織田信長配下の明智光秀は、山門焼き討ち直後の元亀2年(1571)、下阪本の湖岸に大天主と小天主をもつ水城を築きました。当時来日していた宣教師ルイス・フロイスはこの坂本城を、のちに築城される天下の名城安土城についで豪壮華麗な城と述べています。坂本城築城の目的には、山門の監視ばかりでなく、近江の反信長勢力、特に浅井・朝倉軍に対する前線基地や、彦根の佐和山城とともに、信長の領国美濃と京都との往還の確保などがあげられます。この城は天正10年(1582)6月の山崎の合戦ののち焼失しますが、丹羽長秀によって再建され、同14年頃、城が大津(大津城)に移るまでこの地にありました。昭和54年(1979)に実施された発掘調査では、焼土中から城の施設の一部とみられる建物の礎石や石組みの井戸・池・溝・石垣の基礎石などが検出されています。  昭和59年11月  大津市教育委員会
 坂本城址 下阪本3丁目 大津市