲な水神はいたが、ここの神はとりわけ人の血を好んだ。犠牲になった人の心臓をチャックモールという、膝をたてて座る石像の腹部に供えたのである。
チチェンイッツァーには、ピラミッドの内部や円柱列の「戦士の神殿」のほかにもチャックモールがあるが、ながめていて気持ちのいいものではなかった。

捕虜や志願者、処女や子供の他、誰がそのような生け贄になったのか、どのような方法でえらばれたのか、幾人の命がドラキュラのようなマヤ神の犠牲になったのか、彼/彼女らは本当にエクスタシーを感じて死んでいったのか。疑問はつきない。

戦士の神殿と千本柱の間

戦士の神殿も平らな頂上部をもつピラミッドである。上部にはチャックモールが待っている。神殿の前は千本柱の間で、長方形をかたどる3つの部分からなっている。南側は大きな建物によって封鎖された形になっている。この建物は「市場」とよばれ、かっては柱の上に屋根を乗せていた。

尼僧院

尼僧院とよばれる一群の遺跡は上層階級の住居であったと考えられている。入口の装飾が今まで見たどの建物よりも華麗で、豪華である。30cm平方ほどの石壁一枚ごとに浮き彫りと彩色がほどこされていて、遺跡群のなかではもっとも保存状態がよい。1つの建物の中に入ってみたがひんやり湿ったかび臭い空気が顔をおそい、奥まった通路は真っ暗で足元がおぼつかない。

セノーテ(泉)

ツアーの締めくくりにも1度マヤ文化の影の部分を確認することになっていた。
ガイドにつれられていったところは、木々に囲まれてやや低まった場所にぽっかり大きな口をひろげた泉だった。口の直径は60mで水面まで13mもある。水はかなり深そうで、緑の水が不気味な静けさを囲っている。

この地方の土壌は保水性に欠け、土地は常に乾いた状態にあり、川というものがない。アマゾンや中央アメリカのジャングルのようなうっそうとした大樹が育たないのもそのせいであろう。人々は地下水を求めて井戸を掘る。あるいは天然の巨大な井戸が地表に向けて口を開けることもある。

この泉はその一つで「聖なるセノーテ」といわれ、小さな祭壇が設けられている。そこから、神に捧げるために子供や処女が犠牲として投げ込まれた。他のセノーテの底からも人骨や装飾品などが発見されているという。

動物を犠牲として屠ることは今でも行われている宗教儀式ではある。場所によっては、この犠牲の原型は人間だった。生身の体にかえて犠牲を埴輪に進化させた民族もいたが、マヤでは最後まで生きた人間にこだわった。

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ツルム


カンクンから日帰りの距離にもう1つのマヤ遺跡がある。パケッジには含まれておらず、ホテルからレンタカーでいく。繁みに隠れるようにあるチチェンイッツアと異なり、遺跡入口の2マイル手前にマヤ人の住むツルムの町があって、ギフトショップや小さなレストランがならんで観光客でにぎわっていた。


ここはカリブ海に面し断崖を背にした城壁都市であった。13世紀のころには漁業と交易の拠点として栄え、マヤ文明へのゲートウェイとしての地位を占めていたらしい。スペイン人が海から最初にこの町をみた印象はセビリアのようだったという。
ツルムの遺跡は19世紀から20世紀にかけて、マヤの一宗教セクトによって占領され、女教祖がそこの神殿で呪術を行なったこともある。

60を越える遺跡を抱くツルムの町は三方を石壁によって囲われていた。内部は社会のエリートだけが住み、庶民はジャングルに通じる壁の外側に住んだ。
正門らしき分厚い壁をくぐって城内にはいると、そこはチチエンとは対照的に、潮の匂いが吹きわたり、厳しい陽射しをさえぎる木々さえほとんどない広大な野原であった。
チチエンのようにまとまった壮大な建築物はないが小ぶりの建物の残骸があちこちに点在している。

崖縁にそって3つほどのまとまった遺跡がほぼ等間隔に立っていた。神殿、城、天文台のたぐいであることはチチエンと同様である。垂直に切り立つ崖の下は白砂とコバルトブルーの海が延びる。ツルムの支配者は、陰気なチチエンの住民が羨むような、開放的で素晴らしい風景をエンジョイしていたのだろう。ここでもチャックモールがあったのか、どうか。忘れてしまった。



セルハ(Xel-Ha)

ツルム遺跡から車で15分ほどの近くにセルハとよばれる、かってはマヤ人のカヌーが集る港だった入り江に開発された広大なリゾート遊園地がある。世界最大の天然水族館をはじめ、色彩豊かな熱帯魚を相手のスノーケリングや、セノーテから出てマングローブの森を流れる冷たい川、洞窟、ジャングルの探索など、自然のままでこれだけのアトラクションを揃えられる恵まれた場所である。午前をツルムにあて、午後日暮れまでここでリラックスすることにした。


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カリブ海の旅