佐屋街道



宮−岩塚万場神守(津島)佐屋

いこいの広場
日本紀行



寛永年間、徳川家光のとき東海道宮宿から桑名へ海路で行く(七里の渡し)方法に代えて、陸路佐屋に出てそこから船で桑名にわたる(三里の渡し)道、佐屋街道が整備された。風や潮の干満によって航路が変わる七里の渡しよりも安全で短く、船旅に弱い旅人や女子供は三里の渡しを好んだ。それ故佐屋街道は姫姫街道とも呼ばれる。また佐屋街道は津島神社への参詣の道でもある。伊勢神宮に詣でる人は津島神宮にも寄ることが慣わしであった。

中川福祉会館前の街道碑案内板から引用する。


佐屋街道は、寛永3年(1626)と11年(1634)の三代将軍徳川家光の通行を契機として整備が進められ、寛文6年(1666)には幕府の道中奉行が管理する官道に指定された。 この街道は、熱田宿と桑名宿を結ぶ七里の渡しの風雨による欠航や、船酔いを嫌う多くの旅人が行き交い、東海道の脇往還として非常に賑わっていた。 商用や寺社参りの人々、参勤交代の大名行列、さらにはオランダ商館のシーボルトや十四代将軍家茂、明治天皇もこの道を通行している。 永年にわたり日本の幹線道路網の一部をになってきたこの街道も、明治5年(1872)の熱田と前ヶ須新田(現:弥富町)を結ぶ新道の開通によりその役割を終え、現在では地域の幹線道路として親しまれている。





東海道との分岐点である三叉路から佐屋街道が始まる。国道1号を横切り、熱田神宮の手前、蓬莱軒の南隣に林桐葉の住居跡がある。林桐葉(林七左衛門)は熱田の郷士で、貞享元年(1684)11月、『野ざらし紀行』の旅をしていた芭蕉を、わが家に迎えて蕉門に入り、また鳴海の下里知足を紹介するなど、尾張蕉風の開拓者となった。また貞享4年11月にも『笈の小文』の旅路にあった芭蕉をもてなし、熱田三歌仙を巻いている。

正門である南門の鳥居をくぐって神宮の森に入る。広重は神宮の祭りで二頭の荒馬を競わせる神事を描いている。熱田神宮では5月5日の神輿渡御神事のあと、荒馬を競わせその年の豊作などを占った。絵では赤地と藍色の半纏グループが競っている。朱の鳥居の内側から門前の茶店を入れた構図である。正門の一の鳥居は簡素な掘立ての白木造りであった。近くにいた守衛に聞いたところ、熱田神宮に朱塗りの鳥居はないとのこと。広重の創作であろうと思われる。門前の通りはただ広い車道である。祭日にはここに出店が並ぶのであろう。

東参道と交差する右手の林の中に高さ8mを越す大灯篭がある。佐久間燈籠とよばれ、寛永7年(1630)佐久間勝之が寄進した。京都南禅寺の大灯篭、上野東照宮の「お化け灯籠」とともに日本三大石燈籠といわれている。南禅寺、東照宮ともに高さは6m余りで、熱田神宮の佐久間灯篭は飛びぬけて高い。なお、この三大灯篭はいずれも佐久間勝之の寄進によるものである。佐久間勝之(1568〜1634)は信濃国長沼藩初代藩主。寛永7年から8年にかけて3基の大灯篭を日本の東、中央、西の都に一基ずつ寄進した。巨大灯篭マニアとでもいおうか、他地にも佐久間灯篭があるかも知れない。


東参道を少し入った右手に堅固な築地塀を両翼に従えた清雪門が保存されている。静寂の中でかたくなに閉ざした門は不開門(あかずのもん)とよばれ、朱鳥元年(686)以降不動の姿で佇んでいる。

表参道にもどり本宮近くまで進んでいくと左手に信長塀がある。織田信長が桶狭間出陣の際願文を奏し大勝したのでそのお礼として奉納した塀だという。京都三十三間堂の太閤塀、西宮神社の大練塀と並び日本三大塀の一つといわれている。西宮神社の長大さに比べると長さがすこし物足りない気がした。

 

