中山道(武州路1)



日本橋−神田本郷白山巣鴨板橋志村・船渡    
いこいの広場
日本紀行
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1966年夏の
「旧中山道徒歩旅行」のうち、東京都内分を歩きなおした。巣鴨駅前から板橋清水町まで、途中、自動車道や鉄道に横ぎられることがあっても、5kmにわたって旧道がひとつなぎに残っていることは感動すべきことであった。ひいき目にみれば、本郷追分から一本道だといってもよい。


日本橋 

国指定重要文化財 日本橋    所在地 中央区日本橋1丁目-日本橋室町1丁目
  日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)と伝えられています。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。 現在の日本橋は東京市により、石造二連アーチの道路橋として明治44年に完成しました。橋銘は第15代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。橋の中央にある日本国道路元標は、昭和42年に都電の廃止に伴い道路整備がおこなわれたのを契機に、同47年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。 平成10年に照明灯装飾品の修復が行われ、同11年5月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管しています。 平成12年3月   中央区教育委員会

大学時代に中山道を歩いたのが1966年(昭和41)の夏だったから、都電が廃止される1年前のことになる。確かに当時の写真には架線があるし、道のど真ん中に瀟洒な東京市道路元標が立っていた。それが6年後には橋の北詰に作られた元標公園にうつされ、そのあとに「日本国道路元標」のプレートが埋標された。なお、その上空、高速高架の間に設けられている東京市道路元標に似た標柱は、高速道路をいく車に日本橋と日本国道路元標の位置を知らせる「道路元標地点」碑である。高速道路がかくも大事な日本橋をまたぐことになった無礼に対する贖罪のしるしのように見える。

日本橋河岸

橋を渡った右側たもとに小さな空き地があってその奥に乙姫の石像がある。日本橋から江戸橋にかけて、川の北岸は最近まで海魚をあつかう東京の一大市場であった。徳川家康が江戸に移った際、摂津の佃村の名主森孫右衛門が村内の漁師を率いて江戸海岸の小島であった佃島に移住してきた。佃煮の佃である。島の漁民は湾で取れた白魚を幕府に献上していたが、やがて幕府の許可を得て日本橋の北詰に魚市場を開くことになった。以降日本橋魚河岸は、関東大震災で魚市場が築地に移るまで繁栄を謳歌した。

室町仲通りをすこし入ったところに佃煮の老舗「鮒佐」がある。店先に
「発句也松尾桃清宿の春」と彫られた芭蕉句碑がある。当時小田原町とよばれたこの場所に、29歳で江戸に出てきた若き芭蕉が8年住んでいた。

越後屋

広重の「名所江戸百景」に駿河町の錦絵がある。富士山がよく見えるというので「駿河」の名をつけた。日本橋の北側には越後屋呉服店と三井両替店の長大な表店が連なっていた。伊勢松坂の商家(元は
近江日野の武士。江戸初期井高俊の時、伊勢松阪にて酒・質商にたずさわる。高俊の父が後守を称したことが屋号の由来。)の4男として生まれた三井高利は1673年江戸本町一丁目に呉服店、越後屋を始めた。後に駿河町に移転して両替店を併置した。三越と三井住友銀行のルーツである。越後屋は、立ち寄りやすい「店先売り」という店頭販売、「現銀掛値なし」という正札販売などの革新的サービスを打ち出したちまちのうちに江戸最大の大店になった。日本初のエスカレータを設け少し眠たそうなライオンを置いたルネッサンス式新館が落成したのは奇しくも夢二が港屋を開いた1914年のことであった。今、三越本館をはじめ周囲一帯が再開発工事の真っ只中にある。普通は目障りな囲い看板には江戸情緒満載の絵が描かれ通行人の目を楽しませてくれる。今、日本橋が熱い。そこを起点に北へと3街道一度歩きのスタートをきった。

*掛値 昔は盆・暮二回払いの掛売りが普通だった。今でいう「年2回ボーナス払い」である。当然ながら売値にはその間の利息相当分が含まれ現金正価より高い。越後屋はそれをやめた。
余談 一般に三越は伊勢商人に数えられているが私は、近江商人(日野商人)に入れていいのではないかと思う。伊勢商人のルーツは日野商人。

老舗風の店が室町に集まっている。伊勢定や大和屋があるのに近江屋がみあたらない。北に向かって歩をすすめていくが、旧道の宿場町に残るようなふるい建物の痕跡がない。代ってところどころでボランティアや教育委員会による絵入りの遺跡案内にぶつかった。

表店と裏長屋
日本橋を中心とした江戸の町人地は、地形に合わせて碁盤目状に町割されました。かっての町人地にあたる中央通り沿いには、今でも江戸の町割りの名残を感じさせる区画が残っています。
一つの町屋敷は通りに面した店舗である「表店(おもてだな)」とその後ろにうなぎの寝床のようにつながる「裏長屋」で構成されていました。表店では商人が店を営み、裏長屋は職人や奉公人、浪人などが住む職住接近空間でした。
           ボランティア サポートプログラム

室町3丁目に、五代将軍綱吉が京都の雛人形師10人を招き雛人形屋を開かせたといわれている十軒店跡の説明板がある。最近まで、だた一つ玉貞人形店がその証を守っていたそうだが、付近をさがしても見当たらなかった。再開発の絡みでどこかへ引っ越したのか、それとも廃業したのか、わからない。


十軒店跡    所在地 中央区日本橋室町3−2−15
十軒店は雛市の立つ場所としてしられていました。『寛永江戸図』に「十軒たな」と記された、石町(こくちょう)二・三丁目と本町二・三丁目に挟まれた小さな町で、日本橋通りの両側に面していました。江戸時代の初め、桃の節句・端午の節句に人形を売る仮の店が十軒あったことから、この名があるともいわれています。江戸時代中期以降、三月と五月の節句や十二月歳暮市には内裏雛・禿人形・飾道具・甲人形・鯉のぼり・破魔弓・手毬・羽子板など、季節に応じた人形や玩具を売る店が軒を並べていました。『江戸名所図会』には「十軒店雛市」と題し、店先に小屋掛まで設けて繁昌している挿絵が描かれています。明治時代以降もこの地は「本石町十軒店」と称されていましたが、明治44年(1911)に十間店町となり、昭和7年(1932)、旧日本橋区室町三丁目に編入されました。  平成10年3月     中央区教育委員会

東側、日光街道の起点である大伝馬本町通り入口を過ぎ、江戸通りを越えた一筋目を「時の鐘通り」という。入口に「石町(こくちょう)時の鐘 鐘付撞堂跡」の説明板が由緒を語っている。

石町時の鐘 鐘付撞堂跡  所在地 日本橋室町4丁目5番    本町4丁目2番地域
時の鐘は、江戸時代から本石町3丁目に設置された時刻を江戸市民に知らせる時鐘です。徳川家康とともに江戸に来た辻源七が撞き役に任命され、代々その役を務めました。鐘は何回か鋳直されましたが、宝永8年(1711)に製作された時の鐘が十思公園内に移されています。鐘撞堂は度々の火災に会いながら、本石町3丁目(現日本橋室町4丁目・日本橋本町4丁目)辺りにあり、本通りから本石町3丁目を入って鐘撞堂にいたる道を「鐘つき新道」と呼んでいました。そのことにより、時の鐘が移送された十思公園までの道が、平成14年3月に「時の鐘通り」と命名されました。近くの新日本橋駅の所には、江戸時代を通してオランダ商館長一行の江戸参府の時の宿舎であった「長崎屋」があり、川柳にも「石町の鐘は、オランダまで聞こえ」とうたわれ江戸市民に親しまれていたのです。  平成15年3月   中央教育委員会


