アケーディア国立公園(1981年夏)  

ニューヨークでの最初の夏休みである。最初にどこに行くかについては、日本では見られない雄大な自然をみたいという、おおまかな方針をたてておいた。友人の話しによると、初心者にはナイアガラとアケーディアがおすすめだという。ナイアガラはニューヨークから直行の飛行機便が頻繁にでていて、行こうと思えばいつでも一泊旅行ができる。最初はまずアケーディアからと決まった。ニューイングランドという、アメリカの故郷を思わせる言葉が好きで、そこを早い機会にみておきたい気持ちも強かった。

目的地に至る途中の訪問候補地については、往路でだいたいの感じをつかんでおいて、帰路で時間のゆるす限り寄り道して帰るのが私の方法であった。

コネティカットの都市は通り抜ける。ロードアイランドのプロヴィデンスから南に下った岬にニューポートという、かって捕鯨と交易で財をなした富豪の、豪奢なマンションが立ち並ぶ町がある。寄り道の第一候補地である。

マサチューセッツに入いる。プリマスに行くには途中からかなり東に寄り道しなければならない。そこはメイフラワー号に乗った清教徒が上陸した地点で、アメリカ植民地時代の故地である。ボストンを含めマサチューセッツの大西洋岸は、日本の奈良や京都に相当する古都であっていずれ歴史探訪の旅にくるであろう。ボストンも通りすぎる。この辺りの家並みはニューヨークやコネティカットの郊外に見たものとは違って、いくぶん小ぶりで古さを感じさせるように見えた。

いよいよメイン州にはいる。この州は南北にながく、北半分は三方をカナダと接している。州の南入口からおよそ80キロ北上したところがポートランドの町である。距離をのばして目的地まで行きたかったが日が暮れてしまった。宿をさがすには、町の数マイル手前か越えたところで降りるのがコツである。ローカルの道にはいり、最初に「ヴェーカンシー(空室あり)」というサインを見つけたところへ車をよせて、チェックインの手続をとった。

翌朝ポートランドの町を軽く見てまわった。白い尖塔の教会が簡素でよい。ヨーロッパ旅行を通じて、ゴシックの仰々しい大聖堂には食傷気味であった。アメリカの田舎の教会をみると、すき焼のあとの茶漬けのようなさっぱりした気分がする。赤煉瓦を敷き詰めた舗道に設けられた花壇には花が咲き乱れ、煉瓦造りの建物とよく調和してヨーロッパの雰囲気があった。

ポートランドから東へ200キロ、いよいよ目的地に近づいてきた。ハイウェイから離れてアーケディア国立公園に通じるローカル道に沿って、捕りたての活きたロブスターをその場でゆでて食べさせる店が並んでいる。店先には赤や青の浮が飾り付けられて、潮風とともに漁村の素朴な香りが漂ってくる。

ここはメイン州の大西洋岸、野球のミットのような形をしたマウント・デザート島を中心とした国立公園である。この土地には6千年もの前からワバナキ・インディアンが住みついて、冬は森にはいって狩猟し、夏は海岸にでて魚を獲っていた。1604年フランスの探検家サミュエル・チャンプレンが草木もみえない岩山に上陸し、この島をマウント・デザート島と名づけた。その後この地域はニューフランスと呼ばれるようになる。

それから16年後の1620年、102人の英国清教徒をのせたメイフラワー号がマサチューセッツのプリマスに到着して、東部海岸の植民地が開拓されると、その一帯はニューイングランドと呼ばれることになった。北に根拠をもつフランス勢力とボストンを拠点として南に植民地を広げようとするイギリス勢力の狭間にあって、マウント・デザート島の土地にはいずれの側からも積極的な植民活動がなされなかった。

1759年、イギリス軍隊はフランス軍をケベックに破り、ニューフランスの呼称はニューイングランドに吸収され、マウント・デザート島の土地にも本格的な入植が始まった。ながらく漁村として静かな生活が続いたこの土地が、新鮮な魚と美しい風景をもつ観光地として東部の富裕な人々に知られるようになるのは、さらに百年後の19世紀半ばのことである。

ロックフェラー、モルガン、カーネギー、フォード、ヴァンダビルトといった当時の新興財閥一家が夏をここで過ごすようになった。その後もアメリカの産業革命をになった事業家によりアケーディアには豪華な夏の別荘が建てられ、バー・ハーバーを中心にして魅力ある町つくりが進められることになった。1919年ウィルソン大統領によってミシシッピー川より東の地域としては初めての国立公園、ラファイエット国立公園が設立された。1929年に名をアケーディアと変更して現在に至っている。

島といってもかっての半島の先端が氷河のいたずらで孤立してしまっただけで、半日もあれば周囲や中央のパークロードをドライブしてみて回ることができる。気にいった所があれば何度でも来ればよい。西洋人として最初にこの島をみつけたフランスの探検家は砂漠の山と名づけたが、それはたまたま草木のない山肌の斜面だけが彼の視野にはいったのであった。

実際山にわけいってみると、木々に囲まれた湖や池があり、クリークが流れ出る緑のやわらかな湿原があり、あるいはただの赤い岩の階段であったり、実に変化にとんだ島である。ちいさな谷川には手作りの味を残した石橋がかけられていて、島全体がひとつの庭のように、手入れが行き届いている。海岸は絶壁もあれば海水浴ができるきれいな砂浜もある。