本殿前にやってきた。彫刻をちりばめ朱塗りや極彩色のけばけばしい神殿が多い中で、白木造りの熱田神宮は簡素ながらも荘厳なたたずまいで、神話の宮にふさわしい空気を満たしている。熱田神宮は三種の神器の一つ草薙剣を祀ることからはじまった。素盞嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したときその体内から1本の剣が出てきた。後に日本武尊はこの剣を授けられて東征に赴いた。駿河の国で野火攻めにあったときこの剣で草をなぎ払って難を遁れて以来草薙剣と呼ばれるようになった。東征を終えた日本武尊は、結婚したばかりの妃宮簀媛命(みやすひめのみこと)にこの剣を預けて、こんどは伊吹山に荒ぶる神を鎮めようと出かけたが、そこで大蛇の妖気にあたって伊勢亀山の能褒野で亡くなった。宮簀媛命は熱田に社地を定め、預かっていた草薙剣を祀った。


熱田神宮を西門から出て、広い国道19号の左側歩道を北上する。左手誓願寺の前に源頼朝出生地がある。源義朝の正室は熱田大神宮藤原李範の娘由良御前で、出産にあたり実家に帰っていた由良御前はこの地にあった藤原李範の別邸で頼朝を生んだ。門の後ろは空き地のようで寺は無くなったかと思ったが右手の奥にあるようだ。

 

旗屋2丁目歩道橋の手前に熱田神宮第二神門址の碑をみて、すぐ先左手に断夫山(だんぷやま)古墳がある。東海地方最大の前方後円墳で、国の史跡に指定されている。6世紀はじめ尾張氏の首長の墓と考えられている。尾張氏は日本武尊の新妻宮簀媛命の実家である。熱田神宮に近いこの地に埋葬されたことはうなづける。

 

古墳からすぐ先に美しい白壁塀に囲まれた青大悲寺がある。宝暦6年(1756)この地で生まれた「きの」という女性が開いた如来教の本山である。名古屋弁で語られた説教がそのまま経典となった。通常の寺に見られる大屋根の本堂は見られず、小規模な庵風の建物や小堂、平屋建ての座敷はあたかもご婦人方が茶会を楽しんでいる別荘屋敷の趣である。ここで当世名古屋市長の数倍も純な名古屋弁で説法が行われていたと想像するとおもわず笑みがこぼれるほど愛らしくおかしい。

 

しばらく進んで、新尾頭(しんおとう)交差点の少し手前の車道縁に「熱田神宮第一神門址」の石碑がある。その左手にある道を入って行くと突き当たりの右手に妙安寺がある。高台にある妙安寺の庭からは伊勢湾が間近に眺められ、名古屋三景の一つとして文人墨客がよく訪れた。いくつかの句碑にまじって亀の甲に乗った芭蕉の句碑がある。

旅亭桐葉の主、心ざし浅からざりければ、しばらくとどまらせんとせしほどに
  此うみに草鞋すてん笠しぐれ
貞享元年(1684)11月、『野ざらし紀行』の往路、林桐葉亭に招かれて詠んだ句。桐葉亭はそこから草鞋を投げ捨てられるほど海が近かった。

 

南接するビル脇の坂道をおりて右折、住吉橋東詰め北側に住吉神社がある。大坂廻船名古屋荷主が運漕守護のため創建、住吉神社から航海の神を勧請した。鳥居両脇に立つ常夜灯にも大坂船問屋木津屋、淡路屋、名古屋船問屋の柏屋、纐シ屋の名が刻まれている。境内には江戸中期の三俳人の句を彫った三吟塚がある。芭蕉以外の句は興味がわかない。

 

熱田神宮南交差点から国道19号を2.4kmきた金山新橋南交差点の角に佐屋街道道標がたっている。文政4年(1821)に佐屋街道筋の旅籠仲間が立てたものである。「左 さや海道 つしま道」とあるのがこれから歩く佐屋街道・津島道(県道115号)である。ここを北へ向かって直進するのが美濃路で、名古屋・清洲・大垣を経て垂井で中山道に合流する。この交差点は北名古屋、南熱田、西佐屋に分かれることから三所の境と呼ばれた。

堀川にかかる尾頭橋を渡る。堀川は、慶長10年(1610)、名古屋城下と熱田の海を結ぶために開削された運河である。堀川を下っていけば宮宿七里の渡し場に出る。橋上には「尾頭橋と佐屋街道」の説明板があり明治10年の古地図が載せられている。七里の渡し場から堀川と美濃路が北上して堀川は名古屋城の西側を、美濃路は城の正面にぶつかる様がよくわかる。

