日本橋から上野を通って南千住まで歩いてみようと考えた。南千住から日光までは奥の細道として歩いている。日本橋から南千住の間さえ補完すれば、奥の細道のみならず、奥州街道・日光街道、さらには水戸街道も歩いたことになるという魂胆である。

結果として、この6kmあまりの短い街道は、現在の日光街道4号線に沿ってはいるものの、昔の日光街道や奥州街道ではなかった。しかし、古くからあった道にはかわりなく、その上、3つの区間に分かれてそれぞれ固有の任務を負った魅力ある街道であることを知った。

その1 日本橋から神田川・万世橋まで=中山道

江戸城を囲う二重の堀には城内警護のために多くの門が設けられた。神田川は外堀として機能し、中山道が市外に通じるところに筋違門という見附があった(奥州街道でいう浅草見附にあたる)。日本橋を出た中山道は筋違橋で市外に出たあと、左に折れて板橋をめざしていった。

その2 神田川・万世橋から上野寛永寺参道まで=御成街道

上野には徳川家の菩提寺、寛永寺がある。上野の山に参詣する将軍は大手門から城を出て、神田御門を通って筋違御門広場で中山道と交差し、筋違橋を渡って右に道をとり、現在の中央通りを北へ上がった。中央通りにあたる道を御成道(御成街道)とよんだ。御成道の終りのほうは一段と道幅が広くなっている上野広小路である。火事の際に類焼を防ぐため幕府は重要な繁華街の道幅を拡げた。

中山道と御成街道は、現在の中央通りの北半分を構成する(南半分は日本橋から銀座を通り抜けて新橋1丁目まで、東海道の市中区域)。

その3 上野寛永寺参道から南千住まで=奥州裏街道(奥州街道裏道)

JR上野駅の東側、浅草出口から「入谷口通り」とよばれる道が北に延びている。根岸と下谷の境を通り、入谷口通りは根岸3丁目交差点で「金杉通り」にバトンタッチして三ノ輪に至る。そこから現在の4号線をたどって南千住で浅草から来た表の日光・奥州街道に合流するまでの道を奥州裏街道といった。奥州裏街道は昭和通りができるまでは北千住と上野を結ぶ幹線道路だったのである。根岸と下谷の地域には昔、坂本、金杉という町があった。坂本は比叡山の麓の町、坂本をまねたものである。

*昭和通りは1923年(大正12年)の関東大震災復興計画の一つとして昭和5年に完成したものである。中央通りの東側を並行して新橋1丁目まで走る東京最大の通りであった。


その1  日本橋から神田川・万世橋まで=中山道   

日本橋 

国指定重要文化財 日本橋    所在地 中央区日本橋1丁目-日本橋室町1丁目
  日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)と伝えられています。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。 現在の日本橋は東京市により、石造二連アーチの道路橋として明治44年に完成しました。橋銘は第15代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。橋の中央にある日本国道路元標は、昭和42年に都電の廃止に伴い道路整備がおこなわれたのを契機に、同47年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。 平成10年に照明灯装飾品の修復が行われ、同11年5月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管しています。 平成12年3月   中央区教育委員会

大学時代に中山道を歩いたのが1966年(昭和41)の夏だったから、都電が廃止される1年前のことになる。確かに当時の写真には架線があるし、道のど真ん中に瀟洒な東京市道路元標が立っていた。それが6年後には橋の北詰に作られた元標公園にうつされ、そのあとに「日本国道路元標」のプレートが埋標された。なお、その上空、高速高架の間に設けられている東京市道路元標に似た標柱は、高速道路をいく車に日本橋と日本国道路元標の位置を知らせる「道路元標地点」碑である。高速道路がかくも大事な日本橋をまたぐことになった無礼に対する贖罪のしるしのように見える。

日本橋河岸

橋を渡った右側たもとに小さな空き地があってその奥に乙姫の石像がある。日本橋から江戸橋にかけて、川の北岸は最近まで海魚をあつかう東京の一大市場であった。徳川家康が江戸に移った際、摂津の佃村の名主森孫右衛門が村内の漁師を率いて江戸海岸の小島であった佃島に移住してきた。佃煮の佃である。島の漁民は湾で取れた白魚を幕府に献上していたが、やがて幕府の許可を得て日本橋の北詰に魚市場を開くことになった。以降日本橋魚河岸は、関東大震災で魚市場が築地に移るまで繁栄を謳歌した。

室町仲通りをすこし入ったところに佃煮の老舗「鮒佐」がある。店先に
「発句也松尾桃清宿の春」と彫られた芭蕉句碑がある。当時小田原町とよばれたこの場所に、29歳で江戸に出てきた若き芭蕉が8年住んでいた。

越後屋

広重の「名所江戸百景」に駿河町の錦絵がある。富士山がよく見えるというので「駿河」の名をつけた。日本橋の北側には越後屋呉服店と三井両替店の長大な表店が連なっていた。伊勢松坂の商家(元は
近江日野の武士。江戸初期井高俊の時、伊勢松阪にて酒・質商にたずさわる。高俊の父が後守を称したことが屋号の由来。)の4男として生まれた三井高利は1673年江戸本町一丁目に呉服店、越後屋を始めた。後に駿河町に移転して両替店を併置した。三越と三井住友銀行のルーツである。越後屋は、立ち寄りやすい「店先売り」という店頭販売、「現銀掛値なし」という正札販売などの革新的サービスを打ち出したちまちのうちに江戸最大の大店になった。日本初のエスカレータを設け少し眠たそうなライオンを置いたルネッサンス式新館が落成したのは奇しくも夢二が港屋を開いた1914年のことであった。今、三越本館をはじめ周囲一帯が再開発工事の真っ只中にある。普通は目障りな囲い看板には江戸情緒満載の絵が描かれ通行人の目を楽しませてくれる。今、日本橋が熱い。そこを起点に北へと3街道一度歩きのスタートをきった。