入りくんだ地形は港にも適していて、東岸のバー・ハーバーの他に島の海岸線に沿って、シール・ハーバー、バス・ハーバーなど八つの港がある。小さな漁港ではあるが、いずれの港もけなげでかわいい。私は漁港の風景が好きである。昼間で港に人の動きは少なかったが、碇泊している漁船や甲板にひきあげられた浮や網、そして巨大なねずみ取りのようなロブスター籠がニューイングランド北端の漁港の風情をかもし出していた。一番大きな港がバー・ハーバーという、端正な港である。19世紀の終わりのころはこの町に30ものホテルが建設され、避暑地の観光客で賑わっていた。

ここに宿をきめて町を散策することにした。桟橋の先までいってしばらく潮の匂いのなかに身を任す。ここからの朝日を見逃すべきではないと自分にいいきかせる。
食事が旅の目的ではないといっても、目の前にある土地の特産を避ける理由はない。盛りだくさんの魚介類のセットにクラム・チャウダーとフライド・ポテイト、それにビールを飲めば豪華な夕食になった。ロブスターは2パウンド、およそ1kgの大きさだ。溶かしたバターに浸けて食べる。味はカニにくらべるとすこぶる大味で、またカニのような甘味がない。バターの塩けがなければ1キロは食べきれない。

とにかく満腹以上の食事を終えて夜の商店街を散歩した。貝殻類の製品が多い。私は山伏のほら貝大の巻き貝を買った。内側は鮮やかなピンク色に貝殻特有の銀色の光沢を放っている。ピンクと肌色のたて縞に無数のイボがならんだ夏みかんのような球状の貝殻が目をひいた。ウニの殻だそうで、イボはウニのとげ痕だった。色といい形といいフローレンスのドゥオモ(大聖堂)の大円蓋に似ている。貝の下の口から電気コードが出ている。電源をいれると貝の中にとりつけられた豆電球がともり、貝殻全体が暖かな赤味を帯びた幻想的な光を放つ。卓上の飾り物としてはひじょうに結構ではないかと、それも買った。妻は大小の様々な貝のばら売りを寄せ集めていた。結局アケーディアの土産は貝ばかりとなった。

翌朝、妻と子供がベッドで熟睡しているころ、私はカメラと三脚を持って1人モーテルを抜け出し、昨日ねらいを定めておいた港の桟橋の先端まで出かけて行った。三脚をセットして夜明けを待つ。東方の暗闇の海に漁船が数隻浮かんでいる。昇る朝日の逆光をうければいい絵になるであろう。しばらくして海面が輝き出した。船のシルエットが浮かび上がる。10分もすると海一面が表情をあらわにして、夜明けの風情は急速に衰えてくる。その間に数枚シャッターをきって、私の朝一番の仕事が終る。

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ホワイト・マウンテンズ(1991年夏)   
 
ダートマス・カレッジ

BASICというコンピューター言語がある。フォトラン、コボルとかいうプログラミング言語がはやったときそれらの基礎となったもので、学生や初心者むけのものであった。私にとっては初めて接した、そして今でも理解できる唯一の言語である。それをアメリカ北部辺境にある小さな大学が開発した。名をダートマス・カレッジという。

ダートマス大学はアメリカで9番目に古い大学で、独立前の18世紀後半、ウィールコックが地元のインディアンに教育を与える目的で設立した。彼は資金集めのため、最初の生徒であったモヘガン族のサムソン・オコムをイギリスへ派遣し、ジョージ三世国王やダートマス伯爵の援助をうることに成功した。

ダートマスはアイヴィー・リーグのなかで唯一の「カレッジ」で、それにはかたくななこだわりがある。ウィールコックの死後、大学の経営を引き継いだ息子のジョンは規模の拡張をめざして大学を州立とし、名前を「ダートマス・ユニヴァーシティ」に変えた。従来の「ダートマス・カレッジ」を守ろうとする教授や学生と、ジョンとのあいだで3年にわたる裁判闘争を経て、最高裁判所は「ダートマス・ユニヴァーシティ」を無効にした。

カレッジはインターステート91号線を真っ直ぐ北上し、ヴァモント州からルート10aで川を越えてニューハンプシャー州に入ったところにある。夏休みで、広くはないキャンパスはひっそりとしていた。この暑い時期、旅行も帰省もせず寮にいのこっている学生たちの生活を、自分の学生時代をおもいかえしつつ想像してみた。日本であればアルバイトで過ごす生活派、彼女の部屋に入り浸っている軟派、あるいは自由な研究や読書の毎日を楽しむゆとり派、スポーツや文化活動に汗をながす部活派などになる。アメリカには別の夏休みがあるのだろうか。

ときたま通り過ぎる学生の手には本やノートを携えているものが多かった。アメリカの夏休みには、補習講義で休み中に単位をかせぐ過ごし方がある。あるいは大学がサマースクールとして寮やキャンパスを業者に貸与して、他学校の大学生や高校生に開放することもある。6月から9月まで3ヵ月、アメリカの夏休みはながい。