 


トップへ


岩塚

東海道新幹線のガードを潜って右手二筋目に唯然寺がある。街道に面した生垣の中に、「津島街道一里塚」の石碑が立っている。佐屋街道は終点手前に津島神社があることから津島街道とも呼ばれる。宮宿から最初の一里塚である。このあたりの地名をとって「五女子(ごにょうし)の一里塚」と呼ばれている。街道の左側が「五女子」地区で、次が「五女子町」そして「二女子町」と続く。昔この地に7人の娘をもつ分限者がいて長女から順に嫁がせた村を一女子村から七女子村と名づけた。それがそのまま地名になるほどの有力者だった。

 

一里塚跡から800mmほどいった二女子バス停手前の中川福祉会館前に佐屋街道の石標と案内板がある。内容は冒頭に全文引用した。

長良橋東交差点手前左手に「明治天皇御駐蹕之所」の石碑がある。明治天皇は明治元年9月の東幸、同年12月の還幸、さらに明治2年3月と三度佐屋街道を通っている。この碑は明治元年還幸の際小休所となった場所である。中川運河に架かる長良橋を渡り長良町の郵便局と交番の間にある空き地にも「明治天皇御駐輦之所」の記念碑がある。こちらは明治2年の再幸の際の休憩所であるという。

JRと近鉄のガードをくぐり、烏森(かすもり)駅西交差点から二筋目の路地を右にはいると

小さな八幡神社脇に道標を兼ねた安政元年の常夜燈がある。竿に「左なごや道」と刻まれている。烏森は佐屋街道の立場だった。

 

豊国通6丁目交差点を過ぎたあたりから岩塚町に入る。岩塚宿は佐屋街道最初の宿場であるが、寛永11年(1634)の佐屋街道開設当初は岩塚宿はなく、宿場は万場と佐屋の二宿だけであった。2年後の寛永13年(1636)に村民を移住させて町並みが作られ、庄内川をはさんで万場宿と岩塚宿が半月交替で宿駅業務を分担した。本陣1軒のみで脇本陣はない小さな宿場であった。

路傍に文化11年(1814)の念仏供養碑をみつけた。沿道にはところどころに格子造りや二階に手すりを設けた家が見られ、岩塚石橋交差点の南方には「郷中」、「城前」、「一里山」の地名が残るなど、わずかながら旧街道筋の趣を感じ取ることができる。

郷中はこのあたりが岩塚宿の中心であったのであろう。一里山は
岩塚一里塚があったところで、ちょうど唯然寺から4kmの距離にあたる。城前の城とは岩塚城のことで、郷中にある遍慶寺が「岩塚城趾」である。尾張の守護斯波氏の一族の吉田重氏が築城、斯波氏の滅亡後、重氏の子守氏が居城した。

 

左手に現れる茅葺屋根を覆った大きなトタン屋根は村上漬物店で、情緒を添える佇まいである。その右側、4基の道標が並んでいる路地に入り高速道路の高架をくぐったところに七所社がある。元慶8年(884)頃の創建といわれる古社で、ここの摂社御田神社のきねこさ祭は尾張の三大奇祭の一つとして知られる。境内には日本武尊の腰掛岩や岩塚の地名の由来となった古墳があり、由緒の古さをうかがい知れる。 


トップへ


万場

街道は庄内川堤防に突き当たり万場大橋で対岸の万場宿に渡る。昔は「万場の渡し」で渡っていた。対岸の堤防下には渡し場跡にあった秋葉神社と天保13年(1842)の常夜燈が移設され、そばに明治31年(1898)の万場大橋の親柱が置かれている。

 

その先から右におりる道が旧街道で、岩塚宿との相宿である万場宿に入っていく。万場宿は、寛永11年(1634)佐屋路開設当初からの宿場で、砂子村と伝馬役を分担していたが、2年後岩塚宿ができてからは岩塚宿と業務を分け合うようになった。川の両岸にある相宿の例は他にも見られるところである。

