その1 日本橋から神田川・万世橋まで=中山道 |
*掛値 昔は盆・暮二回払いの掛売りが普通だった。今でいう「年2回ボーナス払い」である。当然ながら売値にはその間の利息相当分が含まれ現金正価より高い。越後屋はそれをやめた。 余談 一般に三越は伊勢商人に数えられているが私は、近江商人(日野商人)に入れていいのではないかと思う。伊勢商人のルーツは日野商人。 |
表店と裏長屋 日本橋を中心とした江戸の町人地は、地形に合わせて碁盤目状に町割されました。かっての町人地にあたる中央通り沿いには、今でも江戸の町割りの名残を感じさせる区画が残っています。 一つの町屋敷は通りに面した店舗である「表店(おもてだな)」とその後ろにうなぎの寝床のようにつながる「裏長屋」で構成されていました。表店では商人が店を営み、裏長屋は職人や奉公人、浪人などが住む職住接近空間でした。 ボランティア サポートプログラム |
石町時の鐘 鐘付撞堂跡 所在地 日本橋室町4丁目5番 本町4丁目2番地域 時の鐘は、江戸時代から本石町3丁目に設置された時刻を江戸市民に知らせる時鐘です。徳川家康とともに江戸に来た辻源七が撞き役に任命され、代々その役を務めました。鐘は何回か鋳直されましたが、宝永8年(1711)に製作された時の鐘が十思公園内に移されています。鐘撞堂は度々の火災に会いながら、本石町3丁目(現日本橋室町4丁目・日本橋本町4丁目)辺りにあり、本通りから本石町3丁目を入って鐘撞堂にいたる道を「鐘つき新道」と呼んでいました。そのことにより、時の鐘が移送された十思公園までの道が、平成14年3月に「時の鐘通り」と命名されました。近くの新日本橋駅の所には、江戸時代を通してオランダ商館長一行の江戸参府の時の宿舎であった「長崎屋」があり、川柳にも「石町の鐘は、オランダまで聞こえ」とうたわれ江戸市民に親しまれていたのです。 平成15年3月 中央教育委員会 |
今川橋の由来 元禄4年(1691)この地、東西に掘割開削され江戸城の外堀(平川)に発し、この地を通って神田川に入り隅田川に通じていた。始めは神田堀、銀(しろがね)堀、八丁堀などと呼ばれていたが、後に江戸城殿中接待役井上竜閑が平川と掘割の接点に住んでいたので竜閑川とよばれるようになった。この運河は、江戸市中の商品流通の中枢としての役割は極めて大きく神田の職人町、日本橋の商人町は大きく栄えた。この掘割は、神田と日本橋の境界として11の橋梁がありこの地に架けられた橋は当時地元町人の代表であった名主、今川善右衛門の姓をとり、「今川橋」と名づけられたという。昔、東海道以外の街道を江戸より旅する時は、日本橋を発ち初めて渡るのが今川橋であった。昭和25年竜閑川の埋め立てと同時に今川橋も廃橋解体され、360年の歴史を閉じた。 平成元年1月吉日 鍛冶町1丁目町会 場所提供者 江原富夫氏 |
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江戸時代 | 昌平橋 | 筋違橋 | ーーーー |
明治5年 | 相生橋 | 万世橋 | ーーーー |
明治6年 | ーーーー | 万世橋 | ーーーー |
明治??年 | ーーーー | 万世橋 | 昌平橋 |
明治32年 | 昌平橋 | 万世橋 | 新万世橋 |
明治36年 | 昌平橋 | 元万世橋 | 万世橋 |
明治39年 | 昌平橋 | ーーーー | 万世橋 |
中世の神田川右岸は、水田が多い農村地帯だったようです。幕府が編集した江戸の地誌である「御内府備考」には、町が整備される前、この周辺が須田村と呼ばれていたという記述があります。江戸初期の慶長年間(1596〜1615)にも、この界隈を中心に「神田青物市場」の起源とされる野菜市が開かれたこともわかっています。水運を利用して神田川沿いの河岸や鎌倉河岸から荷揚げされた青物が、1万5千坪(約49500u)におよぶ広大なこの青物市場で商われていました。当時の市場では、店が店員の住まいを兼ねていました。つまり、現在の私たちが考える市場と違い、当時は市場の中に町があるといったイメージでした。巨大な市場でしたので、中にある町も須田町だけでなく、多町(たちょう)、佐柄木町、通新石町(とおりしんこくちょう)、連雀町なども市場の一部をかたちづくっていたのです。そして、これら5町の表通りには、野菜や果物を商う八百屋が軒を連ね、連日のように威勢のいい商いが行われていたということです。青物市場の別名である「やっちゃ場」は、そんな威勢のいい競りのときのかけ声から生まれた言葉なのです。 江戸、そして東京の食生活を支え続けたこの市場は、昭和3年(1928)には秋葉原西北に、平成2年(1990)には大田区へと移転しました。それでも、現在の須田町町内には、東京都の歴史的建造物に指定されるような老舗商店が数多く営業しています、須田町は、江戸からつづく活気あふれる商いの伝統が、いまだに息づく町なのです。 現在の須田町中部町会は、この青物市場の中心であった連雀町と佐柄木町のそれぞれ一部が、関東大震災後の土地区画整理事業によって合併し、誕生しました。 |
その2 万世交差点から上野寛永寺参道まで=御成街道 |
その3 上野駅浅草口から南千住まで=奥州裏街道(奥州街道裏道) |
旧三ノ輪町 三ノ輪という地名は古く、江戸時代以前からあった。この地は奥東京湾につき出た台地の先端部であることから水(み)の鼻といわれ、これがいつしか三ノ輪になったといわれる。 延亨慶2年(1745)、隅田川の宿場として形成した三ノ輪村原宿が原宿町として独立した。そして明治3年に下谷原宿町となり、同24年、下谷原宿町と三ノ輪村が合併して旧三ノ輪町が誕生した。昭和初年まで、今はない音無川にかかる三ノ輪橋があった。慶応4年に水戸へ去る徳川慶喜は、この橋のたもとで山岡鉄舟らの見送りを受けた。今でも都電の停留所(荒川区)にその名が残っている。 |