アンダルシア歴史の旅 (1987年冬)


スペイン

スペインは大別して三地域に分かれる。北ないし北西部はフランスと国境を分かつピレネー山脈の南側で、地中海に面するカタルーニャや半独立国のバスクがある。緑が多く、冬はスキーリゾート地としてにぎわう。中央はメセータと呼ばれる乾いた高原で首都マドリッドがある。南は地中海に面した東南部のアンダルシア地方で北アフリカの気候と違わない。

イベリア半島は古くはフェニキア、ギリシャ、ローマの支配を受け、民族大移動の6世紀には西ゴート族が入り、トレドを拠点として王国を築いた。その後8世紀に入ると北アフリカからアラブ人(ムーア人)が侵入し、スペインの南部はコルドバを中心として15世紀までイスラム文化が支配するところとなった。

11世紀からはじまったスペイン人による国土回復運動(レコンキスタ)により、13世紀にはコルドバが陥落、アラブ人はグラナダに移り最後の抵抗を試みる。15世紀にはいりアラゴンのフェルナンドとカスティーヤのイサベル女王はレコンキスタを仕上げ、コロンブスがアメリカ大陸を発見した1492年にグラナダ王国を攻略してイベリア半島の統一を成し遂げるのである。

私たちがスペインを見たというとき、16世紀のカルロス5世とフィリップ2世の、マドリッドを中心とする全盛期のキャソリック文化をいうのか、それに先立つアンダルシアを中心とする長いイスラム文化をさすのか、判然としないときがある。

コルドバで見た大聖堂はかってのモスクで、人はマリア像に向って祈りを捧げているが、私が感動したのはモスクの中に林立する石柱であった。また闘牛にならんでスペインの代名詞になっているフラメンコは、華やかな色のスカートをひるがえして踊る陽気なアンダルシアの民族芸能だが、その起源はジプシー達のふるさとであるインドやアラブにまでさかのぼり、およそキャソリック文化とは縁のない世界である。スペインにはそのような文化の混血が滞留していて、他のヨーロッパ諸国にはない色彩と香りがたち込めている。

コスタ・デル・ソル

コスタ・デル・ソルはその名の通り年中太陽の日がふりそそぐイベリア半島の南東地中海岸をいう。冬の平均気温は14度で、世界的なリゾート地である。その玄関ともいうべきマラガを起点として、アンダルシア地方でイスラム文化の遺跡が残るヒストリック・トライアングル(グラナダ、コルドバ、セビリアを結ぶ三角形)を訪ねるのが今回の旅であった。

マラガはフェニキヤ人によって築かれた港町で、コスタ・デル・ソルの玄関である。地中海に面し北アフリカの対岸ということから、かつてはカルタゴ、ローマ、アラブの支配を受けてきた。ここはピカソが生まれ、幼年期を過ごした町としても知られている。着いた日はセーターを着ていても寒いくらいの異常気象で、日光浴をする人さえいなかった。マラガは滞在型のヴァケーショナーの町で、観光の見所はない。宿をとるだけで翌日バスでグラナダに向った。

バスターミナルには観光客に手を伸ばしてくる子供たちがたむろしていて、国の貧しさを知る。子供らは、ニューヨークのハーレムの黒人が、頼みもしないのに車の窓をふいて対価の金をせびるような、理屈をつけない。単に近づいて来て金か物を乞う。理屈ぬきであるだけにもの悲しい。

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グラナダ  

シェラ・ネバダの山麓にあるグラナダは1238年から1492年まで、250年にわたりイベリア半島におけるイスラム人最後の王国の首都として栄えた。今も華麗繊細なイスラム文化を色濃く残す美しい町である。

アルバイシン地区は、アルハンブラ宮殿の北、ダロ川の対岸に広がるグラナダの中でも最も古いとされる地区で、レコンキスタによるグラナダ陥落の時、アラブの抵抗の砦となった。複雑に入り組んだ石畳の道と白壁の家並みがアラブの面影を色濃く残している。

アルバイシン地区に隣接する丘はサクロモンテとよばれ、ジプシーたちが粗末な家屋や山の斜面を利用した洞穴住居に定住している地区である。アルハンブラ宮殿からも、斜面に点々とするあやしげな穴や、そこから立ち上る煙を見ることができた。ジプシーはいまだに社会の底辺をなしている。古代と近代が隣り合わせにすんでいる異様な光景である。