神田 

室町4丁目の交差点をこえ鍛冶町にはいるとそこは神田である。日本橋は商人の町であるのに対し、神田にはさまざまな職人たちが集まった。草屋町(藁)、鍛冶町、鍋町(鋳物)、紺屋町(藍染)、蝋燭町、大工町、白壁町(左官)、乗物町(駕籠)、白銀町(銀細工)、新石町(石)、雉子町(木地)、塗師町(漆塗り)、佐柄木町(研師)、連雀町(尺)など、それぞれの職人ばかりが集まっていた区域である。今もそのいくつかの名を残している。
「江戸っ子だってね」「神田の生まれよ」。神田は江戸の粋を代表した。

大きな今川橋交差点に出る。昭和25年まで、ここを東西に横断して外堀と神田川を結ぶ水路があった。今川橋は日本橋からでて中山道が渡る最初の橋で、日本橋と神田をわける境界線でもあった。

今川橋の由来 
元禄4年(1691)この地、東西に掘割開削され江戸城の外堀(平川)に発し、この地を通って神田川に入り隅田川に通じていた。始めは神田堀、銀(しろがね)堀、八丁堀などと呼ばれていたが、後に江戸城殿中接待役井上竜閑が平川と掘割の接点に住んでいたので竜閑川とよばれるようになった。この運河は、江戸市中の商品流通の中枢としての役割は極めて大きく神田の職人町、日本橋の商人町は大きく栄えた。この掘割は、神田と日本橋の境界として11の橋梁がありこの地に架けられた橋は当時地元町人の代表であった名主、今川善右衛門の姓をとり、「今川橋」と名づけられたという。昔、東海道以外の街道を江戸より旅する時は、日本橋を発ち初めて渡るのが今川橋であった。昭和25年竜閑川の埋め立てと同時に今川橋も廃橋解体され、360年の歴史を閉じた。  平成元年1月吉日 鍛冶町1丁目町会   場所提供者 江原富夫氏

須田町

神田駅付近は、日本橋の整然とした町並みから、急に下町の商店街に迷い込んだ気分にさせる。JRのガード下や細い路地の入口には、宣伝札を支え持った人たちが並木のように立っていた。その広告の殆どがなぜかサラ金である。駅をすぎ、須田町に入る。

新中山道、中央通り(R17)は変則4差路交差点を右斜めに進み、交通博物館の東側の万世橋で神田川を渡る。旧中山道は変則4差路交差点を直進し、靖国通りを突っ切って交通博物館の西側に出る。ここに江戸時代、筋違見附があり、旅人は筋違橋を渡って神田川を越えた。その橋はもうない。この三角地帯には古道と鉄道の歴史が埋まっている。交通博物館はその墓守だ。

見事なアーチを埋め尽くす旧駅舎の赤レンガ壁を背に、人目につかない説明板が一人寂しく立っている。昭和51年という古い立て札だが、「御成道」を説明している貴重な資料である。

御成道
「御府内備考」に「御成道、筋違外(すじかいそと)広小路の東より上野広小路に至るの道をいう」とあります。筋違は筋違御門のあった所で、現在の昌平橋の下流50mの所あたりに見付橋が架かっていました。御成道の名は将軍が上野の寛永寺に参墓のため、江戸城から神田橋(神田御門)を渡り、この道を通って行ったからです。見附内の広場は八つ小路といって江戸で最も賑やかな場所で明治時代まで続きました。八つ小路といわれたのは、筋違、昌平橋、駿河台、小川町、連雀町、日本橋通り、小柳町(須田町)、柳原の各口に通じていたからだといわれます。また、御成道の道筋には武家屋敷が多くありました。江戸時代筋違の橋の北詰めに高砂屋という料理屋があり庭の松が評判であったといいます。明治時代には御成道の京屋の大時計は人の眼をひいたようです。また太々餅で売出した有名な店もありました。昭和51年3月  千代田区

将軍が上野寛永寺に参詣するときこの道が使われたために御成道とよばれる。江戸時代ここに筋違橋と見付門があって江戸市中を出入する人々を監視していた。筋違という名は日本橋からきた中山道と大手門−神田橋から来た上野御成道が見付け前の八つ小路で斜めに交差していたことによる。


昌平橋−筋違橋−万世橋の位置と名前の変遷を語るのは極めてややこしい。

@江戸時代、筋違見付けに付随して筋違橋という名の木橋が架けられていた。明治になって見付が廃止されたとき、枡形に使われていた石材を利用して、筋違橋を万世橋という石造りアーチ橋に改修した。万代(よろずよ)橋、また眼鏡橋とも呼ばれた。

江戸時代 昌平橋 筋違橋 ーーーー

A江戸時代、筋違橋の50m上流にあった昌平橋は、明治になって相生橋と改称したものの、
明治6年(1873)神田川大洪水で落橋した。

明治5年 相生橋 万世橋 ーーーー
明治6年 ーーーー 万世橋 ーーーー

B現在の万世橋の位置に昌平橋を架けた。

明治??年 ーーーー 万世橋 昌平橋

C明治32年、流失した昌平橋が再架設され、Bの「昌平橋」は「新万世橋」に変更させられた。
明治32年 昌平橋 万世橋 新万世橋

D明治36年、Cの新万世橋は鉄橋に改架されるとともに、「万世橋」としてデビューすることになった。
これにともない@の古い「万世橋」は「元万世橋」と名乗り、引退する覚悟を決めた。


明治36年 昌平橋 元万世橋 万世橋

E明治39年、「元万世橋」は撤去され、橋は「昌平橋」と「万世橋」の2つになった。

明治39年 昌平橋 ーーーー 万世橋

万世橋の中央にたって東方面を眺めてみた。一隻運搬船が下っていったが写真を撮りたいほどの風景ではない。西側に移ってみると圧倒的によい眺めがあった。逆光で遠景がかすんでいるが昌平橋、聖橋を経てお茶の水、文京地区がつづく。左手は赤レンガの交通博物館が延びる。倉庫か工場風の趣のある建物である。

昌平橋の方にまわって万世橋を眺めてみた。こちらの風景も悪くない。どちらの写真でも、広重流の、画面を切り裂くような小気味よい遠近方で、風景を引き締めていたものは、赤レンガの駅舎であった。

交通博物館

時代は橋を渡る人力車から、煙をたなびかせて蒸気機関車が鉄路を走る鉄道の時代に入ると、主要な道路が交錯する八ツ小路広場はこのうえない格好なターミナル候補地として注目された。明治39年(1908)、江戸から明治にかけての交通のシンボルだった元万世橋は取り壊され、かわって八ツ小路の跡地には新時代を象徴する鉄道ターミナルステーションの建設が始まった。
明治45年(1912)、駅前広場を擁する万世橋駅は、中野駅とを結ぶ中央線の始発駅として開業する。設計者は東京駅舎を手がけた辰野金吾。万世橋駅は東京駅の習作とも云われている。

須田町交差点では市電が入り乱れ、昭和にはいり、浅草−上野間の地下鉄が万世橋の地下まで延長されると、地面の上下は人ごみでごった返した。万世橋駅を核として、須田町は東京随一の繁華街となった。須田町一丁目の路地には趣きある建物の老舗が今も元気である。板塀が端正な「藪蕎麦」、粋な二階建て甘味どころ「竹邑(たけむら)」
、天保創業のアンコウ鍋「いせ源」、「手打そば」の提灯が自慢げな「神田まつや」など。この辺一帯は神田青物市場で賑っていた場歩でもあった。まつやのちょうど筋違いの多町大通りを入ったところに、「神田市場(神田須田町一丁目)」のたて札がある。