*掛値 昔は盆・暮二回払いの掛売りが普通だった。今でいう「年2回ボーナス払い」である。当然ながら売値にはその間の利息相当分が含まれ現金正価より高い。越後屋はそれをやめた。
余談 一般に三越は伊勢商人に数えられているが私は、近江商人(日野商人)に入れていいのではないかと思う。伊勢商人のルーツは日野商人。

老舗風の店が室町に集まっている。伊勢定や大和屋があるのに近江屋がみあたらない。北に向かって歩をすすめていくが、旧道の宿場町に残るようなふるい建物の痕跡がない。代ってところどころでボランティアや教育委員会による絵入りの遺跡案内にぶつかった。

表店と裏長屋
日本橋を中心とした江戸の町人地は、地形に合わせて碁盤目状に町割されました。かっての町人地にあたる中央通り沿いには、今でも江戸の町割りの名残を感じさせる区画が残っています。
一つの町屋敷は通りに面した店舗である「表店(おもてだな)」とその後ろにうなぎの寝床のようにつながる「裏長屋」で構成されていました。表店では商人が店を営み、裏長屋は職人や奉公人、浪人などが住む職住接近空間でした。
           ボランティア サポートプログラム

室町3丁目に、五代将軍綱吉が京都の雛人形師10人を招き雛人形屋を開かせたといわれている十軒店跡の説明板がある。最近まで、だた一つ玉貞人形店がその証を守っていたそうだが、付近をさがしても見当たらなかった。再開発の絡みでどこかへ引っ越したのか、それとも廃業したのか、わからない。


十軒店跡    所在地 中央区日本橋室町3−2−15
十軒店は雛市の立つ場所としてしられていました。『寛永江戸図』に「十軒たな」と記された、石町(こくちょう)二・三丁目と本町二・三丁目に挟まれた小さな町で、日本橋通りの両側に面していました。江戸時代の初め、桃の節句・端午の節句に人形を売る仮の店が十軒あったことから、この名があるともいわれています。江戸時代中期以降、三月と五月の節句や十二月歳暮市には内裏雛・禿人形・飾道具・甲人形・鯉のぼり・破魔弓・手毬・羽子板など、季節に応じた人形や玩具を売る店が軒を並べていました。『江戸名所図会』には「十軒店雛市」と題し、店先に小屋掛まで設けて繁昌している挿絵が描かれています。明治時代以降もこの地は「本石町十軒店」と称されていましたが、明治44年(1911)に十間店町となり、昭和7年(1932)、旧日本橋区室町三丁目に編入されました。  平成10年3月     中央区教育委員会

東側、日光街道の起点である大伝馬本町通り入口を過ぎ、江戸通りを越えた一筋目を「時の鐘通り」という。入口に「石町(こくちょう)時の鐘 鐘付撞堂跡」の説明板が由緒を語っている。

石町時の鐘 鐘付撞堂跡  所在地 日本橋室町4丁目5番    本町4丁目2番地域
時の鐘は、江戸時代から本石町3丁目に設置された時刻を江戸市民に知らせる時鐘です。徳川家康とともに江戸に来た辻源七が撞き役に任命され、代々その役を務めました。鐘は何回か鋳直されましたが、宝永8年(1711)に製作された時の鐘が十思公園内に移されています。鐘撞堂は度々の火災に会いながら、本石町3丁目(現日本橋室町4丁目・日本橋本町4丁目)辺りにあり、本通りから本石町3丁目を入って鐘撞堂にいたる道を「鐘つき新道」と呼んでいました。そのことにより、時の鐘が移送された十思公園までの道が、平成14年3月に「時の鐘通り」と命名されました。近くの新日本橋駅の所には、江戸時代を通してオランダ商館長一行の江戸参府の時の宿舎であった「長崎屋」があり、川柳にも「石町の鐘は、オランダまで聞こえ」とうたわれ江戸市民に親しまれていたのです。  平成15年3月   中央教育委員会


神田 

室町4丁目の交差点をこえ鍛冶町にはいるとそこは神田である。日本橋は商人の町であるのに対し、神田にはさまざまな職人たちが集まった。草屋町(藁)、鍛冶町、鍋町(鋳物)、紺屋町(藍染)、蝋燭町、大工町、白壁町(左官)、乗物町(駕籠)、白銀町(銀細工)、新石町(石)、雉子町(木地)、塗師町(漆塗り)、佐柄木町(研師)、連雀町(尺)など、それぞれの職人ばかりが集まっていた区域である。今もそのいくつかの名を残している。
「江戸っ子だってね」「神田の生まれよ」。神田は江戸の粋を代表した。

大きな今川橋交差点に出る。昭和25年まで、ここを東西に横断して外堀と神田川を結ぶ水路があった。今川橋は日本橋からでて中山道が渡る最初の橋で、日本橋と神田をわける境界線でもあった。

今川橋の由来 
元禄4年(1691)この地、東西に掘割開削され江戸城の外堀(平川)に発し、この地を通って神田川に入り隅田川に通じていた。始めは神田堀、銀(しろがね)堀、八丁堀などと呼ばれていたが、後に江戸城殿中接待役井上竜閑が平川と掘割の接点に住んでいたので竜閑川とよばれるようになった。この運河は、江戸市中の商品流通の中枢としての役割は極めて大きく神田の職人町、日本橋の商人町は大きく栄えた。この掘割は、神田と日本橋の境界として11の橋梁がありこの地に架けられた橋は当時地元町人の代表であった名主、今川善右衛門の姓をとり、「今川橋」と名づけられたという。昔、東海道以外の街道を江戸より旅する時は、日本橋を発ち初めて渡るのが今川橋であった。昭和25年竜閑川の埋め立てと同時に今川橋も廃橋解体され、360年の歴史を閉じた。  平成元年1月吉日 鍛冶町1丁目町会   場所提供者 江原富夫氏

