渡部城跡 渡部 燕市 新潟県
昔のことは史書に記されてもいるが明らかでない。上杉時代には別名「扇山城」ともいわれており、現在の参道から頂上にかけて腰曲輪、三の曲輪、二の曲輪、本丸。そして反対側には狼煙台、空堀跡などが確認される。その時代では北方の黒滝城の将士が守っており、危急の場合は狼煙をあげて南方の夏戸城へ報せるなど、防衛上の要衝であった。越佐史料によれば、天正7(1579)年上杉景虎の残党、神餘親綱(三条城主)が黒滝城と共に渡部城も攻めたが、黒滝城将山岸秀能がこれを撃退している(御館の乱)。慶長3(1598)年上杉景勝は会津移封となり替わって堀秀治が春日山城主になると、その重将柴田佐渡守勝全を1万3千石で渡部城主とした。しかし同7(1602)年ころ、柴田勝全は関ケ原合戦をめぐって堀氏と争い、同城を退転したまま廃城となった。明治42(1909)年、信濃川分水工事のため、北側斜面は幾分削り取られたが、主要部は昔の面影を留めている。なお現在は頂上部に菅原神社(本社)及び住吉社等13社(摂社)と石祠6社がある。 分水町教育委員会