鶴丸城跡 裏山 岩ヶ崎 栗駒 栗原市 宮城県
鶴丸城は、はじめ富沢氏の居館であった。富沢氏の祖右馬之助は葛西氏の出で南北朝時代の岩切城合戦に吉良方に味方して戦功あり、三迫の地にとみ沢の郷をもらい、この地に築城した。以来代々日向守を名乗り勢大いに振ったが、五代直景の代に至り豊臣秀吉の小田原征伐に不参の故を以て天正18年(1590)主家葛西氏とともに滅んだ。伊達氏の時代になり政宗公の五男宗綱六男宗信の居館となり茂庭周防の補佐により5万石の城下町を築こうとしたが、いずれも夭折して成らず、その後石母田 田村 古内 茂庭 中村と移封された。中村氏は元新田氏を称し伊達家の累世一家の重臣で勲功により伊達公の旧姓を賜り中村日向の名を以て聞え岩ヶ崎城邑主として元禄7年より明治維新まで170年に及んだ。当館は東西650m、南北400mの壮大な連郭式山城で西に黒岩舘を控え本丸から東方に二ノ丸、三之丸 東舘と続き規模の壮大、近隣に比べるものがない 城跡に立っての眺望また絶佳 当時の勢威がしのばれる。  中村家13代宗三郎 孫