奥州産金開発とともに平泉藤原氏隆盛の頃、金成・畑村に炭焼きをしている藤太という朴直な男が住んでいた。ある日、京の都から、清水の観音のお告げで夫たるべき人が奥州金成にいることを知らされた長者の娘(三条右大臣の娘おこや姫の説あり)が、遠く金成に下ってきた。二人は夫婦になり、橘治(きちじ)、橘内、橘六という三人の子をもうけた。息子たちは成長し、金田八幡宮の山裾に、東館、南館、西館と屋敷を構えていたという。 兄弟は藤原秀衡に仕え、京と奥州を往来する豪商となった。特に兄橘治は義経の案内役として登場し、また近在の寺社へ仏像を奉納し勧請するなど、金売橘治信高としての事蹟は有名である。 藤太夫婦は平安末期の仁安年中に亡くなり、常福寺の裏山、寺場山に墓石があったが、風化をいたみ正徳五年(1715)、時の大肝入佐々木佐内が郷土の偉人藤太を讃えて碑文を刻み、現在地に移して双石の石塔とともに建立したものである。 平成14年3月  金成町教育委員会

  炭焼藤太夫婦の墓 日向 金成 栗原市 宮城県