キャンパスから出ようとするところは豊かな木々にかこまれた住宅区域であった。ひっそりとした池をたたえて全体が公園のようでもある。この池は先述のインディアン学生、サムソン・オコムの名をとってオコム・ポンドとなづけられた。冬には凍結して学生たちのスケートリンクとなる。

池にそってゆっくりドライブしていたとき、黒々した犬と散歩をする女学生をみた。彼女が池に棒切れをなげると犬が嬉々として水にとびこみ口にくわえて帰ってくる。しっぽをふりふり彼女にわたすと再び投げ入れられるのを催促するかのように彼女にすりよる。彼女はさらに遠くへ棒切れを放り投げる。辺りにはだれひとり二人の平和をみだすものはいない。こころよい夏のけだるさだけがただよっていた。私は車に乗ったままで、気づかれないように望遠レンズで2度シャッターをきった。メルヘンチックに出来上がり、気に入った一枚である。

1日目の宿はストーン・ブルックという小さな町のこぎれいなホテルであった。地名のとおり、丸い石ころだらけの小川が流れている。庭を散歩していると同宿の家族づれが川沿いの裏庭でバーベキューの準備をしていた。5歳くらいの子供から70くらいのおばあさんまで、三世代の家族旅行のようだ。沈みつつある夕日の逆光をあびて、全員の髪の縁がまぶしく輝いていた。


今回の目的地はホワイト・マウンティンズであるが、これは山岳・森林地帯を示す地方の呼び名であって一帯がスキーのメッカである。それらの山の一つマウント・ワシントンは標高1900m弱で、東北部、つまりニューヨーク以北、アパラチア以東での最高峰である。東南部にはマウント・ミッチェルというミシシッピ以東の最高峰があった。それでも標高2005mであるから、いずれにしてもともに古いアパラチア山脈に属するおだやかな山である。

山じたい夏場にとりたてていくほどのところでもないが、周辺にはひろく夏のバケーショナーのためのスポットが散らばっていて、AAAでもらったガイドブックを参考にしながら無作為に見て回るという旅であった。途中で流れが地下にもぐるというロスト・リバー、自然に形成された老人の顔をした岩で知られるフランコニア・ノッチ州立公園、サンタの村、1kmほどのSLの旅、白樺と白ペンキのカバード・ブリッジや教会など。

マウント・ワシントン・ホテル

最後の宿泊地はブレトンウッヅにあるマウント・ワシントン・ホテルである。町のはるかかなたからこのホテルが見えた。薄ぐれの山影を背にして、赤屋根と白壁の対照がビクトリア調の優美な姿をくっきりと浮かび上がらせていた。

このホテルは由緒が古い。開業は1902年で、日本では日英同盟が成立して鹿鳴館ファッションが全盛のころであった。イタリアから職人250人をよびよせ技術の粋を凝らした。当時随一のホテルとしてニューヨークやボストンから多くの有名人や富豪をもてなした。ベーブルースのゴルフ・ロッカーもそのままある。

特に1944年、ホテルは44カ国の蔵相をもてなし、金1オンス35ドルの米ドル金本位制が決められ、世界銀行と国際通貨基金IMFを創立してブレトンウッヅ体制がきずかれた。
その後所有者には変遷があったが今でもホテル専用の電話システムと郵便局をもち、今年100周年を祝う。

Golden Pond

帰路は東によってインターステート93号線を南下する。ホワイト・マウンティンズ地方の南隣、レイク地方は270あまりの湖池をいだく別荘地帯をなしている。
そこのスクアム湖で映画「黄昏」が撮影された。原題は
「On Golden Pond」。以降、スクアム湖よりもゴールデン・ポンドの名で知られるようになった。


主人公は老夫婦とその娘。実年齢76歳だったヘンリー・フォンダは地で行っている感じだった。足元がおぼつかなくなり、ときとして記憶がうすれるようになった自分を認めようとしない父親。彼を傷つけないようにはげます妻キャサリン・ヘップバーン。そこに実の娘でもあるジェイン・フォンダがあらわれる。この映画だけでなく、実生活でもこの父娘は仲が悪かった。映画では最後に互いを理解しあう。

ヘンリー・フォンダとキャサリン・ヘプバーンはそれぞれ1981年度のアカデミー主演賞を獲得した。撮影後体調を崩した父親にかわって主演男優賞のオスカー像は娘のジェインが受け取った。娘は初めて公の席で自分の父親に敬意を払う。娘と和解したヘンリーはその半年後77歳の生涯を閉じた。

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ニューポート(1982年6月)


ロードアイランド州の超高級住宅地ニューポートを見に行くことにした。ロードアイランドは1636年、マサチューセッツ植民地での信仰の強要を嫌ったロジャー・ウィリアムズが、宗教の自由をもとめて逃れて来てナラガンセット・インディアンの土地であったプロヴィデンスに作った植民地が始まりである。

米国で最初のバプチスト教団、クエーカー教会所、ユダヤ教シナゴーグはみなこの植民地で創られた。全米最小のこの州の正式名称は「ステート・オヴ・ロードアイランド・アンド・プロヴィデンス・プランテーションズ」という全米最長の名前を持つ。アメリカの独立の年1776年にプロヴィデンスは東部13植民地のなかで最初に英国に対して独立を宣言した。アイヴィー・リーグのメンバーであるブラウン大学が1764年ここに創設されている。

