加古川一番街 寺家町 加古川市
加古川宿と後醍醐天皇
「増鏡」第16の「久米のさら山」に後醍醐天皇が隠岐に流される途中で加古川宿(賀古河宿)の話がでている。後醍醐天皇が加古川宿に到着されたとき、ほぼ同じコースで讃岐に流される妙法院宮尊澄親王が野口まで来て父天皇に逢いたいと願ったのに、護送の武士どもがこれを許さず、宮はむなしく帰られたという話です。この時の後醍醐天皇の宿泊所が寺家町・常住寺とも加古川城(現・称名寺近く)とも言われている。なお、加古川宿(賀古河宿)が始めて史書に見えたのはこの時である。

本陣・脇本陣
加古川宿が画期的ににぎわうようになったのは、江戸時代参勤交代制が始まったころである。幕府は5里ごとに本宿を定め、中間に間宿(あいじゅく)を定め本陣・脇本陣を置いた。藩主近臣は本陣に、重役以下は脇本陣、その他の家に泊まった。加古川宿本陣は寺家町組大庄屋「中谷家」であり、全盛期には表通り28間、奥行き20間の膨大な敷地をほこり、その場所は現在の寺家町商店街「サロン荘」から「玉岡路三郎邸(故玉岡松一郎邸)」までと言われている。