一里塚跡 浜町2丁目7番 守口市
一里塚は街道の両側一里ごとにその目印として設けられ普通遠方からも見えやすくするためその上に榎の木を植え旅人の便をはかった。起源は明らかでないが慶長9年(1604)徳川秀忠が東海東山北陸の諸街道を修理したときこのような一里塚を築かせたという。 この一里塚は守口への入口でもあり出口でもあった。そしてこれは旅人の守口への目印で同様な塚がこの向かい側にも存在した。 この一里塚がいつ設けられたかも明らかでない。 しかしおそらく守口が大阪夏の陣の翌年元和2年(1615)に宿場になってからのことであろう。