ニューポートはナラガンセット湾に浮かぶ小島の先端にある。毎年夏にはジャズ・フェスティヴァルが開かれ、世界的なヨットレースであるアメリカズ・カップの開催地でもある。この土地はそのハイソサイヤティーのイメージで知られているが、歴史はかならずしもそんなにきれいなものではなかった。

植民地の発展は造船から始まった。やがてジェームズタウンなど他の植民地やカリブ海との海運が盛んになり17世紀の終わりごろには英米間貿易の中心地となった。私掠船や海賊船の基地ともなったのは自然の成り行きである。18世紀中頃がニューポートの全盛期であった。ニューポートの商人たちはインディアンやアフリカ人の奴隷商いにも従事していたのである。そこから奴隷取引きの中心地であったバハマやバミューダ諸島へ送り込んだ。ニューポートから送られてくる奴隷でも、インディアンはいうことをきかないので送り返し、柔順なアフリカ奴隷だけを引き取ったという話しが伝わっている。

ニューポートからの独自の輸出品は地元のキャビネット職人が作った家具だけだったとさえいわれている。独立戦争が始まると商売はボストンに奪われニューポートは次第に落ちぶれていく。しかし温和な気候と恵まれた風景は失われることなく、夏の保養地としての名声を確立していった。

この海沿いの
ベルビュ・アヴェニューに豪華な邸宅や別荘が富を競うように建ち並んでいる。ニュオーリンズに旅したとき各所で見たプランテーション・ハウスを一ヵ所に集めたような所だが、それよりも成金趣味が格段と強い。時代がプランテーション・ハウスの全盛期よりも半世紀以上下っているとはいえ、両者には田舎の大地主と大都会の新興成金との違いがある。ベルコート・キャスルやシャトウ・シュルメールなどは文字通り、城そのものであった。

マンション巡り

「ベルコート・キャスル」は1894年、オリヴァー・ベルモントが当時の最高の建築家リチャード・ハントに建てさせた、60室もある夏の別荘である。リチャード・ハントはパリ美術大学で建築学の学位を与えられた初めてのアメリカ人で、アメリカ建築家協会の創設者でもある。フランス留学のときからベルサイユやロワール渓谷のシャトウに傾倒していたリチャード・ハントは、ヨーロッパから300人の職人を雇い3年がかりで300万ドルを投じてヴェルサイユ宮殿のような豪華絢爛な別荘を建ててしまった。

オリヴァー・ベルモントの父親オーガスト・ベルモントは、金融財閥ロスチャイルドの支援をうけてアメリカに拠点を開き、銀行家として莫大な財をなした男である。母は、黒船に乗って日本に開港を迫った、ペリー提督の娘であった。城内はロココ調の内装や家具のみならず家族用のチャペル、ロシア宮廷のシャンデリアが下がる300人入りのイタリアルネッサンス風大バンケットホール、中国趣味の机や磁器、英国風図書室、日本の屏風など、手当たり次第に思いつく限りの贅をつくしている。見終わってみると無思想な秀吉趣味の城という感じであった。

奴隷をつかった農業財閥にすぎない南部の金持ちは、そこまでしなかった。その例がジョージア、サヴァンナのプランテーション経営者ジョージ・ジョーンズが建てた
「キングスコート」であろう。1839年のもので現存しているマンションの中ではもっとも古い。「ベルコート・キャスル」よりも55年古い建物ではあるが、それを割り引いたとしても小振りの木造建築、内部の調度品、装飾を凝らした木工家具・建具などはルイジアナのプランテーション・ハウスで見たものに近かった。また設計が復古ゴシック様式を得意としていた英国人リチャード・アプジョンによるものであったことも影響しているのかもしれない。

「マーブル・ハウス」はヴェルサーユ宮殿のプティ・トリアノンをモデルにした。プティ・トリアノンはルイ15世のポンパドール夫人、ルイ16世時のマリー・アントワネット、そしてナポレオン一世皇后マリ・ルイーズが愛した小離宮である。
コリント式円柱がささえるポーチの奥はホワイト・ハウスを思わせる白大理石の瀟洒な建物である。黄金の間とよばれる金づくめのボールルーム、イタリアのシエナから運ばせたクリーム色大理石の玄関ホール、ピンク紫のまだら模様の大理石で統一された大食堂など、贅沢の限りを尽くした意図がみてとれる。それにマッチさせる家具や彫刻、その他の装飾品もいかに豪華であったかは言うまでもない。

「ブリーカーズ」は16世紀の北イタリアの宮殿に似せて建てられた。1892年に最初のブリーカーズが火事で焼失したので、こんどは木をいっさい使わない、石とレンガと鉄のみで造り、70室あるニューポートで最大のマンションを完成させた。70室の内33室は使用人の部屋で、いつでも200人の客を招いても外部の助けを借りずに応対できたという。ブリーカーズはリチャード・ハントにとって最後の作品となった。かれは1895年、落成式を見ずにこの世を去った。又コルネリウス・ヴァンダビルト二世もブリーカーズの完成後1年たったときに心臓発作におそわれ、3年後に56歳の若さで他界する。世が20世紀に入りつつあったころのことである。