須田町

神田駅付近は、日本橋の整然とした町並みから、急に下町の商店街に迷い込んだ気分にさせる。JRのガード下や細い路地の入口には、宣伝札を支え持った人たちが並木のように立っていた。その広告の殆どがなぜかサラ金である。駅をすぎ、須田町に入る。

新中山道、中央通り(R17)は変則4差路交差点を右斜めに進み、交通博物館の東側の万世橋で神田川を渡る。旧中山道は変則4差路交差点を直進し、靖国通りを突っ切って交通博物館の西側に出る。ここに江戸時代、筋違見附があり、旅人は筋違橋を渡って神田川を越えた。その橋はもうない。この三角地帯には古道と鉄道の歴史が埋まっている。交通博物館はその墓守だ。

見事なアーチを埋め尽くす旧駅舎の赤レンガ壁を背に、人目につかない説明板が一人寂しく立っている。昭和51年という古い立て札だが、「御成道」を説明している貴重な資料である。

御成道
「御府内備考」に「御成道、筋違外(すじかいそと)広小路の東より上野広小路に至るの道をいう」とあります。筋違は筋違御門のあった所で、現在の昌平橋の下流50mの所あたりに見付橋が架かっていました。御成道の名は将軍が上野の寛永寺に参墓のため、江戸城から神田橋(神田御門)を渡り、この道を通って行ったからです。見附内の広場は八つ小路といって江戸で最も賑やかな場所で明治時代まで続きました。八つ小路といわれたのは、筋違、昌平橋、駿河台、小川町、連雀町、日本橋通り、小柳町(須田町)、柳原の各口に通じていたからだといわれます。また、御成道の道筋には武家屋敷が多くありました。江戸時代筋違の橋の北詰めに高砂屋という料理屋があり庭の松が評判であったといいます。明治時代には御成道の京屋の大時計は人の眼をひいたようです。また太々餅で売出した有名な店もありました。昭和51年3月  千代田区

将軍が上野寛永寺に参詣するときこの道が使われたために御成道とよばれる。江戸時代ここに筋違橋と見付門があって江戸市中を出入する人々を監視していた。筋違という名は日本橋からきた中山道と大手門−神田橋から来た上野御成道が見付け前の八つ小路で斜めに交差していたことによる。


昌平橋−筋違橋−万世橋の位置と名前の変遷を語るのは極めてややこしい。

@江戸時代、筋違見付けに付随して筋違橋という名の木橋が架けられていた。明治になって見付が廃止されたとき、枡形に使われていた石材を利用して、筋違橋を万世橋という石造りアーチ橋に改修した。万代(よろずよ)橋、また眼鏡橋とも呼ばれた。

江戸時代 昌平橋 筋違橋 ーーーー

A江戸時代、筋違橋の50m上流にあった昌平橋は、明治になって相生橋と改称したものの、
明治6年(1873)神田川大洪水で落橋した。

明治5年 相生橋 万世橋 ーーーー
明治6年 ーーーー 万世橋 ーーーー

B現在の万世橋の位置に昌平橋を架けた。

明治??年 ーーーー 万世橋 昌平橋

C明治32年、流失した昌平橋が再架設され、Bの「昌平橋」は「新万世橋」に変更させられた。
明治32年 昌平橋 万世橋 新万世橋

D明治36年、Cの新万世橋は鉄橋に改架されるとともに、「万世橋」としてデビューすることになった。
これにともない@の古い「万世橋」は「元万世橋」と名乗り、引退する覚悟を決めた。


明治36年 昌平橋 元万世橋 万世橋

E明治39年、「元万世橋」は撤去され、橋は「昌平橋」と「万世橋」の2つになった。

明治39年 昌平橋 ーーーー 万世橋

万世橋の中央にたって東方面を眺めてみた。一隻運搬船が下っていったが写真を撮りたいほどの風景ではない。西側に移ってみると圧倒的によい眺めがあった。逆光で遠景がかすんでいるが昌平橋、聖橋を経てお茶の水、文京地区がつづく。左手は赤レンガの交通博物館が延びる。倉庫か工場風の趣のある建物である。

昌平橋の方にまわって万世橋を眺めてみた。こちらの風景も悪くない。どちらの写真でも、広重流の、画面を切り裂くような小気味よい遠近方で、風景を引き締めていたものは、赤レンガの駅舎であった。

交通博物館

時代は橋を渡る人力車から、煙をたなびかせて蒸気機関車が鉄路を走る鉄道の時代に入ると、主要な道路が交錯する八ツ小路広場はこのうえない格好なターミナル候補地として注目された。明治39年(1908)、江戸から明治にかけての交通のシンボルだった元万世橋は取り壊され、かわって八ツ小路の跡地には新時代を象徴する鉄道ターミナルステーションの建設が始まった。
明治45年(1912)、駅前広場を擁する万世橋駅は、中野駅とを結ぶ中央線の始発駅として開業する。設計者は東京駅舎を手がけた辰野金吾。万世橋駅は東京駅の習作とも云われている。

