五街道の一つである奥州街道は、江戸幕府道中奉行の管轄下に置かれ江戸日本橋から白河宿まで二十七宿を数える。その延長である白河以北の陸奥三厩までの奥州道は、五街道につぐ主要脇街道として幕府勘定奉行の直轄下に置かれた。 当時の奥州街道は幅三間の大道で、藩領内にはこのほか二間の中道、幅一間の小道が縦横に走っていた。街道の両側には並木が植えられていたが、開発の進展、戦中の松根油採取のため伐採され姿を消した。 又、一里塚が築かれ榎や杉が植えられたが、これも遺構として残る所は少なく、地名や伝承などで存在を推定するほかない。 新鹿野一里塚は、周囲約33m程でかっては両側に並んでいたが、昭和初期の開墾で破壊された。 平成11年1月26日 金成町教育委員会

  新鹿野一里塚 新鹿野下 金成末野 栗原市 宮城県