芭蕉句碑 上松
「かけはしや 命をからむ 蔦葛」 
応永年間に木曽家十一代右京大夫親豊が街道沿線の難所に波計(はばかり)桟道を架設したのが、この「かけはし」のはじまりで慶長五年(一五九九)三月豊臣秀頼が犬山城主石川備前守に命じて桟道を改修し、中仙道の交通の便をはかったのであります。この頃は長さ五十間、巾三間のもので絶壁に架けられておりましたが、正保四年(一六四七)通行人の松明の落火によって焼失し、慶安元年(一六四八)尾州藩の命により尾張の国の十兵衛と云う人が、当時八百七十三両で請負、主要個所を石積みにし中間に桟道を架け、明治維新後、この下にのこる石垣となったのであります。木曽街道の改修にあたり建設省は、重要な文化財として石垣を残し、三百余年前と近代との、二つの道路工法を見る事ができる様になりました。(注)芭蕉句碑の台石は改修工事にて一部外した石積の最も小さなものの一つであります。