須田町交差点では市電が入り乱れ、昭和にはいり、浅草−上野間の地下鉄が万世橋の地下まで延長されると、地面の上下は人ごみでごった返した。万世橋駅を核として、須田町は東京随一の繁華街となった。須田町一丁目の路地には趣きある建物の老舗が今も元気である。板塀が端正な「藪蕎麦」、粋な二階建て甘味どころ「竹邑(たけむら)」
、天保創業のアンコウ鍋「いせ源」、「手打そば」の提灯が自慢げな「神田まつや」など。この辺一帯は神田青物市場で賑っていた場歩でもあった。まつやのちょうど筋違いの多町大通りを入ったところに、「神田市場(神田須田町一丁目)」のたて札がある。

中世の神田川右岸は、水田が多い農村地帯だったようです。幕府が編集した江戸の地誌である「御内府備考」には、町が整備される前、この周辺が須田村と呼ばれていたという記述があります。江戸初期の慶長年間(1596〜1615)にも、この界隈を中心に「神田青物市場」の起源とされる野菜市が開かれたこともわかっています。水運を利用して神田川沿いの河岸や鎌倉河岸から荷揚げされた青物が、1万5千坪(約49500u)におよぶ広大なこの青物市場で商われていました。当時の市場では、店が店員の住まいを兼ねていました。つまり、現在の私たちが考える市場と違い、当時は市場の中に町があるといったイメージでした。巨大な市場でしたので、中にある町も須田町だけでなく、多町(たちょう)、佐柄木町、通新石町(とおりしんこくちょう)、連雀町なども市場の一部をかたちづくっていたのです。そして、これら5町の表通りには、野菜や果物を商う八百屋が軒を連ね、連日のように威勢のいい商いが行われていたということです。青物市場の別名である「やっちゃ場」は、そんな威勢のいい競りのときのかけ声から生まれた言葉なのです。 江戸、そして東京の食生活を支え続けたこの市場は、昭和3年(1928)には秋葉原西北に、平成2年(1990)には大田区へと移転しました。それでも、現在の須田町町内には、東京都の歴史的建造物に指定されるような老舗商店が数多く営業しています、須田町は、江戸からつづく活気あふれる商いの伝統が、いまだに息づく町なのです。 現在の須田町中部町会は、この青物市場の中心であった連雀町と佐柄木町のそれぞれ一部が、関東大震災後の土地区画整理事業によって合併し、誕生しました。

中央線が東京駅まで延長されるに伴い御茶ノ水駅と神田駅が整備され、かって万世橋駅が独占していた人の流れは、西の御茶ノ水、東の秋葉原、南の神田に霧散していった。昭和18年(1943)、風船がすぼむように需要の萎えた万世橋駅は廃されることになった。現在は交通博物館となって、子供達の社会学習をうけいれるのに忙しい。屋上の金網に、鼻先をへばりつかせて下を覗くと、中央線の高架軌道内に、当時の駅のホーム跡が草で覆われて残っているのが見える。館内は機関車自動車、バイク、飛行機、自転車、船など、子供が目を輝かせる物であふれ、童心にかえって楽しむことができる。「旧万世橋駅のうつりかわり」と題したポスターに「2007年さいたま市大宮に移転する」と書いてあったのが気になっている。この跡地はどうなるのかしらん。


聖橋下方から昌平橋を振り返ると、3つの線路が神田川の景観を損なうことなく立体的に交差して、交通システムのダイナミズムを見ることができる。3つの電車が行き交う瞬間を無邪気に待っているだけでも楽しい。

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その2  万世交差点から上野寛永寺参道まで=御成街道 

秋葉原

万世交差点で国道17号線と分れ、中央通りはまっすぐ秋葉原電気街の中へと入っていく。ここからが狭義の(上野)御成道(街道)である。秋葉原電気街の誕生は戦後、駐留軍の残していった電器部品などを扱う露天が集まったことに始まる。それ以前は明治2年(1869)の大火で一帯が焼け野原となり、その後火除けの神様、秋葉神社だけが建っている広々とした原っぱだった。更にその前、江戸時代は御家人などの下級武士が住む集落だった。今は日本語よりも、中国語や英語の宣伝がめだつマルチリンガル街である。

サラ金のコマーシャルには好きなものが多い。プロミスの「ソウダンデス」−「サブー」、アイフルの見つめあうチワワと父親、武富士のピチピチしたセクシーダンス、そしてほのぼのレイク。
「新しいパソコンほしいなああ・・・」 「うちはそんな余裕ナイデショッ!」

秋葉原電気街は一日いても飽きない。この街は若い男性が圧倒的に多い。彼らの考えていることが手に取るようにわかる。

御徒町 

秋葉原と上野の間に御徒町がある。徒(かち)とは歩く意。御家人で将軍の警護に当たる歩兵隊は徒士組という組織に編成され、まとまって御徒町に住んでいた。将軍出行の時以外は特に仕事のない暇な身分で、内職に精を出だす者が多かった。その中に谷七左衛門というたいそう朝顔好きな侍がいて、空き地を利用して変種、珍種の朝顔栽培に熱中した。朝顔栽培はその土地(下谷)のブームとなりやがて朝顔市が立つほどになった。その後入谷でもはじまるようになった。
入谷鬼子母神の朝顔市の元祖は御徒町である。維新になって武士は職を失い、武士の商法ながら商売で生きる道を試みた。特に骨董屋が多かったという。街道筋にそれをうかがわせるような風景はない。JR線から昭和通りに入り込んだ路地辺りに名残を感じられるかもしれない。

