お船の方生誕御館跡 本与板 与板町 長岡市 新潟県
お船の方生誕の地
本与板城主直江実綱は謙信の父、長尾為景の代からの家臣で、戦国武将としての器量にかける兄晴景を廃して、謙信の家督相続を実現させた股肱の重臣である。 越後国本与板城を領し、始め与兵衛尉実網を名乗ったが、謙信より景虎の一字を与えられて大和守景綱と改めた。 その景綱の晩年に一人娘として弘治3年に生まれた。当時与板の交通は信濃川の河船の時代にて、お船と名付けられたとのこと(さだかではない)。 上野国総社長尾家より、信綱が直江家の養子として迎えられ、お船と結婚し本与板城を継ぐ。 謙信の後継ぎ争い(お館の乱)が起き、春日山城にて重臣であった信綱が刃傷沙汰に巻き込まれ、天正9年死亡。 越後の名家直江家断絶を借しんで、景勝は信網の未亡人お船に、樋口与六(兼続)との結婚を命ずる。 以来兼続とお船の仲睦まじく、宰相の妻たるにふさわしい良妻賢母で、兼続の意向を充分にくみ、常に兼続を陰で支えていた。 又、景勝の信頼も厚く、上杉家の奥向きの采配もまかされるほど藩政の一部にも参与されたと伝われている。 以下略