天明5年(1785)11月13日、一関の医師16名が、処刑された豊吉の死体を藩から貰いうけ解剖しました。医師たちは、これにより長年抱いていた疑問を解明することができたので、豊吉を丁重に葬り、この墓を建てました。元々は、旧一関藩橋田原刑場跡にあったものです。 古くから、解剖は死者を冒とくすること、許されないことと考えられていました。しかし、江戸時代の中頃になると、宝暦4年(1754)京都で日本初の官許を得た人体解剖が実施され、安永3年(1774)杉田玄白らがオランダの医学書を翻訳し『解体新書』を出版するなど、漢方医学とオランダ医学の両方から実証を重視しようという精神が芽生え、各地で解剖が行われるようになりました。 豊吉の解剖は、このような中でも東北地方としては早い時期に行われたものです。この頃一関では、二代建部清庵や大槻玄沢など、オランダ医学を研究する人が出ています。彼らの影響は甚大であったと思われます。 一関市博物館で関連事項を紹介しています。 平成13年3月  一関市教育委員会
豊吉の墓 八幡 真柴 一関市 岩手県