伊治城の外郭北辺の区画施設は土塁と大溝によって区画されていました。現在でもこの場所より東側では、東西約150mにわたってその当時の面影をとどめています。
伊治城跡とその出土品 (照明寺説明板より抜粋)
伊治城の位置、形状、規模は、現在まで必ずしも明確でない。しかし、唐崎(ここより北東)に空濠(長さ300m、幅約19m、深さ約3m)が現存するから、この築館町城生野台地の一角に造営されたことは確実である。この伊治城は奈良時代の後期、神護景雲元年(767)秋ごろ造営された。(中略)さらに北に進んで宝亀11年(780)に胆沢地方(岩手県)の蝦夷を討つため、また蝦夷の南下する道(即ち北上川)を防ぐために「覚鱉城」を築くのであるが、伊治城はこの新城造営の基地=胆沢城経営の基ともなった。(中略) 延暦13年(796)のころには、反乱以前の状態に復旧、整備され胆沢地方の安定とともに、伊治城の蝦夷経営の基地的性格も定まり、志波姫町の糖塚遺跡に見られるような、開拓民の住居が建てられ、伊治城下の開拓が一段と進むのある。以下略 栗原市教育委員会

   伊治(いじ)城外郭北辺土塁及び大溝跡 城生野大堀  築館 栗原市 宮城県