 旧岩崎家住宅(重要文化財)  台東区池之端一丁目三番一号

 明治から昭和にかけての実業家、岩崎久弥のかっての住宅。明治29年竣工した。
 設計者はイギリスの
ジョサイア・コンドル。上野の博物館(現在の東京国立博物館)や鹿鳴館など数多くの官庁の建造物の設計監督にあたり、19世紀後半のヨーロッパの建築を紹介して日本の近代建築の発展に指導的役割を果たした。
 同一敷地内に洋館・社交の場、和館・生活の場を併立する大邸宅は明治20年頃から建てられたが、岩崎邸はその代表例であり、現存する明治建築として貴重である。
 洋館(木造二階建地下室附)正面に向かって左半分が主屋でスレート葺の大屋根をかけ、その右にやや規模の小さい棟が続く。両者の間の玄関部には塔屋がたち角ドーム屋根となっている。南側のベランダには装飾を施された列柱が並び、全体的にはイギリス・ルネッサンス風となっている。洋館左側に建つ撞球室(ビリヤードルーム木造一階建地下室附)とは地下道でつながれている。
 洋館と撞球室は明治36年に重要文化財の指定を受け、昭和44年には、和館内の大広間と洋館の袖塀一棟が追加指定を受けた。           平成10年3月     台東区教育委員会


ジョサイア・コンドル:英国の建築家。明治10年、日本政府の招聘により来日し工部大学校造家学科(現・東京大学工学部建築学科)の初代教授に就任し、日本で初めて本格的な西欧式建築教育を行った。鹿鳴館、上野博物館、ニコライ堂、旧古河庭園洋館など多くの洋風建築も設計し、後に日本最初の建築設計事務所を開設する。大正9年日本で永眠。

アメヤ横丁 

将軍が通った大道を一筋違えると、もうそこは下町庶民の活気あふれる横丁である。JRのガードにそって御徒町まで、あらゆる食料、衣料がそろうアメ横は、浅草の仲見世通りほどではないが、ぶつかり合いながら人が歩く。ここをはいった最初の総合食料品店を3ヶ月に一度は訪れる。首をすこしのばして覗き込むと向こうから5袋適当に見繕ってくれる。「もう一チョおまけだ」といってアーモンドかチェスナッツを追加してくれる。だまっていると「ようし、もういっちょもってけ」と、グリンピースかソラマメを一袋載せて、山盛りの菓子袋が崩れ落ちそうだ。そこで、「これ、かえてもらえるかなー」とチェスナッツを返して、皮つき落花生を指差す。「わるいねえ」
これで1000円。スーパーで買えば2000円くらいするのではないか。この日は帰りの荷物が重い。帰って、これらを大きなガラス瓶にいれてシェイクするのが私の仕事である。3ヶ月分の7色ツマミが出来上がる。

上野公園

道が急に開けてきた。防火地帯として設けられた上野広小路である。その一等地を
松坂屋が占めている。ショーウィンドーを化粧品会社の大きな広告写真が占拠して、銀粉がきらめくに吸い付かれそうだ。松坂屋の創業は1611年、織田信長の家臣であった伊藤蘭丸祐道(すけみち)が名古屋に店を構えて「いとう呉服店」の看板を掲げた。1768年、上野の松坂屋(これは松坂商人か?)を買収して「いとう松坂屋」と改めた。日本橋の越後屋、白木屋、大丸と店の規模を競った。

不忍の池

御成り街道の終点は上野山である。寛永2年(1625)、近江比叡山延暦寺の向こうを張ることに情熱を注いだ天海僧正が上野の丘(忍ヶ岡)を東叡山と号し関東の天台宗本山を建立した。川越喜多院が別宅ならここ上野こそが本宅である。
延暦寺がその名を創建時の年号からとってきたのに習い、上野の本山を寛永寺と名づけた。そのとき、不忍の池を琵琶湖に見たて池中に竹生島に擬して中島を築いた。竹生島は船で渡ると言って、弁天島にも橋は架けなかった。比叡山麓の町坂本をまねて、上野の山下の町にもおなじ名前をつけた。天海は近江ファンなのかアンチ近江なのかよくわからない。

京成駅の西側、しょっちゅう工事しているところが正面入り口である。大きな蛙が水を吐きながら広小路を眺めている。
すぐ隣に蜀山人の歌碑がある。上野は江戸随一の桜の名所だった。

 一めんの花は碁盤の上野山黒門前にかかる白雲

西郷像

右手に進むと西郷像である。ずいぶん頭でっかちの男だ。説明碑をじっくり読んで理解を新たにした。西郷像の背後に彰義隊の墓がある。会津の白虎隊とならんで旧時代の殉死者である。

鳥羽伏見の戦いから始まった戊辰戦争で幕府軍は上野、北越・会津、函館と敗戦を重ね、古き良き江戸時代は終焉を迎えた。上野戦争は1868年7月4日(旧暦、慶應4年5月15日)の1日で終わる。両軍が激突した黒門での戦闘は激しかった。芝に慶応義塾を開いたばかりの福沢諭吉が、遠くに大砲の音を聞きながらも講義を続けた話はよく知られている。

放置されたままの彰義隊の遺骸は三ノ輪円通寺の住職らによって荼毘にふされ遺骨は上野公園と円通寺に収められた。黒門は
清水観音堂の坂下にあった。今は石碑があるのみで、実物の弾痕を埋め込んだ修復版の黒門円通寺にある。

清水観音堂

彰義隊の墓と不忍池を結ぶ線上に
朱色のあざやかな清水観音堂がある。またしても天海の京都趣味だ。昔、ここから不忍池が松の向こうに見越せた。今鬱蒼とした雑木にはばまれて、わずかに平かれた石階段のむこうに霞む弁天堂を見るのみである。