中世の神田川右岸は、水田が多い農村地帯だったようです。幕府が編集した江戸の地誌である「御内府備考」には、町が整備される前、この周辺が須田村と呼ばれていたという記述があります。江戸初期の慶長年間(1596〜1615)にも、この界隈を中心に「神田青物市場」の起源とされる野菜市が開かれたこともわかっています。水運を利用して神田川沿いの河岸や鎌倉河岸から荷揚げされた青物が、1万5千坪(約49500u)におよぶ広大なこの青物市場で商われていました。当時の市場では、店が店員の住まいを兼ねていました。つまり、現在の私たちが考える市場と違い、当時は市場の中に町があるといったイメージでした。巨大な市場でしたので、中にある町も須田町だけでなく、多町(たちょう)、佐柄木町、通新石町(とおりしんこくちょう)、連雀町なども市場の一部をかたちづくっていたのです。そして、これら5町の表通りには、野菜や果物を商う八百屋が軒を連ね、連日のように威勢のいい商いが行われていたということです。青物市場の別名である「やっちゃ場」は、そんな威勢のいい競りのときのかけ声から生まれた言葉なのです。 江戸、そして東京の食生活を支え続けたこの市場は、昭和3年(1928)には秋葉原西北に、平成2年(1990)には大田区へと移転しました。それでも、現在の須田町町内には、東京都の歴史的建造物に指定されるような老舗商店が数多く営業しています、須田町は、江戸からつづく活気あふれる商いの伝統が、いまだに息づく町なのです。 現在の須田町中部町会は、この青物市場の中心であった連雀町と佐柄木町のそれぞれ一部が、関東大震災後の土地区画整理事業によって合併し、誕生しました。

中央線が東京駅まで延長されるに伴い御茶ノ水駅と神田駅が整備され、かって万世橋駅が独占していた人の流れは、西の御茶ノ水、東の秋葉原、南の神田に霧散していった。昭和18年(1943)、風船がすぼむように需要の萎えた万世橋駅は廃されることになった。現在は交通博物館となって、子供達の社会学習をうけいれるのに忙しい。屋上の金網に、鼻先をへばりつかせて下を覗くと、中央線の高架軌道内に、当時の駅のホーム跡が草で覆われて残っているのが見える。館内は機関車自動車、バイク、飛行機、自転車、船など、子供が目を輝かせる物であふれ、童心にかえって楽しむことができる。「旧万世橋駅のうつりかわり」と題したポスターに「2007年さいたま市大宮に移転する」と書いてあったのが気になっている。この跡地はどうなるのかしらん。


聖橋下方から昌平橋を振り返ると、3つの線路が神田川の景観を損なうことなく立体的に交差して、交通システムのダイナミズムを見ることができる。3つの電車が行き交う瞬間を無邪気に待っているだけでも楽しい。

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昌平橋−神田明神 

旧中山道の筋違橋のつもりで昌平橋を渡る。橋の名は坂上の昌平校(湯島聖堂)にちなむ。橋を渡りおえて左にとり、「大江戸助六太鼓」の宗家の前を通り過ぎて右に折れる。神田明神通りで国道17号線にもどり、道はゆるやかな上り坂をたどる。左の細道をのぞくと築地に沿った昌平坂を同年輩と思われる二人連れがゆったりと降りていく後姿が見えた。俗界を隔絶する長城のようにのびる湯島聖堂の築地塀にそって坂をすすむと、右手におおらかな神田明神の参道が出迎える。

神田明神は天平2年(730)創建、場所は皇居の辺りにあった。天慶の乱(939年)に敗れた平将門の首が付近に葬られると天変地異の怪異が続き、延慶2年(1309)に将門公を祭神として合祀した。元和2年(1616)、江戸城の表鬼門にあたる現在地に移転してきた。漆の朱色もあざやかな随神門をくぐると、広くて清涼な境内があかるくひろがる。中央の社殿をはさんで左に日本一大きな石造りの大国尊像、右には獅子山、茶店の横にはガラス箱入りのからくり獅子舞が機械仕掛けの音楽にあわせて休む暇なく舞っていた。賽銭も機械仕掛けで受け取るように仕組まれている。高校受験を控えた中学生だろうか、3人の少年、少女がおみくじを互いに見せ合ってケラケラと、健康な笑い声をふりまいていた。

祭神1:「大己貴命(オオナムチノミコト)」大国主命、「だいこく様」。国土経営・夫婦和合・縁結びの神。
祭神2:「少彦名命(スクナヒコナノミコト)」「えびす様」。商売繁昌・医薬健康・開運招福の神。
祭神3:「平将門命(タイラノマサカドノミコト)」平安時代末に活躍した武将で、関東の英雄。江戸東京の守護神。

こぎれいな本郷通りを歩いていく。心持ち学生の姿が多い気がしてくる。本郷2丁目交差点では数人の学生が通行人にビラを手渡す中で、一人の若者がマイクを口につけつつも目は原稿からひと時も離さず、一生懸命に何かを読み上げていた。左派系政党の宣伝だが、ひじょうに丁寧で穏やかな口調がむしろ初々しい。北に進むにつれ学生の数がさらに増してくる。

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本郷 

本郷3丁目交差点は学生街の中心地だ。そこにいくつかの老舗がある。左角にかねやす、右に藤むら、その筋向かいに近江屋ゆかりの書籍出版社。

かねやす

交差点の南西角をレンガタイル貼りのモダンな「かねやす」ビルが占めている。一階は若い女性向きのブティックで、二階には歯医者が入っている。このビルのオウナー兼康祐悦自身、江戸時代の歯医者だった。
兼康祐悦という口中医師(歯科医)が、乳香散という歯磨粉を売出した。大変評判になり、客が多数集まり祭りのように賑った。(御府内備考による) 享保15年(1730)大火があり、防災上から町奉行(大岡越前守)は3丁目から江戸城にかけての家は塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺を禁じ瓦で葺くことを許した。江戸の町並みは本郷まで瓦葺が続き、それからの中山道は板や茅葺きの家が続いた。 その境目の大きな土蔵のある「かねやす」は目だっていた。
 『本郷も かねやす までは江戸のうち』  と古川柳にも歌れた由縁であろう。
 芝神明前の兼康との間に元祖争いが起きた。時の町奉行は、本郷は仮名で芝は漢字で、と粋な判決を行った。それ以来本郷は仮名で「かねやす」と書くようになった。  
  −郷土愛をはぐくむ文化財− 文京区教育委員会  昭和61年3月 

吉川弘文館

安政4年(1857)、吉川半七(出版の創始者)が19歳で主家玉養堂(若林屋喜兵衛、日本橋かきがら町)から独立して書物の仲買を始める。文久3年(1863)、半七は長姉の婚家の近江屋嘉兵衛(貸本屋、吉川氏)を継ぎ、二代・近江屋半七(通称・近半)として明治3年(1870)、京橋南伝馬町(現在の京橋1丁目)の表通りに新店舗(近江屋半七書店)を開く。明治37年(1904)、合資会社「吉川弘文館」を設立。

東大

本郷3丁目の交差点から本郷通りのゆるやかな坂を上がっていくと東大の赤門がある。この間の坂道に、
「見送り坂」「見返り坂」という名が付けられた。本郷三丁目の「かねやす」を越えると江戸の外。罪を犯し江戸を追放された者はここで放たれた。坂下で親類縁者が見送り、去っていく者は坂を上ったところで見送り人を振り返った。浅草、吉野通りの泪橋ほどの悲痛はなかったろうと思う。

赤門は、安田講堂とともに、東大の象徴的建物だ。東大の象徴は大学受験の象徴でもある。それほどに、東大の存在は大きい。赤門は、文政10年(1827)徳川11代将軍家斉の第21女溶姫が前田家へ輿入れするときに建造された御守殿門である。切妻造の門の左右に、唐破風造の番所を置いている。溶姫は21女とも34女ともいわれて順位が定まらない。家斉に16人の側室がいて子供の数は50を越えると知って、途端に興味が失せた。