グラナダア大寺院は、ゴシック・ルネサンス様式で、スペイン人の手でグラナダを奪還した後の1523年に着工し1703年に完成した。フェルナンドとイサベル両王がひざまずいて祈る像がある。中央礼拝堂の上部には聖母マリアの鮮やかなステンドグラスが美しく輝いており、また祭壇は黄金一色のギラギラしたものであった。これらの金は当時中南米から大量に持たらされ、不自由することはなかったのである。

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アルハンブラ宮殿

ロンドン生活最初のヨーロッパ旅行にアンダルシアを選んだのは、フラメンコでも闘牛でもなくひとえに、大学の熊野寮のルームメイトから毎夜のごとくに聞かされた「アルハンブラの思い出」の地を、この目で見たかったからである。トレモロをきかせた幻想的なタレガのメロディーに、私は聞いた瞬間から虜になった。ギターの名曲としてだけでなく「アルハンブラ」というエキゾチックな響きも私の好奇心を煽り立てた。それはスペインの南にあるらしい。私の知っていたことはそれだけだった。

そのアルハンブラに来た。陽のよく照った寒い日であった。
グラナダスの門から糸杉の坂道を登るとき私の脚は心持ち震えていたように思う。妻と子供二人は私のこの気持ちの高まりに気づくことはなかった。既に歩きつかれてしまったような顔をして、私のはるか後ろをついて来ていた。

アルハンブラとはアラビア語で「赤い城」を意味すること。13世紀のなかば、初代グラナダ王ナルス家のアラマール王が創建し、以後21人のアラブ諸王の手によって建築と造園の美の極致を追求していったこと。と同時に、現実的にはスペイン人のレコンキスタに対する城壁に囲まれた砦であったことなどをまず知ることになる。

しかし「アルハンブラの思い出」とは、レコンキスタに対するこの砦がなした抵抗の追憶ではなかろう。グラナダ王国の栄華の思い出でもないと思う。もっとはるかな、イスラム文化の故郷にたいする望郷の念の、やるせないひびきのように思われる。

外から見ると一見、並みの砦に見えるが、内部に入るときめ細かな装飾にいろどられた優雅な空間である。砦などとは感じられない、まさに宮殿と呼ぶにふさわしい、イスラム芸術の傑作である。宮殿は大きく分けてアルカーサル、カルロス5世宮殿、アルカサバ、ヘネラリーフェの四つの部分からなる。

アルカーサルは十四世紀の宮殿でアルハンブラ宮殿の美の粋を集めている。入り口を入るとメクサールの内庭がある。昔は参議の間であったらしいが今は礼拝堂になっている。

「大使の間」は
コマレスの塔内にあるアルハンブラ第一の広間で唐草模様や幾何学模様、コーランから引かれたアラビア文字が壁面を飾っている。ここで他国の貴賓を遇した。イサベル女王がコロンブスと会見したのもこの間であるといわれている。

「二姉妹の間」の天井には鍾乳石のつらら状の飾りがほどこされ、イスラム建築の繊細美をいかんなく発揮している。西洋の宮殿であれば多彩で豪華な天井画がえがかれているところである。画題は風景でなくておそらく天使や使徒など聖書からの人物画であろう。偶像を禁ずるイスラムではそれにかわる抽象美術がこのような建築装飾をあみだした。抽象美であるだけに普遍性を有し、宗教の違いをこえて客観的な鑑賞に堪えられる。

「アラヤネスのパティオ」の細長い池の水面には、生け垣の緑や建物のアーチを映して、整然とした静寂の空間をつくっている。イスラム芸術のこの清楚な幾何学的な美しさは決して簡素なのではない。蒸留された華麗さがある。西洋にみられるような饒舌な自己主張がない。密教の曼荼羅や東照宮の豪華な悪趣味とはほど遠い。かといって禅文化のような精神論におちいるわけでもない。写実を放棄したコンパスと定規の美学といえなくはない。それが砂漠の風土とどこかでつながっているような気がしている。

「ライオンのパティオ」はアルカーサルのなかでも一番人気のある場所で、アラビア建築最高峰とも言われている。中央に、12頭の丸顔のライオンが噴水盤を支えている。12頭のライオンの噴水は、当時時計の役目を果たしていたそうである。1時には1頭のライオンの口から水を吐き出し、2時には2頭、12時には12頭のライオンの口からいっせいに水を吐き出す仕掛けになっていた。

噴水の四方を、124本の大理石の柱でできた回廊が囲んでいる。柱間の上部のアーチには、刺繍のような緻密さでレースのようなアラビア紋様が刻まれている。アーチを支える大理石の柱は鉛筆棒のようにか細い。回廊の背後には「二姉妹の間」、「彫り装飾の間」、「王の間」、「アベンセラッヘスの間」が控えている。

