旧山陽道(飢坂) 西条町寺家 東広島市 広島県
この飢坂には次のような形の違った2つの話が伝えられている。
 1、大昔、土与丸(西条町)に牛万匹という長者がいた。西条1万6千石の収獲物は全部自分のものであった。長者の田植はにぎやかで一番東のはし歌謡坂のところから歌をうたいながらはじまり、浜田(西条警察署のあたり)で中食をたべ、さらに植えていき、夕方この峠にたどりつくが、腹がへってたおれそうになるので飢坂というようになった。
 2、大キキンの年であった。飢えに苦しむ人々が、食べものを求めて、街道筋は行列をなしていた。ここでは村人達が焚き出しを行っていたが、この峠に達するや、力つきて、たおれ死ぬ人も多く出た。それから飢坂とよぶようになった。この祠は、その人達の霊を慰めるために作ったものと伝えられている。あれから数百年、今に至るも、お線香、お花、食べものなどのお供へがあとをたたない。
東広島市ウエストライオンズクラブ  東広島市郷土史研究会