「東大正門」のバス停にきた。冬で銀杏並木は枯木のたちん坊だが、かえって奥に聳え立つ
安田講堂の見晴らしがよい。高校2年のときここを訪れて以来40年ぶりだ。その間にいろんなことがあった。安保闘争で女子学生が殺され、ゲバ棒と棍棒が打ち合い、血が流され救急車が狂い走った。いつしか潮が引くように狂騒と自己陶酔は姿を消し、今はタテカン一つもなく、清潔なキャンパスを若くて健康な男女が親しく歩いている。乾いた枯れ芝の上で、二組の男女の群れが冷たい冬ひなたを楽しんでいた。昔、こんなにも女性が多かったかしら。

本郷通りにもどるとき、東大正門の真正面に「有斐閣」というなつかしい文字を見た。大学でまがりなりにも法律を勉強していたころ、有斐閣の書籍を買っては勉強した気分になっていた。半分も読み終わらずに社会人となり、20年ほど経ったころ、法律書は全部捨てた。通りをすれ違う学生が愛らしい。大学という保護地域の自由さはかけがえのない特権だ。学生は与えられた時間、思う存分それを享受するがよい。どこにかぎらず、私は大学のキャンパスの雰囲気が好きである。自分の気分が若返るというだけでなく、若者に対してすなおに好意がもてる空間でもある。空気の自由さが人の心を180度に開け放つのであろう。

しばし街道のことが想念から抜け落ちて、赤レンガと鉄柵の構内仕切り塀を、ただうつろに眺めながら歩いていたが、本郷弥生の交差点で風景の断絶がわれに返らせた。本屋、喫茶店、学生の数がめっきり少なくなった。
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追分

東大農学部前のおおきな三叉路が本郷追分で、そのまま行くのは日光御成街道、中山道はここをぐるっと左に曲がる。追分の角にある
高崎商店は宝暦年間(1751〜64)の創業、両替商も兼ね「現金安売り」で繁昌し、深川から川口まで10店舗もの支店を有した資産家であった。店の二階を隠すように囲ってある青い垂れ幕には「SINCE1751」と、宝暦元年の西暦が示されてある。

中山道側の店先に
「追分一里塚跡」の説明板が立っている。かってこのあたりに中山道最初の一里塚があった。本郷追分を左にはいっていく。「R17ふれあい通り」の旗を掲げた短い商店街を抜けると真っ直ぐで静かな通りが白山まで続く。この道はかっての、そして現代の中山道でもある。都心の幹線国道とは思えないのどかさだ。右側に旧町名案内板があった。

旧駒込東片町
昔は、岩槻街道と中山道に沿って発達した宿駅で駒込宿の名があった。駒込村のうちであった。寛永年間(1624〜44)、村内はほとんど大名屋敷、武家屋敷や寺領となり、村民は中山道の東側に移った。片側町であったので、駒込片町といった。明治2年、徳性寺門前、九軒屋敷、追分町の残地を併せた。中山道の東側にあるので駒込東片町とした。同5年、大円寺、正念寺などの寺地を併せた。 (中略)
  くたびれた奴が見つける一里塚  (古川柳)   文京区
 
八百屋お七 

駒込片町というからこの辺であろうか、八百屋太郎兵衛商店が大店を構え、青果を商っていた場所だ。追分から日光御成り街道を1kmほどいった駒本小学校交差点の交番の角に土物店(つちものだな)という市場があって、そこでまだ土のついたままの新鮮な大根、にんじん、ごぼうなどを豊富に仕入れることができた。その八百屋八兵衛に「お七」という一人娘がいた。天和2年(1682)師走も末の28日の夜、近くの寺から出火した火は北風にあおられて、日本橋・深川まで達する大火となった。八兵衛一家は白山の
円乗寺に避難した。運命のいたずらか、お七は避難先の寺の小姓小野川吉三郎と出会い深い恋におちいる。しかし、母親は冷酷にも二人を引き離し、お七は家人の監視下におかれることになった。お七の恋心はつのるばかり、また火事がおこれば混乱の中で恋人に会えるだろうと、自宅に火を放ってしまう。天和3年3月28日、お七は吉三郎に合うこともなく、江戸市中数カ所に引き廻された上、品川鈴ヶ森の刑場で火あぶりの刑に処せられた。文字通り「恋に身を焦がした」熱情の乙女だった。井原西鶴に取り上げられて歴史に名を残した。

白山1丁目の信号を左に入り、急な浄心寺坂(別名、於七坂)を降りたところの円乗寺に、八百屋お七が眠っている。入口の「お七地蔵」から、
「南無八百屋於七地蔵尊」と白抜かれた赤旗が壁を作って、細い参道をお七の墓へ誘導していく。板屋根の下に3基の墓が並んでいる。真ん中のものは寺の住職が建てた供養墓、右は寛政期に役者の岩井半四郎が芝居でお七を演じて好評を得たことから建てたもの、左側は昭和になってから近所の人たちがお七の270回忌に建てたものである。

街道にもどって、見るも珍しい竹材問屋の右奥に、もうひとつのお七史跡がある。大円寺の門をはいるとその正面に、色も鮮やかな折鶴に飾られて、
「ほうろく地蔵」が安置されている。ほうろく(焙烙)とは、素焼きの浅い土鍋で、食物をいったり蒸し焼きにしたりするのに使われるもので、柄のない素焼き製フライパンとおもえばよい。火刑にあった者を弔うときによく登場する。斬首刑には「首切り地蔵」、焚刑には「焙烙地蔵」。

白山 

白山上五叉路にでると雰囲気が都会の東京らしくなってきた。右斜めに出ている細い商店街は「土物店新道」で、本郷通り・日光御成街道の「土物店跡」までをつないでいる。
交差点を左にまがり、旧白山通りをすこし逆行すると、右手にジャズ喫茶「映画館」の看板が目をひく。白山神社への参道入口にあたる場所の一角から、20世紀半ばのニューヨーク、ソーホー地区の臭いが発してくる。骨董まがいの映写機、カメラ、古時計、写真、ぜんまいなどを壁抜き倉庫風に組み立てたノスタルジックな作品だ。喫茶店のマスターはもと映画監督だったそうだ。

「映画館」の前の路地をはいっていくと、あじさいの名所として知られる白山神社に至る。梅が3分咲きであった他、あじさいの植え込みが密やかにこげ茶色した細長な芽を育んでいた。神社の創開は古く、天暦年間(947〜57)に加賀一宮白山神社を現在の本郷1丁目の地に勧請したと伝えられる。後に元和年間(1615〜24)に2代将軍秀忠の命で、巣鴨原(現在の小石川植物園内)に移ったが、1655年現在地に再度移った。明治天皇が定めたという
「東京十社」*の一つである。
赤坂氷川神社、日枝神社、神田神社、富岡八幡宮、根津神社、芝大神宮、品川神社、亀戸天神社、王子神社、白山神社

国道17号線はしばらく旧白山通りと道を共にして、都営三田線千石駅で白山通りと合流して、中央分離帯を擁した6車線の大街道となっていく。街道の両側の景色から、おじさん・おばさんの経営する八百屋さんやうどんやの姿は消え、直線幾何学仕様のビル一色となってくる。それでも一足横道にはいるとそこは鉢植えがならび、近所の住民が立ち話をしているまちかどだった。

白山通りの西側を歩いている。本駒込6丁目の交差点の一筋手前に、3基の外灯を頂いた鉄柱がならび立ち、「大鳥神社通り」の旗をかかげている。大鳥商店街を100mほど進むと右手が「巣鴨大鳥神社」である。通りに面した片隅に子育て稲荷が併祀されており、三方を民家に囲まれた狭い敷地の奥には、大鳥神社の小さな祠が10段ほどの石段上にこじんまりと乗っていた。その中には日本武尊が祭られている。大鳥神社は貞享5年(1688)巣鴨稲荷社として創設された。宝暦5年(1755)には時の鐘が造られ明治初年まで市民に時刻を告げていたとされるが、その鐘はない。江戸末期、辺り一帯は「稲荷横丁」と呼ばれ、11月の酉の日には今も露店が立ち、熊手を求める参拝客で賑わう。