ウィリアム・K・ヴァンダビルトとその兄、コルネリウス・ヴァンダビルト二世は(コモドール)コルネリウス・ヴァンダビルトの孫にあたる。

(コモドール)コルネリウス・ヴァンダビルト(1794‐1877)は汽船と鉄道で巨万の富を築いた当時一番の富豪である。汽船王という意味で通称「提督(コモドール)」を付けて呼ばれる。ニューヨーク、スタッテンアイランドに生まれた。一隻の小さなボートを買ってスタッテンアイランドとマンハッタンの間で海運業を始めたのが16歳のときであった。やがて汽船会社を設立して大西洋沿岸とハドソン川の海上輸送を独占するようになる。1849年から始まったゴールド・ラッシュにはニューヨークの探鉱者をサンフランシシスコに運ぶため、ニカラグワを横断する東西航路を開発した。鉄道事業にも乗り出し1865年にはハドソン川鉄道を買収し1873年にはシカゴまで達する鉄道網を支配するに至る。彼の事業拡張と成功の裏には強引な手口やいかがわしい取引などにまつわるエピソードがあって、ロックフェラーやハーシーなどで聞かれる美談がない。彼の唯一の社会貢献として、死のわずか四年前に、テネシー州ナッシュヴィルの大学に100万ドルの寄付をして、ヴァンダビルト大学と名を変えたことだけが伝わっているのみである。

彼の孫の内、二人はニューポートにマーブル・ハウスとブリーカーズというマンションを建てた。もう一人の孫ジョージ・W・ヴァンダビルトは、ノースカロライナ州、アッシュヴィルにさらにスケールの大きなビルトモア・ハウスを建てている。これにもリチャード・ハントが関わっていた。そこは後ほど、ブルーリッジ・パークウェイで立ち寄ることにする。

同じベルビュ・アヴェニューにはその他、1901年建築の「エルムズ」、1902年完成のローズクリフなどがある。ベルビュ・アヴェニューは超高級住宅街といった平凡なものでない。ヨーロッパの城や宮殿の一部を集めた展示会場であった。ここに比べれば、ロスアンジェルスのビヴァリー・ヒルズなど、中流階級の庶民街にすぎない。

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プリマス(1992年3月)  
(ボストンを含む)

南のウィリアムズバーグやジョージタウンを中心とするヴァージニア植民地と、このプリマス、ボストンを中心としたマサチュウセッツ植民地は米国発祥の古都として日本の奈良や京都に相当する。



明子がまだ幼かったころ、三人でこの町を訪れている。この近くのプリマスプランテーション公園と、近郊のオールドスターブリッジという公園の二つを見てまわったが、秋の季節で、もみじが美しかった。夜明け前に一人モーテルを抜け出て、朝焼けの風景を撮る習慣はこのときから始まった。

今回は四人連れである。旅行シーズンでもないのになんとなくプリマスに向かった。外は、今にも雪が舞い落ちんばかりに寒い。プリマスは人口が五万人ほどの小さな町で、風光明媚というわけでもない。ただ子供にアメリカ歴史の原点を学ばせるために、いつかは来なくてはならない所であった。

着いてみると、一軒の土産物屋も開いていない。湾に浮かぶメイフラワーの復元はビニールシートで覆われて休業中であった。付近を散策して歴史の証人を求めてみる。そこにいたのは初代知事、ウイリアム・グラッドフォードの銅像と、
プリマス・ロックという上陸地点を記念する岩だけであった。

アメリカの子供たちは小学時代に、
メイフラワー、ピルグリム、そしてインディアンと感謝祭のことを、色かえ品をかえていやというほど教えられる。
以下は私のための備忘録である。

16世紀、イギリスではイギリス国教会を信じないセパラティスト派(分離派)と呼ばれた人々が、異端視され弾圧を受けていた。この迫害から逃れるために、彼らは、宗教寛容政策を取っていたオランダ・アムステルダムへ向かう。そこで自由な生活を楽しめるはずだった。

ところが、行って住んでいる間に、移民としての仕事上の差別や、オランダの生活に慣れた結果信仰心の低下という問題がでてきて、彼らは新たな移住先として新大陸のアメリカを選ぶことになった。

彼等は一旦イギリスに戻り、ヴァージニア植民地に定住する許可を得た。当時、ヴァージニアとよばれるイギリス領土は、二つの特許会社によって開拓されることになっていた。一つはノースカロライナからニュージャージーまでを担当するロンドン・ヴァージニア会社と、ニューヨークからメインまでの権利を得たプリマス・ヴァージニア会社である。ピルグリムズはプリマス会社からは特許をえられず、ロンドン会社から入植の許可を得た。

1620年の7月、イギリス・サザンプトンからアメリカに向けて、「スピードウエル号」「メイフラワー号」の二つの船が出発した。ところが、まもなくスピードウエル号に浸水が発見され、結局、102人の清教徒と27人の船員を乗せて、メイフラワー号のみが単身ハドソン河口を目指すことになった。