清水観音堂は、寛永寺を開創した天海が京都清水寺を模して寛永8年(1631)に創建した。当初、現在地より100m余り北方の摺鉢山上にあったが、元禄7年(1694)この地へ移築し、現在に至っている。堂宇は、桁行5間、梁間4間、単層入母屋造り、本瓦葺。とくに不忍池に臨む正面の舞台造りは、江戸時代より浮世絵に描かれるなど、著名な景観である。近年老朽化が目立ち、平成2年より全面的な解体・修復工事を実施、平成8年5月に完成した。(中略)本尊は千手観音座像で、京都清水寺より奉安したもの。秘仏で平常は厨子内に安置するが、毎年2月初午の日にのみ開扉され、多くの参詣者が訪れる。脇本尊の子育観音は、子供に関するさまざまな願いをもつ人々の信仰をあつめ、願い事が成就した際には身代わりの人形を奉納する。毎年9月25日には、奉納された人形を供養する行事がある。平成10年3月    台東区教育委員会

公園の奥に向かって進んで大仏の首や時の鐘をみる。時の鐘は十思公園のものが最初だが、鐘楼と環境の点でこちらの方が趣があって素晴らしい。時の鐘から木々の深い公園を歩いていくと金属性の音が聞こえてきた。小さな空き地にホームレスの男が三人、舗装された地面にすわって金槌で絶え間なく空缶をつぶしている。周囲には空缶で膨れ上がったポリ袋がいくつもおいてあって在庫は十分にある。茂みの中はおそろいの青色のテント村である。そのようなキャンプ場が公園内にいくつもある。入口に傘をひろげて枝に吊るしているテントもあれば贅沢にも自転車を所有しているテントもある。近くには公衆トイレと水道もあり、キャンプ場としてのインフラも整っている。冬の寒さは厳しかろうが、それを除けば生きていくに不自由はなさそうだ。

東照宮

遠回りにその場をすぎると、巨大な灯篭が孤立していた。お化け灯篭という。囲んでいる金柵は写真に邪魔だ。その奥すぐ左手に東照宮入口の石の大鳥居と表門が現れる。木陰に覆われた門の向こうに明るい参道がまぶしい。まだ9月にはいったばかりなのに、道には落ち葉が濡れていた。林のような灯篭が並びそのつきあたりに東照宮がある。豪華な建物よりも苔むした石灯篭と巨木のほうが親しみやすい。

寛永4年(1627)、藤堂高虎は自分の屋敷地内に徳川家康を祀る社殿(東照宮)を造営した。その後将軍家光はこの建物に満足できず慶安4年に造営替えした。徳川吉宗と慶喜も祀る。金箔の唐門の両門柱には左甚五郎が龍を彫った。参道の両側は石や青銅の灯籠の林である。

公園を横ぎるように東に向かう。広場にでるところに姿のよい騎馬像がたっている。小松宮銅像という。最大にズームインすると帽子の飾り毛の先はカラスの後姿だった。公園案内板に野口英世像があるというので行ってみる。会津出身の篤志家が日本医師会等の協力を得て建てたもので、野口自身と上野との直接的なつながりはない。

寛永寺

上野寛永寺を省くわけにはいかないので鴬谷近くまで出張する。途中、国立芸大、旧東京音楽学校奏楽堂、国立博物館、黒田記念館、国際こども図書館など、芸術の森にふさわしい住民居住区である。たどりついた寛永寺はその山門の奥に小ぶりの根本中堂があるだけの控え目な造りだった。ヒマラヤスギの大木が寺院を圧倒している。となりの寛永寺幼稚園から黄色い声が飛び交ってきた。

開山堂(両大師堂)

公園散歩の締めくくりは開山堂(両大師堂)と本坊表門で、ともに多くの戦火と震災に耐え抜いた数少ない現存建造物である。開山堂境内にたなびく「ぼけ封じ祈願」ののぼりが妙に意識された。おなじ境内の竹垣に囲われた小さな庭で小一時間過ごすことになった。この庭の主と気が合いそうだ。小犬の置物が鉢とおなじ数ほどならべてある。盆栽風のハイビスカス、成り行きに任せた朝顔の他、名も知らない花が所せましと肩をよせあっている。中央に直径1mほどの小さな水溜まりが設けられていて、水中の葉が朝方の霧雨を受けてきらめいていた。
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その3  上野駅浅草口から南千住まで=奥州裏街道(奥州街道裏道)

入谷口通り 

公園と上野駅までの幅広い線路群をまたぐのが両大師橋である。橋上からの眺めがよい。頻繁に色を変えた電車が往来してあきることがない。子供なら一日中でもいるのではないか。橋を降りたところが入谷口通りである。起点は駅の浅草口をでたところで、それを示す標識があった。変形5差路とでもいうべき複雑怪奇な巨大交差点の陸橋にのぼってみた。高いところは気持ちがよい。


バイク街と車坂

上野駅ができる前は奥州裏街道から根本中堂へ入る道に車坂門があった。両大師橋の真下にあたる坂道が入谷口通りに出るあたりである。今はバイク街とよばれるこの辺りを車坂町といった。フーテンの寅さんの本名は車寅次郎といい、演じる渥美清はこの車坂の生まれである。英語の看板が連なる路地にはいってみる。
ハーレーダヴィッドソンのパーツ有りという店には外国人が多い。その向かいには突如として玄関先に植木を並べ両端にリヤカーを立てかけた家があり、そこに車坂という名を見つけた。バイクと人力車、若者とおじさんという感じ・・・・・

入谷鬼子母神

根岸一丁目交差点にでる。東西に横ぎっているのは言問い通りで、西はすぐに鶯谷の駅で、東にいけば1分で入谷鬼子母神に着く。このあたりが旧坂本町である。坂本という地名は、東叡山寛永寺が京都比叡山を模していたことから地名も比叡山の麓にある坂本に因んで付けられたものだという。「朝顔せんべい」を売っている店のならびに、恐らく消防器具の倉庫であろう、その扉に「坂本町会」とあった。朝顔市でしられる真源寺自体はお堂も新しく境内はせまい。道路におおきくはみ出さなければ市が開けそうにもない。まだ青々としたザクロが鈴なりだった。