巣鴨駅が右前方に見えてくる。国道の傍に「徳川慶喜巣鴨屋敷跡地」の大理石碑が立っている。

巣鴨の住んでいた徳川慶喜
 徳川幕府15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)(天保8年(1837)〜大正2年(1913))がこの巣鴨の地に移り住んだのは明治30年(1897)11月、慶喜61歳のことであった。大政奉還後、静岡で長い謹慎生活を送った後のことである。翌年3月には皇居に参内、明治35年には公爵を授けられるなど復権への道を歩んだ。
 巣鴨邸は、中山道(現白山通り)に面して門があり、庭の奥は故郷水戸に因んだ梅林になっており、町の人々からは「ケイキさんの梅屋敷}と呼ばれ親しまれていたという。慶喜が巣鴨に居住していたのは明治34年12月までの4年間で、その後小日向第六天町に移った。その理由は、巣鴨邸のすぐ脇を鉄道(目白−田端間の豊島線、現在のJR山手線)が通ることが決まり、その騒音を嫌ってのこととされている。
       平成十年5月 巣一商店会  豊島区教育委員会

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巣鴨 

台地を堀状に削り取ってJR山手線が東西に走っている。白山通り・国道17号線がその上を跨いで、南北に伸びる。JR線路の北崖は桜の並木がつづき、春には、陸橋から見晴らす線路に染井吉野の桜吹雪が降り注ぐことであろう。並木の入り口に「染井吉野の碑」が作られた。白と黒の大理石を立体的に配置したモダンな碑だが、染井吉野桜の説明はない。かわって近くの桜木に小さなプレートが巻きつけられていて、そこに簡単な説明があった。
エドヒガンとオオシマザクラからできた品種といわれ、生長が早いので、明治末には全国に広まりました。名は江戸染井の植木屋からでたもの。

おばあちゃんの原宿

白山通りの西側商店街はそのまま、旧中山道の「巣鴨地蔵通商店街」に入って行く。ここが「おばあちゃんの原宿」だ。4のつく縁日は屋台も出て、賑わいに拍車をかけるが、金魚すくいやゲーム機などの子供向きはない。おりしも日経新聞に「訪ねてみたい商店街」の全国ランキングがあって、巣鴨地蔵通商店街が大差で堂々一位の栄光に輝いた。

どこからこんなに大勢なおばあちゃんやおじいちゃんが集まってくるのだろうと、不思議に感じるほど、老人の勢力があふれかえっている。杖はあたりまえで、押し車も車椅子も、人ごみの普通の景色に溶け込んでいる。買い手がおばあちゃんなら、売り手もおばあちゃんだ。品揃えも自然とあばあちゃん色に染まっていて、帽子・シャツ・カーデガン類が豊富にそろえてある。また、もんぺとスラックスを溶かして再製したような「モンスラ」という新語を教わった。

ミセスファッションの店先に、どぎつい赤色のパンツがぶら下がっているのを見つけてハッとなった。「老人もの」の中に「オトナもの」が混じっているわけもなく、危うく誤解するところだった。なんでもこれにはわけがあって、赤パンツは健康と幸福を呼ぶ縁起物なのだそうだ。それでも、宣伝文句のなかに「夜興奮して眠れなくなるおばあちゃんもいる」とある。一枚買って帰りたい衝動をグッとこらえた。
モンスラ赤パンツはともに巣鴨のオリジナルである。

真性寺

商店街の入り口に当たる門前で托鉢尼がおばあさんと話し込んでいる。布施をうけとるとおばあさんの腰や肩など体じゅうをさすりだした。ここが
江戸六地蔵*の一つを安置する真性寺で、毎年6月24日に行われる百万遍大念珠供養で知られる。大勢の人々が輪になって巨大な念珠を回す。

江戸六地蔵とは、道中安全を願って江戸府内に入る主要街道の入口に6体置かれたもの。
品川寺(南品川:東海道)、 真性寺(巣鴨:中山道)、 太宗寺(新宿:甲州道中)、 東禅寺(東浅草:日光・奥州道中)、 霊厳寺(白河:水戸街道)、 永代寺(江東区・消滅:千葉街道)

真性寺由緒沿革
 当寺は、医王山東光院真性寺と称し、真言宗豊山派に属し、奈良県桜井市初瀬にある総本山長谷寺の末寺であります。当寺の開基は、聖武天皇勅願行基菩薩開基と伝えられています。(中略)当寺は江戸時代より弘法大師御府内八十八ヶ所第33番札所・江戸6地蔵参り第3番となっています。
 巣鴨は中仙道の江戸への入り口に当たり、八代将軍徳川吉宗公が度々狩に来られ、当寺が御膳所とされていました。
江戸六地蔵尊 第三番 縁起
 当寺境内に安置されております江戸六地蔵尊第3番の尊像は、地蔵坊正元が発願主となって、宝永3年(1705)建立の願を発してから、享保5年(1720)に至る15年間に、江戸御府内の多くの人々より寄進を集め造立された六体の大地蔵尊の一体で、正徳4年(1714)に完成されました。
  発願主の地蔵坊正元は、若い頃に大病を患い、両親が地蔵菩薩に一心に祈願を込められている姿を見て、自らも御利益が得られたならば、世の中の人々に地蔵菩薩のご利益を勧め、多くの尊像を造立して人々に帰依することを勧めたいと地蔵菩薩に誓ったところ、不思議な霊験があって難病から本復したことにより、誓いの通り地蔵菩薩像を江戸の出入り口にある六ヶ寺に造立されたのであります。
      平成12年8月吉日   医王山 真性寺

高岩寺−とげ抜き地蔵

商店街を50mほど入り込んだところにある高岩寺は、「とげぬき地蔵」の名で知られている。「萬頂山高岩寺は慶長元年(1596)頃、神田明神下にて開創、その後下谷屏風坂下(現上野7丁目岩倉高校付近)に移転、明治24年当地に移転してきた」。入り口の両側に僧が立っている。カメラを向けても睨まれるどころか、おばあんさんと一緒に連れ合いのカメラにおさまる親切さが、垢抜けていて楽しい。本堂のなかは真っ暗で仏像の類は置かれていない。とげぬき地蔵は秘仏で公開されていないそうだ。「とげ抜き」の由緒は二段構成になっているため、かなり長い話になる。説明板から抜書きしてみる。

とげぬき地蔵尊御縁起 (抜粋)
正徳3年5月、江戸小石川に住む田付氏の妻、常に地蔵尊を信仰していたが、一人の男子を出産後重い病気に見舞われて床に臥した。・・・ある日のこと田付氏の枕元に、木の節のようなものが置いてあり、平らな部分に地蔵菩薩のお姿があった。・・・田付氏は形を印肉にしめして一万体の「御影」をつくり、両国橋から隅田川に浮かべ一心に祈った。・・・以来田付夫人の病気は次第快方に向かい、以後無病となった。・・・西順という僧がいて、その御影をほしいといわれ、二枚を与えた。西順は毛利家に出入していたが、ある時同家の女中が口にくわえていた針を飲み込んで大いに苦しんだ。西順が持っていた地蔵尊の御影一枚を飲ませると、腹中のものを吐き、御影を洗ってみると、飲み込んだ針がささって出てきた。(田付氏が自ら記して高岸寺に献納された「霊験記」より)

洗い観音

ひとだかりと行列はむしろ境内の左隅にあった。
ロープの張ってある列を離れて境内の外に出て、背後から列の先にある風景をみた。水にぬれ人に洗いこすられ、人の背丈ほどの観音像が黒光っている。これをとげ抜き地蔵だと思って感激する人が多いらしい。信仰深い人たちは、丁寧に体の隅々まで洗ったり、さすったりするので列の動きは遅々としている。
以前はタワシで擦っていたため先代の観音像はこすられ減ってしまい、新しいものが建てられた。タワシはガーゼに取り替えられた。

