光明寺 清水 大蔵村 最上郡 山形県
光明寺は、清水家六代目の城主孫三郎義氏公の息女で、長じて最上義光公の御内室となられた。清水御前の開基である。清水御前は義氏公の一人娘として天正5年(1577)に生まれ寵愛をうけ育まれたが、幼少のとき両親が相つぎ亡くなり、重臣たらより養育されたという。成人するにしたがい晃麗才媛となり和歌などの文学に秀でた。19歳の頃、宗家の最上出羽守義光公の山形城に輿入られ、義光公が亡くなるまで敬愛され清水御前と呼ばれ、お側に仕えた。慶長19年(1614)義光公が亡くなった後、最上家の家督をめぐリ波風が絶えなかったため、御前は故郷に帰リ、寛永7年(1630)比良の最上川畔の丘に草庵(光清寺)を建て、一向専念の尼となり、真覚尼と称した。寺は数年後現在地に移り、寺名も光明寺に変わる。 その後、最上家は改易となったが、真覚尼は徳川家より地行五千刈を賜る。寛永15年(1638)8月22日、62歳で忠諫愛慕の一生を終えた。(中略) 大正初期火災にあい、広壮な寺宇と調度品を失い、加羅木と御前の遺品として、五條袈裟と銅鏡のみが、光明寺に保存されている。以下略  平成5年3月   大蔵村教育委員会