楠葉砲台跡 楠葉中之芝1丁目 枚方市
元治元(1864)年、徳川幕府は大坂湾から京都に侵入する外国船に備えて、淀川左岸のここ葉と右岸の高浜(島本町)に砲台(台場)を築き、翌年には楠葉関門を設けました。高浜砲台にはカノン砲4門が設置されていたので、楠葉砲台にも同様に設置されていたと考えられています。慶応4(1868)年の鳥羽・状見の戦いで、高浜砲台を守っていた津藩藤堂家は、幕府軍の不利を見て官軍に内応し、小浜藩酒井家が守る、楠葉、楠砲台に砲撃を加えたので、淀川を挟んで両台場は交戦状態になりました。、楠葉砲台は、伏見、淀から敗走した幕府軍で混乱を極め、砲弾が尽きたので砲を破壊して退去しました。 久修園院の南西方に砲台跡の土塁が残っていましたが、明治末期の京阪電車の敷設に伴い土塁の土砂は運び去られました。 2004年11月 枚方市教育委員会