入谷口通りに戻り東へ進む。下谷側を歩いている。時々路地を覗きこみ写真になりそうな雰囲気があれば入り込む。小野篁を祀る小野照崎神社を見る。鳥居が二つに浅間神社など、いろいろとあって焦点が定まらない感じがする。むしろその隣にあった店屋のたたずまいの方が趣があって楽しかった。大通りにもどり、根岸3丁目交差点にきた。ここから通りの名は金杉通りにかわる。次の交差点から根岸の方面に柳通りが延びて、いわゆる根岸の里に入る。

根岸の里 

根岸柳通りは金杉通りから日暮里へ抜ける通りで、両脇の視界をさえぎる柳の並木は京都木屋町通りを彷彿とさせる。商店街のシンボルは鶯谷のウグイスである。かって京都からウグイスを取り寄せて鳴き比べをさせたのが始まりという。江戸時代には浅草の橋場とともに二大別荘地といわれた。閑雅な土地で文人墨客が多く住み、大店の寮(別荘)や妾宅も多かったという、雅色相伴った理想郷のようなところである。今、黒板塀、格子、植木などの要素をそろえた、それらしき建物を見つけようとしたが無駄だった。

根岸四丁目の交差点を右に曲がったところに
お行の松がある。角地にそって昔音無川が流れていた。現在の松は3代目で、そばに初代の松の亡骸が祀られている。近江の唐崎の松を思いだした。ともに奇しくも3代目である。

  
薄緑 お行の松は 霞みけり   子規


この辺りは子規の独壇場で、芭蕉の出る幕がない。
柳通りにもどり荒川区・東日暮里と台東区・根岸の境、音無川の跡を西に進むと東日暮里4南交差点にでる。左折してすぐに尾久橋通りの起点となっている根岸小学校だ。その西南角が豆富料理で有名な笹の雪である。元禄年間の創業で、初めて絹ごし豆腐をつくり「豆腐料理二軒茶屋」として開業したのが始まりだそうである。子規の句碑がある。

  
水無月や 根岸涼しき 笹の雪 
  
朝顔に  朝商ひす  笹の雪

尾久橋通りを進むと左手はもう鶯谷のホテル街である。閑静な別荘地区とラブホテル街とは結びつきそうにないが、妾・愛人・別宅・柳とくればむしろ自然な流れとも思われる。ともかく正岡子規の家はそんな中にあった。カメラを構えてアングルをさぐっていると向こうから若い二人連れが歩いてきた。楽しそうでも恥ずかしそうでも退屈そうでもない。出て来たのか、入るのか、それだけが気になった。

根岸の里の最後の訪問先は「羽二重団子」である。店内へ入るとガラス越に竹が茂る築山庭園が迫ってくる。この店も音無川のほとりにあった。ここでも子規が一句献上している。

  芋坂も 団子も月の 所縁かな    

店の角に
「王子街道」という道標がある。そういえば、音無川は王子で石神井川から分かれ、田端・日暮里・金杉を流れ、三ノ輪橋をくぐり、山谷堀をへて隅田川にそそいでいるとあった。王子街道は多分王子からその川に沿って三ノ輪橋までのことではないか。私は三ノ輪から日暮里まであるいたわけで、なかでもお行の松から笹の雪・羽二重団子までは音無川にそって歩いていた。日暮里から王子まで歩かない手はない。



三ノ輪 

旧三ノ輪町
三ノ輪という地名は古く、江戸時代以前からあった。この地は奥東京湾につき出た台地の先端部であることから
水(み)の鼻といわれ、これがいつしか三ノ輪になったといわれる。
延亨慶2年(1745)、隅田川の宿場として形成した三ノ輪村原宿が原宿町として独立した。そして明治3年に下谷原宿町となり、同24年、下谷原宿町と三ノ輪村が合併して旧三ノ輪町が誕生した。昭和初年まで、今はない音無川にかかる三ノ輪橋があった。慶応4年に水戸へ去る徳川慶喜は、この橋のたもとで山岡鉄舟らの見送りを受けた。今でも都電の停留所(荒川区)にその名が残っている。

金杉通りと昭和通りが合流するところに金太郎飴本舗がある。その近辺にあるという三ノ輪橋跡を探していた。音無川が奥州裏街道をよこぎり山谷堀に落ちていくところである。交番でたずねると年配の警察管が一緒について来て教えてくれた。常磐線ガードの手前、浄閑寺寄りの歩道に銅板をかぶせた木標が植木鉢と一緒にあった。後ろを向くと道が3つに分かれていて、一番左の道をはいったところが投込み寺といわれた浄閑寺である。

「投込み寺」という俗称は、安政2年(1855)の大地震の際、多くの吉原遊女が投げ込み同然に葬られたことかららしい。寺の過去帳は寛保3年(1743)から大正15年(1926)にいたる。投げ込まれた遊女は災害による死者だけではなかったはずである。性病、衰弱、自殺、事故死など、遊女の平均寿命は20代前半だったという。

最も右の道にそって山谷堀が音無川の流れを引き継いでいた。100mほどの路地を通り抜けると広い土手通りにでる。家康が荒川洪水対策のため全国の大名に命じて浅草寺北方の浅草田圃を箕輪から聖天町まで、山谷堀の南側に1.5kmばかりの堤防を築かせた。全国的な天下普請だったため土手は日本堤とよばれ、後に三ノ輪方面から吉原へ行くメインロードとなった。土手通りの南側歩道を5分ほどあるくと「一葉記念館」への案内標識が出迎える。右に折れて数百メートルほど歩く。ここが竜泉3丁目で、今、樋口一葉の5千円札発行を数週間後に控え文学愛好家の訪問が絶え間ない。

