町野久吉の墓 永井 みなかみ町 利根郡 群馬県
慶応4年4月24日東軍(会津軍)は、越後小出島軍奉行町野源之助(主水)を総大将とし、弟町野久吉を副大将として、藩兵40名、それに郷土兵らを加え、総勢140余名の兵力を以って、三国街道筋の大般若塚に陣を築き西軍(官軍)の越後侵入を阻止する体制にあった。一方三国峠に進撃を開始した官軍は東山道総督巡察副使豊永貫一郎、原保太郎の率いる前橋、高崎等の諸藩兵1200余名が永井宿に陣を構え、三国街道筋と風反路法師温泉九十九曲の三方から、大般若塚に進撃を開始した。両軍相交え激戦となったが、官軍の圧倒的多数に抗しきれず越後小出島まで退き事後に備えた。町野久吉(17才)少年は日新館において文武両道を学び質実剛健、特に槍の達人であった。久吉少年は蒲生家伝来家重代の名槍をふるい、官軍1200余名の陣地に単身切り込み、阿修羅の如く奮戦したが、ついに数発の銃弾を身に受け大般若塚 小平附近で壮烈な戦死をとげた。遺体は永井住民の手厚い供養を受け、現在の位置に埋葬されたのである。