近江の館

一軒くらいあるだろうと内々期待していた店が見つかった。「近江屋」ではないが、「近江の館」は「近江屋」よりも具体的に近江的である。店内を見せてもらった。鮒寿し、琵琶湖もろこ、丁稚羊羹、鮎、草餅、日の菜、赤かぶ、大豆、江州米等など。丹波黒豆???
若い二人の男性が手分けして商品の陳列に忙しそうだった。レジで、客をさばき終わった女性店員にそっと聞いてみた。二人のうちの一人を、腰の辺りで指差して「あの人が長浜の出身です」と、手短に教えてくれた。いつからこの地で店をかまえたのか、知りたかったが言い出せず、店主を横目で盗み見て店を出た。

巣鴨庚申塚

商店街はとげ抜き地蔵を中心として、その前後は正規分布状に人ごみが衰えていく。地蔵通りの終点は都電荒川線の手前にある巣鴨庚申塚だ。普段は閑散としているが、2ヶ月に一度の庚申の日や月3回のとげ抜き地蔵の縁日には警察や地元町会の人がでて交通整理するほどに人気がある。とげ抜き地蔵がこの商店街にやってきたのは明治以後だから、江戸時代はここが繁華の中心だった。

庚申とはかのえさる。旧暦で60日に1回やってくる。道教の伝えを逆手にとって、庚申の日には、夜を徹して楽しんだ。伝わっている信仰とは略、以下のようなことである。


道教の伝説によると、人間の頭と腹と足には三尸(さんし)の虫がいて、いつもその人の悪事を監視しているという。三尸の虫は庚申の日の夜、人の寝ている間に天に登って天帝に監視結果を報告し、罪状によっては寿命が縮められることがあった。そこで、三尸の虫が天に登るのを妨げるために、その夜は村中の人達が集まって神々を祀り、その後、寝ずに酒盛りなどをして夜を明かした。これを庚申講という。庚申講を3年18回続けた記念に建立されたのが庚申塔で、今も各地に残っている。仏教では、庚申の本尊を青面金剛および帝釈天に、神道では猿田彦神としている。これは、庚申の「申」が猿田彦の猿と結び付けられたもの。また、猿が庚申の使いとされ、庚申塔には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が彫られることが多かった。

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西巣鴨−庚申塚通り

都電荒川線

庚申塚交差点までが「地蔵通り」で、ここから北は西巣鴨の「庚申塚通り」に入る。南からギンブラしてきたおばあちゃんたちは、庚申塚を参ったあとはUターンしてひ再び原宿の繁華に消えていくか、さもなくば都電荒川線に乗って帰路をたどる。または、ここを起点として地蔵通りを下がっていく。いずれにしても庚申塚通りを歩くおばあちゃんは殆どいなかった。まずは都電荒川線の踏切をわたる。庚申塚駅が踏み切りを挟んで両側にある。北側のホームの後ろに、陶製のおじいさんの人形が飾ってある。おはぎ、おしるこなど、女性が欲しがりそうな甘党の店「いっぷく亭」が、短いホームを独占している。 

明治女学校跡

荒川線を越えて一つ目のすじを左に入り、特別養護老人ホ−ム「菊かおる園」の脇を通りすぎると西巣鴨幼稚園に突き当たる。隣接する児童館玄関脇に「明治女学校之址」碑が立つ。
「菊かおる園」のある場所に、日本人が初めて創設した女学校があった。若い島崎藤村が英語を教え、女学生と恋におちた場所である。卒業生に野上弥生子がいる。

明治女学校は木村熊餌二・鐙子夫妻の発意から田口卯吉、植村正久、島田三郎、岩本善治が連名で創立 明治18年より41年まで日本近代の女子教育に不滅の足跡をとどめました。  以下略
  所在地 豊島区西巣鴨2−14−11(西巣鴨幼稚園・児童館)  昭和58年10月18日 建之

延命地蔵

次の路地、野菜屋さんの店角に、「延命地蔵」と赤書きされた石柱がある。そこをはいるとすぐ左手にブロック壁と鉄柵にかこまれた囲い地に、赤前掛けを垂れた石地蔵と、その右に供養塔が安置されている。卍形の真鍮板がうき上がってみえる。中山道の脇にあって、長い旅路に疲れて当地で死亡した人馬を供養するために建てられたという。それがいまや、「全人類の平和と幸福を願う」レベルにまで高められた。

東京種苗株式会社

掘割の手前右手の古い建物は、「東京種苗株式会社」である。種苗問屋の老舗だったがどうやら店は閉じているようにみえる。横道をはいると、店の裏には榎本家の立派な邸宅が広がっていた。中山道は種子屋(たねや)街道とも呼ばれたくらい多かった。なかでも滝野川の桝屋孫八、越部半右衛門、榎本重左衛門はそのパイオニアとして滝野川三軒家とよばれ、三軒家はそのまま地名にもなっている。

「JA東京グループ」の名で、新旧両街道筋に「江戸・東京の農業」の案内がある。そこにある、「榎本種苗店(西巣鴨)」がこの「東京種苗株式会社」だろう。


江戸・東京の農業  旧中山道はタネ屋街道
 旧中山道を通る旅人の中には弁当を食べるため、街道沿いの農家に立ち寄り、縁側を使わせてもらう人などもいました。旅人は、農家の庭先や土間で見慣れない野菜を見かけると、国元で栽培しようと、タネを欲しがる人も多く、やがては農家の副業としてタネを販売するようになりました。その後、江戸・東京が生んだ
滝野川ゴボウ、滝野川ニンジンなど優れた野菜が出現するとタネを扱う専門店ができ、明治の中期には巣鴨のとげぬき地蔵から板橋区清水町にいたる約6kmにタネ屋問屋が9戸、小売店が20戸も立ち並びさながら、タネ屋街道になっていました。
 寛永20年(1643)の代官所に申告した書き付けに、長野県諏訪からきたタネの行商人が
榎本種苗店(豊島区西巣鴨)に仕入れにきた模様などが記されています。
 馬12〜3頭をひいてタネを仕入れ、帰り道「萬種物」の旗を立てて街道のタネ問屋に卸していったり、農家に販売して歩くなど、さながら富山の薬売りと同じようにタネも行商により商われていました。
   平成9年度JA東京グループ  農業共同組合法施行50周年記念事業   東京都種苗会

国道17号線沿いの北区立滝野川西区民センター前に滝野川ゴボウ、滝野川ニンジンの更なる説明書きを見つけた。

江戸・東京の農業  滝野川ニンジンとゴボウ
 この地域は深い黒土に覆われているため、長い根のゴボウ・ニンジンの生育に適していました。「北区の風土記」に「滝野川の地域は、武蔵野台地の一部で、水田が乏しく、畑地ばかりなので、米の代りに野菜をつくって江戸に出荷していた」とあり、とくに、ニンジンとゴボウは篤農家の努力で優秀な品種が作られ、江戸の人々に歓迎されました。
 滝野川ニンジンは他のニンジンに比べて収穫時期が遅く根が長い品種で、長さは1mにもおよびました。
濃い赤紅色で、香りが強く肉質がしまっているのが特色で、関西の「金時ニンジン」と並んで関東地方では、享保年間(1716〜36)から昭和20年頃まで、約200年間にわたり栽培されました。
 また、滝野川ゴボウは、元禄年間(1688〜1704)に北豊島郡滝野川の
鈴木源吾によって栽培が始まり、根の長さが1mもある大長ゴボウで品質がよく人気がありました。
  平成9年度JA東京グループ  農業共同組合法施行50周年記念事業

