江戸口見附跡・一里塚 小田原市
江戸口見附一里塚跡 江戸口見附跡
大正時代初期の江戸口見附  両側に、後北条時代の総構の土塁跡が確認できます。
小田原北条氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めに対し、総構(そうがまえ)といわれる周囲約9kmの堀や土塁を構築し、城のみならず城下町までを取り込んだ戦国期最大級の城郭を築きました。この付近は、その層構の最も東部分に当り、小田原合戦のときには徳川家康が山王川の対岸に陣取っていました。江戸時代には、小田原城下に入る東海道の東の出入り口として、西の板橋口及び甲州道の井細田口とあわせて、城下を警護する重要な門としての役割を担っていました。江戸方面から来た場合、右図のように門の土塁を一旦右に曲がりさらに左に折れてから城下に入る形になっています。また、入るとすぐ右手(北側)には番所があり、通行人の監視などに当っていました。なお、ここは江戸日本橋から20里に位置し、それを示す一里塚が海寄りに設けられていました。   平成16年3月  小田原市教育委員会

天保年中の相模国風土記稿には、「江戸口の外南側にあり、高6尺5寸、幅5間ばかり、塚上榎樹ありしが、中古枯れ、今は松の小樹を植ゆ。古は双堠なりしに、今隻堠となれり。けだし海道の革(あらた)まりし頃、一堠は海中に入りしならん。これより東は小八幡村、西は風祭村の里堠に続けり」とされている。