三国街道須川宿 街なみ 須川 みなかみ町 利根郡 群馬県
建久の頃より沼田荘に属し、須川郷と称していた。須川宿は、布施宿より19町、相俣宿よりは30町の位置にある。須川平と呼ばれる広い段丘面上にあって、宿は須川村の町組と呼ばれ全長300間(5町)ほぼ直線上で街道中央を水路が通っていた。須川宿の屋敷図割りは、他の宿場と同様の街道に直行する短冊型である。宿の戸数は貞享3年(1686)に49軒、明治9年の宿割図では54軒とほとんど変化がない。本陣兼問屋(現梅沢氏宅)と脇本陣が隣合っておかれていた。本陣宅は明治初期の建物であるが、古い土蔵を残している。脇本陣は家は転出して屋敷跡のみ残っている。旅籠屋の数は明らかでないが、天保13年(1842)の佐渡奉行宿泊時には脇本陣他6軒、同年の村松藩の際には18軒に分宿している。明治9年(1876)の地図割に示された54軒中28軒の家には屋号があり、かじや、桶や、くるまや、いかけやなどの職業を示すものも見られる。 明治7年(1874)に切ヶ久保新道ならびに湯宿の赤岩新道が開削されると三国街道の通行は中山宿−布施宿−相俣宿へと変わった。現在の宿通りは短冊地割に街道に直交して建つ家並みが昔の宿場をしのばせている。  昭和59年3月1日  新治村