滝野川

庚申塚通りが明治通りと交わる掘割から、滝野川にはいり、板橋もいよいよ近い。

交差点の左手、明治通りの両側に「千川上水」に関する二つの史跡がある。南側の小さな公園の中央に分配堰の落し口とバルブが、北側の歩道上には「
千川上水分配堰の碑」がある。千川上水は元禄9年(1696)、小石川白山御殿・湯島聖堂・上野寛永寺・浅草寺御殿と、下谷・浅草方面の江戸市民の飲料水を確保するために、玉川上水を分水したもので、ここにつくられた溜池で、沈殿させた後、木樋や竹樋の暗渠を通じて江戸市中へ供給された。なお、「堀割」の地名は、慶応元年に、幕府が滝野川村に建設した反射炉の水車利用のため、王子方面への分水を開削する際に堀をつくったことに由来する。

滝野川6丁目を板橋に向かって歩き始める。明治通りの角が工事中で、その隣の表札は「榎本」と書かれていた。

右手に
日本農林社の本社がある。創業は嘉永5年(1852)という歴史ある種会社だ。HPに、初代鈴木政五郎とあったので、先述の滝野川ゴボウ創始者鈴木源吾に思いが至った。時間的に200年近い開きがあるので両人に直接の関係を期待するのは無理があるかもしれない。

その向かいは、一階、中二階、二階建てと、屋根を3段に構えた旧家である。近づくと「榎本重次郎」の表札がかかっていた。名は、三軒家の「榎本重左衛門」に最も近い。これで榎本家を3つ見たことになる。庚申塚通りの東京種苗株式会社との縁つづきであろうとは想像できるが、家系の主分まではわからない。いずれにしても榎本家はこの土地の名主的存在だったにちがいない。

つぎは右手の
西尾商店である。明治40年(1907)創業、亀の子束子一筋でここまでやってきた老舗だ。

岩田園茶屋、豊島屋金物店と、古い軒先が隣り合わせに続いている。

民家の屋根越しに銭湯の高い煙突がみえたので細い路地を入ってみた。
稲荷湯とある。遊廓を思わせるような仰々しい宮造りでなく町家風の建物だった。銭湯の向かいは指物屋だろうか、職人風のおじさんが障子を直している。

路地の奥からこざっぱりしたおじいさんが歩いてきた。当然な日課のように、仕事をしている指物師に声をかけ、世間話を始めた。私が通りにもどって、プランターを並べている下町路地風景の写真を撮ろうとカメラを構えていると、さきのおじいさんがやってきて、角の軒にたっていたもう一人のおじいさんと立ち話を始めた。小学校以来の同級生のような雰囲気である。できることなら避けたいと思う隣人関係がここには生きている。風景としても美しい。

左手に
滝野川種苗という園芸店を見て、種子屋街道の中心地の散策を終えた。

さて、滝野川6丁目といえば、1966年7月26日、午前10時ごろ、真夏の炎天下を日本橋から歩き始め、最初の休憩をとったのがこのあたりだった。北島さんというおじいさんと井戸端でしばらく昔話をした。井戸からくみ上げた水が氷で冷やしたミネラルウォーターよりもうまかった。アルバムに住所をメモっておいた。滝野川6−76。今地図で確認すると、この番地は国道17号線沿いの正一位重吉稲荷神社の隣あたりだ。私たちはこの魅力的な旧道を知らずに、17号線を歩いていたのだった。とげぬき地蔵もしらなければ、おそらく次の板橋宿でも黙々と車の煙と競うように国道をあるいていたものと思う。

ある日そっと、滝野川6−76の区域を歩いてきた。国道沿いはマンションが並び、井戸端話ができる余地などないが、一足横道に足を踏み入れると、車は通れない路地が迷路のように入りくっている。マンションの裏側で、花を植え飾ったアプローチの先に、「北島」という表札を見つけた。

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板橋 

滝野川のゆったりした道柄も、板橋の駅が近づくにつれざわついてくる。おおきなT字路の角あたりが平尾一里塚跡だといわれているが、それを示す標などは見あたらなかった。ここを左にまがると板橋駅東口である。駅前に
近藤勇の墓がある。狭い敷地に供養塔や石像、碑の類がいろいろとある。慶応4年(1868)4月、T字路の平尾一里塚あたりにあった刑場で、新撰組局長は首を切られた。明治3年箱館戦争で戦死した土方歳三も勇と共に眠っている。

線路の踏切をこえて駅の西口に出る。こちらの方が開けていて、活気がある。駅前広場に旧中山道を記念した「
むすびのケヤキ」碑が建てられていた。隣に板橋宿場の案内がある。


中山道は江戸日本橋を起点として、板橋宿から武蔵・上野・信濃・美濃を経て近江守山まで続き、近江草津で東海道に合流する街道で五街道の一つでした。江戸幕府は幕藩体制を整えるために道幅を5間(約9m)と決めて整備を行ったり、一里塚を築造したりなど街道の整備に努めたということです。
 江戸日本橋から約2里(約10km)のところにある板橋宿は中山道第一の宿で、江戸4宿の一つとして発展しました。板橋宿の延長は15町49間(約1.7km)にもなり、江戸に近いほうから平尾・中宿・上宿と三つの宿に別れていました。中心地だった中宿には問屋場、本陣・脇本陣、料理屋などが軒を並べていたそうです。

駅西口から国道17号線に交わるまでは、旧中山道ではあるが、下町風情も宿場情緒も感じさせない、普通の商店街と変わりない。500mほどで、中山道最初の板橋宿にはいる。国道17号線との交差点にある平尾交番が
平尾追分にあたる、川越街道との分岐点である。川越街道はすこしだけ国道と一緒に歩いた後、左に離れていく。旧中山道は分断された街道を信号でつないで平尾宿にはいっていく。板橋宿のマスコットだろうか、うさぎが追分で旅人を歓迎していた。

平尾追分の手前右に入ったところに「
東光寺」があり、ここに宇喜多秀家の墓がある。
加賀屋敷にあった赤門通用門を山門にしているのは、室町時代の創建、真言宗豊山派の
観明寺である。入り口にある庚申塔は寛文元年(1661)に造られたもので、青面金剛像が彫られたものとしては都内最古であるという。残念ながら、柵にかこまれて、気に入る写真は撮れなかった。境内にある稲荷神社も加賀前田家の下屋敷にあったものである。

通りに面して、堂々とした宮造りの銭湯「花の湯」が青瓦唐破風を誇示している。その側道をはいると花の湯の裏側にマンションがある。かってはここに豊田家の屋敷があり、脇本陣をつとめていた。千葉県流山で捕らえられた近藤勇が、板橋宿に護送され、監禁されていた場所でもある。マンション前の植木の中に碑が立つ。

「旧中山道仲宿」の賑やかな交差点を横ぎるのは、明治21年(1888)につくられた
王子新道で、滝野川村を通って王子に至る。宿場制度が廃止され、明治16年に上野〜高崎間の鉄道が開通すると、板橋宿は急激に寂れてしまった。翌明治17年の板橋宿の大火が住民の疲弊に追い討ちをかけた。人々は職を求めて、王子製紙など、工場町として発展途上にあった王子へ群れをなして通っていった。歩きやすい広い道が必要だった。

民家の間の細い袋小路は宿場馬のつなぎ場だった。一角に石塔群が寄せ集められている。その奥にある小さな堂が
遍照寺である。案内板には、明治時代、一旦廃寺となったが現在は成田山新勝寺の末寺だとある。明治になってもここで馬市が開かれていたという。


右手にライフというスーパーマーケットが出てくる。この辺が仲宿でも最も賑やかな場所のようだ。右となりが飯田不動産。スーパーの敷地も
飯田家の所有地だったのだろう。不動産ビルの通用門隅に「板橋宿本陣跡」の標柱が立っている。ライフの北の通りに飯田家の菩提寺である文殊院、街道の一筋北、うなぎやの角を左に曲がったつきあたりに脇本陣跡の碑がある。こここそ、「飯田総本家」とある。

