一里塚跡碑(左)・菅茶山漢詩碑(右) 上御領 神辺町 福山市 広島県
上御領一里塚と四ツ堂
 一里塚の起源は中国にあるが、我が国でそれが制度として完成したのは江戸時代で、江戸日本橋を起点とし、一里(約3.75km)ごとに全国に設置されたことに始まる。道の両側に土を盛り榎や松等を植え、旅人の里程・籠賃等の目安或いは休息所ともなり、大いに利用されていたが、明治以降交通機関の発達によりその必要性が失われ、次第にその面影も消えつつある。 この場所にあった一里塚は、寛永10(1633)年頃築設されたものと見られ、北側の塚は往時の面影はなくなり、南側の塚は二抱えもある榎の大木があったが昭和7(1932)年9月の台風で倒されてしまったと伝えられている。今も「曲り」と共に「一里塚」の地名又、儒者管茶山先生の漢詩がその名残りとして残っている。 また、四ツ堂は福山藩主・水野勝成が諸国遍歴の体験からその便益性を認め、広く藩内の村々に建てさせたと伝えられている。 一里塚の四ツ堂は建立年代は不明であるが、一里塚の敷地内にあり、旧山陽道を行き交う旅人遠の休憩所・雨宿・或いは一夜の宿泊所としても利用された。境内には地蔵菩薩・お月・無縁仏等が祀られ、八丈岩三十三番の観世音菩薩の札所としても人々の信仰を集め、また、人々の集りや湯茶接待所として里人達の心休まる場所であった。   平成7(1995)年3月 神辺町教育委員会
菅茶山漢詩碑
高屋途中
山雲半駁漏斜陽 ?樹蕭條十月霜 野店留人勧蕎麺 一籃銀縷出甑香
出雲半駁斜陽を漏らす ?樹蕭条にして十月の霜 野店人を留めて蕎麦を勤む 一藍の銀縷甑を出でて香し