「アベンセラッヘスの間」はグラナダの華族アベンセラッヘスの36人にちなんで名付けられたという。ある日、華族の1人が王の愛妾と関係した。怒った王は祭りと偽ってアベンセラッヘスの全員を招いた。不貞の男を割り出そうとしたが手がかりがつかめず、結局アリバイの無い8人の男を打ち首にしてしまう。この残酷な虐殺で部屋全体が血の海となり、その後はこの部屋に近づく者はいなかったという。部屋の中央の小さな泉にある酸化鉄のしみは、血の消えない跡だと言われている。

アーチや天井を見上げて飽きることのない、繊細な大理石のレース編みのはるか向こうに、アラブという知らない世界が蜃気楼のようにゆらいで見える。アラビアンナイトでしか知らないアラブの世界は虚像なのか実像なのか。
ニューヨーク・ウェストチェスター生まれのワシントン・アービングはしばらくここに住んで『アルハンブラ物語』を書いた。
「カルロス5世の宮殿」は16世紀、スペインの絶頂期に建てられたイタリア・ルネサンス様式の未完の宮殿である。四角の宮殿の真中に作られた円形のパティオは音響効果がすばらしく、夏の国際グラナダ音楽祭には演奏会場の一つとして使われている。

「アルカサバ」は、アルハンブラ宮殿の内で最も古く、13世紀の城塞の跡である。全盛期には24もあったといわれている塔も現在はベラの塔のみとなってしまった。建物はほとんど無く、石柱や土台が残っているばかりである。
ベラの塔からの眺めは絶景で、ヘネラリーフェの庭園やグラナダ市内や、サクラモンテの丘、そして遠く雪が輝くシエラ・ネバダ山脈まで見渡せる。

「ヘネラリーフェ」は14世紀はじめグラナダの太守が夏の別荘として造ったものである。聳え立つ糸杉の並木道が延々と続き、たどり着いた巨大な庭園のさらに奥にアセキアのパティオがある。この中庭には細い人工溝に清らかな水が静かに流れ、両側には幾多の大小の噴水が水のトンネルをつくり花壇の緑に涼気を添えている。水流の両端にはアルカーサルでみたやさしい石造りの建物があった。

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コルドバ   

グアダルキビール川の広大な谷間にあり、セビーリャの上流約130kmに位置する、今では人口30万人に満たない落ち着いた町である。古くはローマ帝国時代の頃より栄え、8世紀にイスラム国家となるとその首都となり、10世紀から300年間コルドバ王国の首都として栄華の頂点を極めた。ヨーロッパ最大の都市として医学、天文学、哲学、文学、芸術などの発達した学問の中心地でもあった。町にはメスキータを頂点とする300をこえるイスラム寺院や、豪奢な宮殿や館が建ち並んだという。13世紀にはスペイン人の国土回復運動に屈し、アラブの文化はグラナダに移ることになった。毎年5月には「パティオと十字架の祭り」が華やかに繰り広げられ、町は花でうずもれる。
この街の魅力の一つが白壁の続く小路の家々にあるそれぞれ工夫を凝らした
パティオである。

メスキータとは、アラブ語で「祈りの場所」を意味する。このメスキータの地はローマ時代にヤヌス神殿が置かれ、西ゴート時代にはサン・ビセンテ聖堂に造り変えられ、8世紀のアブデラマン1世のときコルドバを西のメッカにする目的で東西130m、南北180mの一大モスクが建設された。メッカにある世界最大のカーバ回教寺院に次ぐ規模のモスクであった。

大伽藍の内部は「円柱の森」と呼ばれているように、850本にもおよぶ円柱が建ち並び、柱はくすんだ赤と白の太い縞模様のアーチで結ばれている。天井は八角形のアラベスク模様である。その後何度も拡張工事が行われ、そのたびに縞メノウ、大理石、花崗岩など柱の石材や、柱やアーチのデザインが異なっていった。どの柱も、手のとどく部分が磨かれたように黒味を帯びて光沢を放っている。

レコンキスタ以後はキリスト教の聖堂となって、16世紀になって「円柱の森」の一部が取り壊され大聖堂が建設された。モスクの中央にキリスト教の礼拝堂がはめ込まれ、神仏習合の神宮寺以上の怪奇な雰囲気が漂っている。薄暗い光に加え、余りに多い柱のために広大な空間がよく見通せない。がらんとした柱とアーチの森の中に立っていると迷宮に入り込んだような気分に捕らわれる。柱の影からなにかが飛び出してくるかもしれないという不安感をも与え、長くとどまる気を起こさせなかった。これ以上のかくれんぼの遊び場はないだろう。
オレンジの庭には青い実が真冬の寒さに縮むようにしがみついていた。