メイフラワーは9月9日、目的地よりはるか北のケープコッドに上陸した。66日の航海ののちメイフラワーはプロヴィンスタウンに碇を下ろした。その日に男性の間でメイフラワー・コンパクトが調印された。しかし、プロビンスタウン周辺には定住に適した場所がなかった。小船が組み立てられ沿岸を探検するうちに、プリマスに適地をみつけ12月11日、そこに上陸、メイフラワーは16日プリマスに到着した。植民地の建設が23日に始まったのである。

船旅の後の疲れ、新鮮な食料の不足に加え、ニューイングランド地方の冬の寒さが人々を襲い、。最初の冬で半分ちかくが死んだ。
インディアンとの最初の出会いは翌年3月で、メインに住むアベナキ族のサモセットが村を訪れ「ようこそ、イギリスの人々」と英語で話しかけてきた。彼らは毎年コッド(タラ)を捕りに来るイギリス人から英語を習っていたのだ。それがきっかけとなり、プリマス周辺に住むインディアン、ワンパノアーグ族の大酋長・
マサソイトの訪問となる。

1621年5月21日、両者は平和条約に調印して50年にわたる友好な時代が始まった。これはアメリカにおける最初の相互条約である。ウイリアム・グラッドフォードが初代知事に選ばれた。

マサソイトを初めインディアンたちは、清教徒の人々に、魚場、鹿や七面鳥の捕まえ方、にしんを土にうめて肥料にして農作物を植えるやり方、豆やコーンの栽培などを教えた。秋になり、収穫の時期を迎え、ウイリアム・グラッドフォードは収穫とインディアンの援助に感謝を込めて大きな収穫祭を開き、マサソイトをはじめ90名以上ものインディアンを招待した。50人の白人と90人以上のインディアン3日にわたって盛大な祭りを祝ったのであった。

これが後の感謝祭(サンクスギビング)の起源となった。

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モントーク、ロングアイランド(1985年夏)
  

アメリカ人はヴァーケーションだからといって、短い期間にあちこち動き回ったりしない。私のヴァケーションはいつも家族同伴の写真撮影旅行となって、一個所にとどまるということがない。一生ここに住むわけではないから、できるだけ多くの土地をみておこうと考える。しかし、幼い子供を二人連れて、私の気の向くままに忙しくついてまわることに、妻もようやく疲れてきたらしい。「今度の夏休みはどこかでゆっくりのんびりしよう」と言い出した。

ひとしきり地図をながめた挙げ句、それでは海の見える砂浜で一週間カメラをはずして思い切り体を焼いてみようと考えた。セントルイスにいた時、デュボイス博士がナンタケット島のことを好んで話してくれたことが頭の片隅に残っていた。ナンタケットにかえて、隣の島のマーサズ・ヴィンヤードでもよいと博士は言っていた。

ともにロードアイランドの東方、ケイプコッド半島の南の大西洋に浮かぶ島である。大洋の小島で一週間をすごすことは極めて贅沢な遊びであった。実際身近にきて詳しくそれらの島を知るようになって、そこは有名人の集まるハイ・ソサエティーの、夏の別荘地であることがわかった。ケネディーは大統領時代、夏になると家族そろってそこで過ごした。ケネディーの国葬を敬礼で見送った末子ジョンが自家用飛行機で、マーサズ・ヴィンヤード島の手前の海に墜落したことはまだ記憶に新しい。クリントン大統領も毎夏、ヒラリー夫人とチェルシーを伴ってマーサズ・ヴィンヤードにやってきた。

ハイシーズンにそれらの島で1週間宿をとることは、難しいばかりでなく庶民には贅沢すぎることが判明した。かくて私たちの滞在地は、それらの南方に位置するロングアイランドの先端、モントークに決まった。島も半島の先端も、気分に大差はなかろう。

ロングアイランドはマンハッタンから東にカニの爪のように長く伸びた島である。手前はダウンタウンのベッドタウン化しているが、しばらく行くとニューイングランドの香りが高い町並みや広々としたビーチがつづくリゾート地帯となっている。

車で1時間ほど行くと3km以上にもおよぶボードウォークを設けたジョーンズビーチに着く。そこから、サウスハンプトン、ブリッジハンプトン、そしてイーストハンプトンという高級避暑地がつづく。これらの場所は、ロバートレッドフォード主演の
「グレートギャッツビー」の舞台にもなった。

サウスハンプトンはブティックやアンティークショップ、カフェ・レストランが軒を連ねる小奇麗な町である。イーストハンプトンの町にはいって目をひいたのがヨーロッパの田舎を思わせるような
風車であった。

ハンプトンズからさらに車で1時間東に行くとロングアイランドの最東端に行き着く。その町がモントークで、別荘が建ち並び港にはたくさんの船が並ぶスポーツフィッシングのメッカでもある。東端に立つ
モントーク岬灯台はニューヨーク州最古の灯台で、夕方には真っ赤に染まる大西洋が見事である。

