谷川と谷川橋の跡 中原2丁目 平塚市 神奈川県
現在のこの道はかって谷川(やがわ)といった排水路だった。谷川は谷川堀ともいい、平塚の沖積地を東西に列する平塚砂丘のうち、第二砂丘列(日枝神社境内・伊勢山・大塚山等の標高12mから17mの丘)の南側の低列地にある。字谷川の舟窪の凹地の池から発源して、砂丘低列の畑地の排水を集め西流し、先行流が渋田川に合した。現在は度々の改修によりその全容を失いついに道路敷となり消滅した。この谷川は明治8年の中原上宿村史誌によると、幅平均2間(約3.6m)長さ1115間(約2007m)深さ最も深き処1丈(約3m)浅き処4尺(約1.2m)とある。またこの谷川には中原往来の石造りの谷川橋が架けられていた。村誌には文政8年(1825)に再設とあるから、江戸時代からあったと思われる。谷川が昔単なる排水路でないことは、諸文献などから近世初頭の関東鷹野御殿の一つである中原御殿と中原代官陣屋に深い係わりあいがあることが散見される。それは谷川にかって水門が設けられ上流の舟窪の池の余水と畑地の排水を貯水して中原御殿の空濠引水と代官陣屋・屋敷堀用水を供給したが後年中原御殿引き払い、そして中原代官陣屋廃止により谷川よりの堀深水は必要はなくなり水門は棄却され谷川は再び低列畑地の排水路と化して現在に到り昔日の面影を失ったのである。 平成13年3月吉祥日 中原地区町内会(自治会)連合会記