メスキータの界隈に旧ユダヤ人街と
花の小路とよばれる愛らしい場所がある。いずれも白壁の格子や窓にはゼラニウムなど色とりどりの花が咲きこぼれ、冬の寒さを感じさせない。鉄格子の向こうには綺麗に手入れされたパティオが覗かれ、石を敷き詰めた中庭には、観葉植物や色鮮やかな花などが大小さまざまな壷や鉢に植え込まれていた。道を通りすぎる人の目を意識した自慢の庭々のようで、覗かれるのを期待している様子であった。
 
アルカサルは1328年アルフォンソ11世によって建てられた宮殿である。後にフェルナンドとイサベル両王によって改修させられた。両王はここからレコンキスタを指揮し、グラナダ陥落のとき最後のイスラム王はここに投獄された。またカトリック両王がコロンブスの新大陸発見への旅立ちを見送ったのもここである。

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セビーリャ  

アンダルシアのグラナダやコルドバ同様、8世紀にはアラブに支配されたが、レコンキスタにより1248年にスペイン人の手にもどった。セビーリャを流れるグアダルキビール川は航行可能な大きな川でセビーリャは唯一の内陸港となっている。コロンブスのアメリカ大陸発見の後、15世紀から16世紀にかけて、新大陸との貿易により富み栄えた。現在の人口は60万人近くでアンダルシア最大の都市である。

「セビリヤの理髪師」、「フィガロの結婚」、「ドン・ファン」、「カルメン」等など数々の物語やオペラの舞台となった町であり、またここがフラメンコの本場である。グラナダとコルドバとセビーリャを比べるときたいした根拠はないがなんとなく、グラナダが奈良とすればコルドバは京都で、セビーリャは大阪のような気がしている。私が気に入った町もその順序であった。

セビーリャのカテドラル(大聖堂)は、コルドバのメスキータのように、もとはこの地にあったモスクをキリスト教のカテドラルとして使用していたものである。1336年、大地震で壊滅的な被害をうけたため、1401年より約1世紀をかけて、ゴシック様式の荘厳な大聖堂として改築されたものである。これはローマのサンピエトロ寺院、ロンドンのセントポール寺院に次ぐ、第三番目の大きさを持つキリスト教寺院である。聖堂内には、4人の王が柩を担いでいる
コロンブスの墓がある。生々しくて重苦しい。

聖堂内で3人の女性の像を見た。聖母なのか聖女なのか知らないが、みな若くて豪華な衣装に身を包んでいる。1人はひどく嘆き悲しみ、大粒の涙が数滴頬をつたっていた。熔けて流れ出たろうそくが途中で冷え固まったような涙だった。あまりに写実的すぎる。

アルカサルは、12世紀にアラブの豪族の砦兼住居として建てられた。1248年セビーリャ陥落後はキリスト教徒側の居城となり、14世紀にペドロ1世によって大改築が行われた。ペドロ1世は「ターバンをかぶらないアラビア人」とも呼ばれたほどのイスラム趣味で、アルハンブラ宮殿の魅力にとり付かれていた。アルカサルの改築にあたり、彼はコルドバやグラナダでキリスト教徒の支配下にとどまったイスラム教徒を駆り集め、アルハンブラ宮殿を再現しようとした。アラベスクの室内装飾が見事な「大使の間」や、シュロやオレンジの木と噴水が調和よく配置された「乙女のパティオ」などに、彼の夢を見ることができる。

アルカサルへのメインゲイトは
ライオンの門とよばれ、細長いアーチの上部に巻紙をくわえた1頭のライオンが描かれている。冬の低い日の光をうけて2人の男性が、門の向こうにあるパティオで立ち話をしていた。紅黄色の重厚な門の一部がアーチ状に切りぬかれ、そのなかに逆行を浴びた人物がほどよく収まっている。一瞬のカメラチャンスだった。私の最も好きな写真の一枚である。


黄金の塔は、1220年にグアダルキビール川にかかるサン・テルモ橋の近くに建てられた正12角形の見張りの塔である。かつて塔の上部を覆っていた陶器タイルが黄金色に輝いていたところからこの名が付けられた。マゼランが世界一周の旅にでたのはこの塔の麓にあった港からであった。今は、この塔は小さな海洋博物館になっており、係員が水兵の制服で迎えてくれる。

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