落ち着いた浜辺には子供の騒ぐ声は聞こえてこなかった。ゆっくり流れていく時間の中で、大人たちは広めに自分の縄張りを決めて、ビーチチェアーにただ横たわっている。波音も、その単調な反復はセミの鳴き声に似て、かえって静けさを増す。
目を閉じて、肌を焼く太陽の熱と、肌を伝う汗の流れを感じるのみである。汗が全身を覆うようになると、海に浸かって体温を下げ、再びチェアーに寝そべって体を陽に入れる。

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ニューイングランドの秋 (1993年10月)

ニューイングランドの秋を見るには10月上旬のコロンバス・デイあたりがよい。場所は森さえあれば選ぶ必要がないほど紅葉がみごとである。ハイウェイをさけてパークウェイを走れば森はどこにでもある。その中でも、池があり水鳥がいて子供が楽しめるアトラクションを求めるならば、ウェストチェスターからコネティカットにはいったところのオードボーン・センターと、コネティカットからマサチューセッツに入ったところのオールド・スターブリッジがよいと思う。

オードボーン・センター
   ニューポートを含む)

ウェストチェスターからタコニック・パークウェイを北上する。なだらかな丘を縫うパークウェイは燃えるような紅葉のトンネルをいくつもくぐりぬける。ルート44を東にとり、アメニアでルート343に移ってコネティカット州にはいる。道路ナンバーがルート4号線に変わるとすぐにシャロンという町にはいる。

シャロン・オードボーン・センターは国立オードボーン協会という、1902年に設立された世界最古で最大の自然環境保護団体によって所有・運営されている。同協会はこのほかにカリフォルニア、オハイオ、ウィイスコンシンなどにも同様のセンターを持っている。

オードボーンは1785年タヒチで、現地の女とフランスの船長の間に生まれた。子供のころから野鳥の絵を描くのが好きで、細密画のような野鳥の水彩画集『アメリカの鳥』で知られている。

森に囲まれた二つの小さな湖のほとりに遊歩道が設けられ、野鳥のさえずりと、橙色の秋の日差しを受けた水鳥の姿を楽しむことができる。湖水に色づいた木々が映って、秋の色のコントラストを倍にしていた。紅葉の林にわけいるようにして板張りのサイド・ウォークを歩くと、板のきしむ音が静寂を破って水鳥を驚かせる。家族連れや双眼鏡を胸にかけたバードウォッチャーがそれぞれのペースで散策している。ニューイングランドの秋の風景を楽しむには条件がそろった穴場だ。

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オールド・スターブリッジ  

スターブリッジの町の西に「オールド・スターブリッジ村」がある。ここは「明治村」のようなテーマパークでたくさんの人出で賑わう。19世紀のニューイングランドの農村生活を再現したもので、約1平方キロ近くの広大な敷地には牧場で羊が群れ林の中を小川が流れ、水車が回って粉をひいている。池のくびれをまたいでいるのは、ヴァーモント州のとある村から運んできたカバード・ブリッジ(木の屋根や壁で蔽われた橋)である。村の大通りを星条旗を掲げた軍隊が鉄砲をかついで行進し、一日数回空砲演習を行う。男の衣装は職業により様々であるが、女はそろって前にフリルをつけた白いキャップをかぶり、あごの下に紐でくくりとめている。村人達は実際そこで一日を生活しているのであって、見世物のように突っ立っているのではない。

教会は真っ白な六角錘の尖塔をもち中央に時計台をしつらえギリシャ風の柱がポーチを支えている。白色でそろえた木造建物で、ポートランドでみた教会の印象と違わなかった。1832年にスターブリッジにたてられたバプチスト派の集会所だという。村はずれには1796年にボルトンに建てられたクエーカー教徒の集会所があった。銀行の建物はコネティカット州トンプソンに建てられたものをここに移した。唯一の石造建築であるかじ屋はボルトンのもの、山小屋のような学校はニューハンプシャーのキャンディアに建てられたもの、その他焼き物の窯やターバン、雑貨商店、病院などすべてニューイングランド地方にあった実際の建物を移動させて復元したものである。羊、山羊、牛、鶏、豚も勿論本物である。

この村はテーマパークというよりも総合博物園といったほうが正確であろう。売店は村の入口にあるのみで、村の中にはレストランやみやげ物屋は一切ない。かたくななほどに村の復元にこだわって商業主義を排しているのが好ましかった。時代設定は産業革命前夜の時代であって、17世紀の開拓時代のような隔世感はない。近くのプリマスには開拓時代の村の生活をみせる公園があるが、こことは時代設定の違いで棲み分けているのであろう。2世紀の違いを比べるには両方をみるのも面白い。ともに教育的な場所である。

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ナイアガラ滝(1982年7月)

独立記念日の3連休を利用して、グランド・キャニオンの次に憧れていたナイアガラの滝を訪れた。アメリカを代表する自然の驚異とはこの二つであると思っている。ヨセミテやイエローストーンは言ってみれば大人の味で、目を見張る絵のように美しい風景ではあるが、鳥肌を立たせる凄みを感じさせない。グランド・キャニオンとナイアガラは足をすくませる圧倒感がある。

