猿猴橋 猿猴橋町 南区 広島市 広島県
西國街道は、江戸時代の広島藩内の山陽道の呼び名で、五街道に次ぐ規模を誇り、幅員は2間半(約4.5m)ありました。古代から中世まで、京都と太宰府を詰ぶ唯一の大路として文化の大回廊でした。江戸開府後は脇街道となりましたが、西国を結ぶ重要な街道として宿駅や一里塚、街道松が整備されました。広島藩内の宿駅には、広島城下の東の愛宕町界わいや西の堺町界わいをはじめ、西から玖波・廿日市・海田市・西条四日市・本郷・三原・尾道があり、参勤交代や多くの交易に利用されました。

猿猴橋(えんこうぱし)は、16世紀末の毛利時代に木橋としてかけられ、西國街道の要衝に位置していたため、長く陸上交通の重要な役割を果たしてきました。橋名の「猿猴」とは、広島地方で、サルに似た河童のような想像上の経物のことを言い、洪水のたびに人々を川に引きずりこむ猿猴がすむ川として、川や橋の名前に使われました。現在の橋は、大正15(1925年)2月に完成したもので、落成当時は、広島一と言われるほど美しい橋でした。親柱(おやばしら)の上には地球儀のような球の上に鷲が羽を広げた像がすえられ、束柱(つかばしら)には豪華な電飾灯、欄干には2匹の猿猴が両側から桃を抱えている鋳物の透かし彫りが施されていました。右上の写真は対岸から撮影した当時の姿です。その復、戦争中の金属類回収令により装飾品は供出され、現在の姿になりました。原爆の際には、欄干の一部が破損する被害を受けたものの、構造的な被害は軽微にとどまり、被災者の避難や救済活動に使われて、多くの命を救いました。