都電荒川線三ノ輪橋駅

JRガードをくぐってすこし行くと左手に明治・大正風の写真スタジオ館が建っている。やや薄暗い右側の通路を抜けるとこどもの国かと思われる光景が待ち受けていた。無条件・絶対的に心が高まる嬉しい時や場所があるものだ。ディズニーワールドのメインゲートを入った直後の気持ちに近い。バーゲンセールを聞きつけて開場のベルとともに売り場に殺到する主婦の心境かもしれない。駅の付近一帯はそんな場所だった。一口茶屋は名物だそうだ。食べ物は小さいほどに安い。

1両編成のチンチン電車が来た。乗降客は地元の人と中高年の観光客が半々である。運転手は一人ですべてをこなす。停車時間は1、2分で、線路を変えたかと思えばそそくさと早稲田に向かって帰っていった。角の店先でノースリーブ・ワンピース姿のおばあちゃんが黙々とチャブダイを前に縫い物をしている。エアコンがないのか、戸をあけはなしているので、通る人からは丸見えでも、気にもならないようである。

さらに北に進み、円通寺で上野公園散歩を仕上げる。上野戦争の激戦の証人、黒門が弾痕をのこしてここに生きながらえている。修復で徹底的に防腐・防水剤入りの塗料で塗り固められたのか門は黒光りをして元気そうだった。

ここから南千住はすぐ近い。旧奥州街道を先回りする形で南千住の小塚原刑場跡を見に行った。

以下は寄り道編。


一葉記念館 

明治26年(1893)から27年にかけて、一葉は9ヶ月ほどここで駄菓子屋を開いて生計を立てた。このときの体験や見聞がのちの作品の源泉となった。
28年、「たけくらべ」「うつせみ」「にごりえ」「十三夜」「わかれ道」などをたて続けに発表し、その翌年結核と過労で24歳の短い生涯を終える。記念館に入って「たけくらべ」のアニメDVDを見た。目の大きな美登利と真如が主役で、わかりやすく仕立ててあった。当時では当たり前のこととはいえ、原稿用紙の一こまごとに見事な筆使いの端正な文字が書き込まれているのには驚いた。筆であんなに小さく字が書けるとは考えてもいなかった。原稿・日記・手紙のすべてが一級品の書作に見える。

記念公園、旧居跡や一葉の作品に出てくるゆかりある史跡が吉原の西南区域に集中してある。記念館でもらった地図をたよりに、それらを訪ねて歩くことにした。にわか作りの一葉ファンよろしく
記念館の向かいが記念公園、なかに佐々木信綱による一葉女史たけくらべ記念碑がある。一筋南に下った通りに一葉が住んでいた。メキシコインディアンのアドビ風住居の前に碑がある。記念館から下ってきた道を南下すると飛不動、その南方に酉の市の発祥地鷲神社、東にまわって弁天池跡、そして仲ノ町の延長線上に吉原神社がある。

すべてを見ても1時間もかからない近距離にある。『たけくらべ』には吉原を舞台にした子供たちの快活な生活が描かれている。そこに暗さは見えてこない。子供である間は屈託のない、粋が通じる世界だった。浄閑寺や弁天池にまつわる遊女の悲惨な運命は、ようやく小説のクロージング・シーンで不機嫌な美登利に暗示させた。

樋口一葉は貧困と恋の挫折をあじわいながらも、負けず嫌いのたくましい生活力と精神力で、男と互角に才能を競った天才少女であったと思う。新札発行がなければ私は彼女に出会っていなかった。

吉原

長崎丸山、神戸福原、大阪新町、京都島原、東京吉原・・・。学生時代、仲間からきいていた旧赤線地帯である。風紀上の規制として、当時散在していた岡場所とよばれる私娼窟を、政府の公認のもとに一箇所に集めたのが遊廓である。京都島原がその第一号であった。遊廓は明治以降も公娼制度の下に維持され昭和の31年まで続く。売春防止法施行後も「風俗営業」は絶えることなく、サウナ・トルコ風呂を経て、ソープランド(石鹸遊園地)に引き継がれた。

京都でも奈良でも、都はきれいに東西南北を辺とする長方形の中に碁盤目状の町割が造られている。そのなかに新吉原をのせるとその部分だけが斜めに配置されるのだ。つまり吉原は辺でなくて四隅が東西南北に対しているのである。理由は、遊女屋の部屋も四隅が東西南北になるわけで、客は部屋を斜めに寝ない限り北枕になることはないということだった。方角というのは大事らしい。

吉原神社から柳の並木が美しい仲ノ町を北(東)上する。方向としては吉原の裏通りから正面入り口へ逆行していることになる。タクシーがよく通り、店屋もある普通の通りにみえる。中ほどにくると、ラブホテルらしき建物の前に、白いカッターシャツに黒のズボンでそろえた若い男が手持ち無沙汰に立っている。客引きだろう。午後一時という真昼間である。横道をのぞくとなお一層整然として、制服姿の男性が並木のようにならんでいた。とてもカメラを向けられる雰囲気でなかった。わき目もふらない素振りで足早に歩いていたのに、数人の男から声をかけられた。かける方が冷やかし半分だ。

約250m歩いたところに、正式の入り口である大門があった。長方形の周囲は幅10mほどの堀で囲われ、外界に通じるいくつかの跳ね橋はあったが非常時以外は下されることがなかった。大門から約100mのS字状の五十間道がつづき、土手通りに出る。この出口にある見返り柳付近で遊客は夢からさめて現実の世界にもどる心の準備をした。


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最終更新2006年1月3日
東京散歩



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