矢橋港は伯母川と狼川の三角州間にあって、琵琶湖が最も湾入した地点に所在する。南は近江最大の港津・大津に面し、西は比叡山の門前町坂本およびその外港にあたる坂本三港に面している。また東は矢橋道を経由して、東海道に通じ、宿場町草津に達する。  本港の古代における様相は、明らかでないが、中世には志那、山田両港とならぶ軍事的要港として重視されたことが「源平盛衰記」他の文献から推測される。そして近世に至って、草津宿の興隆、東海道の交通量の増大に伴って、本港の重要性は一段とたかまった。天正6年(1587)、織田信長は安土水害視察に際し、その往復路を松本津と矢橋港の湖上水路をとり、徳川家康も慶長5年(1600)の関ヶ原戦、慶長19年大阪冬の陣、元和元年(1615)大阪夏の陣にあたって、本港を利用するなど、大津への短捷路として、湖南における主要な渡し場となった。  しかし、本港も近現代の交通体系の変革や琵琶湖の水位低下等が起因となって衰退し、その旧状を失うに至った。 ところが昭和57年〜昭和58年にかけて、発掘調査をするに及び江戸時代の本港の実態が解明されるに至った。すなわち本港は、奥行約90m、幅約65mの規模で琵琶湖に開口するもので、港内に湖中へ突き出す2基の石積突堤と港湾南端から湖岸
に平行して築かれた石積突堤―基を配し、各石積突堤問を船着場、船入、船溜などに当ている。また港湾北側の石積台場上に常夜灯を建て、航行する船の便宜を因っている。 以上の矢橋港の旧状がすべて整えられたのは、『膳所領郡方日記』、常夜灯刻銘より弘化3年(1846)と推測されるが、「近江の海は湊八十あり、いづくにか君が船舶て草結びけむ」と万葉歌に詠まれた近江の諸港が今やほぼ消滅にある現状を省りみれば、本港の遺構は古代より展開されてきた琵琶湖の水運と近江八景「矢橋の帰帆」の歴史を凝集した唯一のものであり、歴史的価値の高い史跡と思われる。 昭和61年3月  草津市
矢橋渡跡  矢橋町 草津市 滋賀県