商店街を進み石神井川にかかる板橋に出る。「板橋宿」の名前の由来元である。元は太鼓橋だった。石神井川はかって王子から根岸を流れていた音無川の源流である。「板橋」が歴史に登場するのは、源頼朝がここに陣を張った時といわれる。鎌倉街道でもあったわけか。
この辺までが仲宿、ここから縁切り榎あたりまでが上宿だった。橋本屋酒店が上宿脇本陣(板橋家)跡だといわれるが、標識を見つけることができなかった。橋の右下が公園になっていて細い流れに鯉が遊泳していた。もとの石神井川の流れ跡だという。春は桜がきれいそうだ。

板橋をわたり、下町風の商店街がつづく。鰹節・海苔・茶を売る店と、米穀店が、共に新井屋の屋号で二軒つづきで商なっている。
五叉路の角に設けられた小さな公園に櫓が建ってある。川越の「時の鐘」に似てなくもない。角に「中山道板橋宿 
ここは上宿」の石柱がある。
蕎麦処「長寿庵」の向かいが、
板橋宿の1、2を争う名所、縁切り榎である。葉をおとした榎では迫力がないが、伝説を嫌がる人もいれば、利用する人もいた。

中山道板橋宿の薄気味悪い名所として旅人に知られていたのがこの縁切り榎である。いつの頃からか、この木の下を嫁入り・婿入りの行列が通ると、必ず不縁になるという信仰が生まれ、徳川家に降嫁の五十宮・楽宮の行列はここを避けて通り、和宮の折には榎を菰で包み、その下を通って板橋本陣に入った。
 この伝説の起こりは、初代の榎が槻の木と並んで生えていたため「エンツキ」と言われ、所在地である岩ノ坂を「イヤナサカ」としゃれ、これを縁切りに通わせたとする説と、富士に入山した伊藤身禄がこの木の下で妻子と涙の別れをしたからとする説がある。
 現在の榎は3代目であるが、この木に祈ると男女の縁が切れるという信仰は今でも続いている。
平成4年3月   板橋区教育委員会

坂町商店街

上宿から始まって、環7をわたり、清水町の終わりで久しぶりに国道7号と合流するまでの、ほのぼのとした通りの街灯には、坂町商店会のプレートが取り付けられている。なだらかな坂ではある。地図にその名がないのは、消えてしまった旧町名だろうか。店先で常連客と立ち話をするとうふ屋のおかみさん、しゃがみこんだ女の子の前でパンクの修理をする自転車屋の大将、店の奥に杵を振りかざす朝青龍のポスターを貼ったこんにゃく屋、戸を開け放って機械がまるみえの畳屋、鳥や熱帯魚のケースを積み重ねたペット屋、などなど。店主と客がそろっていれば、まちがいなく世間話にいそがしい風景がつづいているだろうと思われる、懐かしい通り道だ。観光客はここまでこない。通る人は近所の顔見知りばかりにちがいない。

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志村 

17号線の車の流れに沿って歩いていくと蓮沼という町になる。レンコンの産地だったのか、川近くでもあり、低湿地だったのだろう。南蔵院の説明板にも「八代将軍吉宗が戸田川(荒川)で鷹狩りを行った時御膳所と定めた由緒ある寺であるが、度重なる荒川の氾濫のため寺宝の一切を失ってしまった」と、嘆いている。
小豆沢(あずきさわ)町にはいる。野菜の名がつづくのも種屋街道らしい。

志村一里塚

国道の「志村一里塚」歩道橋の両側に、三つ目の一里塚がでてくる。榎を植えた塚が昔と同じ姿で残っているのは、都内では日光御成り街道の西ヶ原一里塚道とここの二ヶ所しかない。昔歩いたときのアルバムに、石垣を背にがっくりくたびれて、昼の休みを取っている写真がある。どこで撮ったものかメモを残しておかなかった。今それが志村の西側の一里塚であることが判明した。8時に日本橋を出て10時過ぎに滝野川6丁目で休み、昼過ぎにここに着いている。「足慣らし」としてはまずまずのペースだったろうか。暑いのとリュックが重かったのとで、二人とも半ばバテ気味の顔をして写っている。(三脚・オートタイマー撮影)

清水坂

志村坂上の変則五叉路で、国道と城山通りに挟まれた小路を斜めに入って行く。この道は縦長の「Z」字形に曲がっていて、途中、富士山が右側に見えるので「右富士」と呼ばれる名所であつた。少し行くと左へ城山通りに抜ける道があり、角に庚申塔と道標がある。庚申塔には「是より富士大山道」、下に「練馬江一里、柳沢江四里、府中江七里」とあり、万延元年(1860)の建立である。道標は寛政4年(1792)のもので「大山道ねりま川こえ道」と刻してある。

この先は逆「く」の字の下り坂で、清水坂と呼ばれる。下がりきった所に石標と説明板が設けてある。鋭角に右折して、都営三田線のガードをくぐり国道にでる。この先の横断歩道橋で東側に渡り、環状8号線をこえた右側に細い旧道が残っている。

日本橋を旅立ち旧中山道で最初の難所。隠岐殿坂、地蔵坂、清水坂と、時代とともにその呼び名を変えました。この坂は急で、途中大きく曲がっていて、街道で唯一富士を右手に一望できる名所であったと言われています。坂の下には板橋・蕨両宿をつなぐ合いの宿があり、そこには志村名主屋敷や立場茶屋などがあって、休憩や戸田の渡しが増水で利用できない時に控えの場所として利用されていました。この辺りは昭和30年代頃までは旧街道の面影をのこしていましたが、地下鉄三田線の開通など、都会化の波によってその姿を変えました。

薬師の清水

新河岸川に向かう前に、国道をすこし後戻りして、清水坂の由来でもある「薬師の清水」を訪ねることにした。江戸名所図会にもある江戸時代からの名所である。現在は薬師の泉庭園としてよく維持されている。冬場のオフ・シーズンでもあるからか、数人の工夫が、池傍の庭園を整地中だった。池には鯉が泳ぎ、国道沿いとは思えない静けさを保っている。

丘の上にある、
総泉寺は全体を立て替え中で、落成したばかりの本堂の開き扉の一枚一枚に仏像の浮き彫りがほどこされ、手前の石段にも亀をモチーフにした御影石のレリーフがみごとだ。もとは、浅草の橋場の大寺で、建仁元年(1201)に創建され、江戸時代まで千葉氏の菩提寺であった古刹である。昭和に入って、この土地に移り、当地にあった大善寺と合併した。「薬師の清水」にある薬師如来はここに引き継がれた。境内には、銀行借り入れを含めた資金調達方法を記した立て看板があるなど、非常に現代的な空気が流れている。

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船渡

蓮根川緑道」の碑を二回みて、志村橋で新河岸川をわたる。新河岸川は河川敷のない運河で、岩淵で隅田川にリレーする。舟渡にはいってすぐに東にひと筋移った通りが旧道である。埼京・東北新幹線のガードと交差してそのまま荒川堤防にぶつかって消失する。渡り跡は戸田側にあって、東京側にはない。

戸田橋へあがった時はもう4時半だった。大寒の季節の日暮れは寒い。橋上の風はなお冷たい。見降ろすと、二人の女性がながーい影を引っ張って犬を散歩させていた。上方でカメラを向けている人影に気付いたのか、歩みを止めてこちらを見上げている。私が動き出すにあわせて彼女らも影を一層長くしてかなたへ歩き去っていった。

橋の中央でコートの襟を立てて最後の休息をとった。川岸は、ススキの原がおちいる夕日を低く受けて茜色に輝いている。逆光にかすむ遠景よりたゆたゆと蛇行してくる荒川の美しい眺めを、無神経にも傷つけているのは、ススキ原のへそのようにくぼんだ、ホームレスの隠れ家だった。


(2005年2月)
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