ナイアガラ滝は、谷が雨水をためて川になり、川底が途切れたところで流れが落ちるという教科書的な滝ではない。既に満々と川を集めた四つの湖の水が、他の湖に向って一挙に流れ落ちるのだ。琵琶湖の唯一の出口である瀬田川が、唐橋のあたりで突如50m下に落ち込んでいる光景を、規模を数倍にして想像すればよい。古く、最後の氷河期の時代に蓄積した堆積物が、氷の溶解とともに滝の崖を削り取っていった。過去12,000年の間に11kmもナイアガラ川を短くし、滝はオンタリオ湖から遠ざかっていった。

ナイアガラという言葉はイロコイ・インディアンの「海峡」という語に由来するという。世界の淡水の5分の1を擁するというミシガン、ヒューロン、スーペリア、エリーの四大湖の水がすべてナイアガラ川にでて滝に落ち、24kmの渓谷を経て五大湖の最後であるオンタリオ湖に注ぐ。オンタリオ湖の水はセイント・ローレンス川となってカナダのモノリオール、ケベックを通り大西洋に出るのである。

ナイアガラ川は次の三つの滝に分かれて落ちていて、ナイアガラ滝はそれらの総称である。
アメリカ滝(プロスペクト・ポイントと月の女神の島との間)。
花嫁ヴェールの滝(月の女神の島と山羊島の間)。同じ名の滝がヨセミテにもある。
カナダ滝/馬蹄滝(山羊島とテーブル岩の間)。

米加双方あわせた、いわゆるナイアガラ滝は、幅が1.1km、水量は秒速2840立法メートルという。琵琶湖の貯水量は275億立方メートルといわれているから、ナイアガラ滝の水を約1000万秒(112日間)注ぎつづけると琵琶湖をみたすことになる。一方で琵琶湖の水が一循環するには7年かかるそうであるから、ナイアガラ滝を落ちる水量は瀬田川を流れ出る量の20倍以上という計算となる。
膨大な水量であることを言いたかった。

カナダ、オンタリオ州とアメリカ、ニューヨーク州の境界をなすナイアガラ滝は年間1200万人の人が訪れ、世界でトップのハネムーン・メッカでもある。アメリカがナポレオンからルイジアナを購入した年の翌年1804年に、ナポレオン・ボナパルトの弟がアメリカ人の新妻を連れてナイアガラを訪れた。これがナイアガラの名をハネムーナーの間に一層広がらせた。夜はライトアップされて瀑布がオーロラのような幻覚をさそう。マリリン・モンローの『ナイアガラ』や『スーパーマン』の映画でもなじみの場所だ。

ナイアガラ滝はロマンチストだけではなくてアドベンチャラーも誘惑する。樽にはいってこの滝を流れ落ちる物好きな冒険家が絶えないが、初めて成功したのはなんと63歳の女性教師であったという。滝を横切る綱渡りもまた冒険家の挑戦心をそそるらしい。

さて、私が行った日は雨で、「霧の乙女号」という遊覧船でカナダ滝の直下までいく冒険には参加しなかった。正直に話せば、グランド・キャニオンを初めて目にしたときの、息を呑むような感動がナイアガラにはなかった。期待が大きかっただけに失望も大きい。今考えてみると失望は必ずしも雨のせいではないようだ。晴天であったとしても――こんなものか――と思った可能性がある。

これだけの自然の驚異と人気を併せ持ちながら、ナイアガラは最古のニューヨーク州立公園ではあるが国立公園ではない。ナイアガラ川の中央でアメリカ、カナダの両国国境線がひかれていて、人気のあるカナダ滝は国境のカナダ側に落ちている。アメリカ滝だけでは国立公園にするには物足りない、とでもいうのだろうか。かといってカナダ滝も含めてナイアガラ滝全体をアメリカの国立公園にするわけにもいかないだろう。ちなみに、カナダにも45の国立公園があるがナイアガラは含まれていない。

その点ユネスコという国際機関が決める世界遺産は人類の共通遺産として、国の主権を気にすることはない。ナイアガラは国立公園でなくても世界遺産に間違いなかろうと思って調べてみた。ナイアガラとならんで世界三大瀑布とよばれるヴィクトリア滝はザンビアとジンバブエの国境にあるが両国の国立公園であるとともに世界自然遺産であるし、ブラジル・アルゼンチン国境のイグアスの滝も、同じく国立公園であり世界自然遺産にも指定されている。ところがナイアガラ滝は国立公園でもなければ世界自然遺産でもなかったのである。

私の推理では、ナイアガラが国立公園でない本当の理由は次のようなことではなかったかと考えている。国立公園であるためには広大な自然のひろがりと様々な自然の営みがみられるか、あるいは重要な歴史的資産を所有している必要がある。ナイアガラはかっては十分なほどに国立公園としての条件を備えていたが、19世紀から始まった産業革命は、豊かな水資源を求める資本家の要請にこたえて、ナイアガラ川流域を工場地帯に変えてしまったのである。

都市のど真ん中に突如視界が開かれて、巨大な水流の陥没があらわれる。ナイアガラの自然はあくまで限定的で、広がりが周囲の人工物で遮られている。五大湖という絶好の産業地帯に生まれたことが、ナイアガラ滝の悲劇であった。それでもハネムーンのメッカでありつづけられるのは、皮肉にもそれが、都会のなかで見られる数すくない大自然の驚異であるからなのだ。

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アメリカ東部の旅 その1

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