「姉歯松碑」解読 より部分
伝え聞くには、用明天皇の御代に采女を差し出すように諸国に詔勅を出した。奥州気仙郡高田に豪農の朝日という娘が選ぱれて、京に赴く。しかし、その途上海路で時化に遭い、梨崎に辿り着くが、重い病気にかかり、遂に亡くなってしまう。 その事を聞いて、帝は大変憐れに思し召しされ、其の妹の夕日が賢くて、しかも見目美しい娘と聞き及んでいたので、之を召し出す。妹、夕日は、都に赴く途上に梨崎を経て亡き姉の墓に立ち寄る。姉の悲運を思い啼泣して、其の儘墓前を立ち去ることかできなかった夕日は、其のもとに標として一本の松を手植えして都に上っていった。・その後、数百年。松は枯れ、また其の根元より生え変われども、一幹から二本に生えている。今、生えている松である。後の人が其の節操を讃えて多くの歌に詠んでいる。然れども未だ以って石碑を建て其の遺跡を記録する者のなかりしとは。朝日は、一采女には過ぎないけれども、また、当時、朝廷に召された者は幾百人と知れな方ったろうけれども、一人朝日の話だけが、よく名賢の歌に詠まれ、其の名を伝えているのは、偶然のこととであろうか。  明治30年9月建立  平成3年2月解読
歌碑
くりはらやあねはのまつのひとならは 
  みやこのつとにいさといわましを  
          業平
かくはかりとしつもりぬるわれよりも
  あねはのまつはおひぬらむかし  
          祐誉
ふるさとのひとにかたらむくりはらや
  あねはのまつのうくいすのこえ 
          長明
くりはらのあねはのまつをさそいても
  みやこはいつとしらぬたひかな  
          秀能

  姉歯の松 南沢 金成梨崎 栗原市 宮城県