坂をおりきると左手には黒板塀の旧家が、右手には長屋門を構えた家が落ち着いた町並みを形成している。街道は曲尺手に突き当たりその手前には式内社の国玉神社がある。曲尺手が高札場であった。

右折してすぐ左にある光圓寺の山門前に建つ巨大な石燈篭を撮っていると後ろから声がかかった。
「何を撮っているのですか」
「宿場の家並みが中心です」
私も庄内川の橋を一個ずつ写真に撮っているのですよ。新しくなったら古い橋はもうわかりませんから。私の家も撮ってください。ここで生まれました。昔は万場宿の旅籠でした。」と私を連れ戻した男性は旧旅籠宮松家の人だった。
「向かいの黒い家も古そうですね」

「向かいの家は小出さんといって地主さんです。」

 

変則4差路を右斜めにすすんで万場交差点で名古屋高速5号を横断、大治町砂子に入る。砂子村は初め万場村と二村で万場宿の伝馬役を勤めていたが、後に岩塚村が引き継いだ。右手浅間神社の先で曲尺手を経て新川に架かる砂子橋を渡り県道117号に乗る。

 

街道が道なりに右折した先右手に「旧佐屋街道」の標識が立っている。そのさきの十字路北西角に「高札場跡(旧佐屋街道)」の標柱がある。十字路左手には屋根の立派な地蔵堂がある。

その先左手に海鼠壁土塀を従えた小柄ながら美しい山門が目に入った。
自性院という。山門をくぐると境内で年配の夫婦が庭をいじっていた。婦人がめざとくカメラをみつけて、「何を撮っているのですか」とどこかで聞いたばかりの質問をうけた。「宿場の家並みや寺社などですが」「私も趣味で写真をやっていまして毎月出展しています」という。「ニコンでリバーサルフィルムを使います」というから本格的だ。「デジカメをやりはじめると便利で・・・・」とやや自嘲気味に、近くにいた不動明王を道連れにして辞した。

高札場跡から西に向かい、「寺屋敷」の落ち着いた家並みのあとに「馬捨場」を通り抜ける。小字の地名は昔の風景を彷彿させておもしろい。東名阪道を潜り、その先七所社神社の道向かいに「旧一里塚跡(旧佐屋街道)」と書かれた白い標識がある。佐屋街道3つ目の一里塚で、ほぼ半分来た計算になる。

街道は右に曲がって狐海道東交差点を左折する。狐が出るような寂しい場所であったにちがいない。ここを左折して西條交差点で県道68号と合流する。


トップへ


神守

秋竹橋で福田川を渡ると七宝町に入る。七宝焼きの故郷である。秋竹交差点を右にはいったとこにある藤島神社は白鳳4年(676)創建の延喜式内社である。社殿の入口には石造りの衝立がある。拝殿から本殿が見通せるのは熱田神宮でもそうだった。


長々とした黒板塀をめぐらせた立派な屋敷が目を引く。右手「大澤屋」は明治20年創業の老舗日本料理店である。秋竹村は万場宿と神守宿の間にあって立場として賑わった。

七宝役場北交差点の北西角に「七宝焼原産地 寶村ノ内遠島」と刻まれた道標が建っている。上部に「ShippoyakiToshima」とローマ字で副記された珍しいものである。明治28年の建立で、七宝焼きは当時すでに輸出品としての地位を確立していたことをうかがわせる。

七宝焼は、天保3年(1832)海部郡服部村(現名古屋市中川区富田町)の梶常吉によって創作され、遠島村の林庄五郎によって広められた。手頃なものがあれば記念に買おうかと思いながら沿道の店先を歩いていたのだが、意外に小売の店舗が見当たらず結局七宝の町を通り過ぎることになった。窯元はみな街道から集落の中に入ったところにあって、そこで販売も控えめに行われているようである。売らんかなの土産店が軒を連ねる特産地のイメージではなかった。


七宝町の町並みが途絶え田園風景が道の両側に広がるころ、蟹江川の手前から旧道は県道の左側にそれて下田橋の南側に架かる弓掛橋を渡る。橋を渡った民家の裏側に橋名の由来となった
義経弓掛松跡があるという。周囲には新しい家が建ち、アクセスが封じられていた。かろうじて金網越に新しい石標と若い松が植えられていることが確認できた。なんでも、伝説によれば義経が放った矢が百町を飛び、矢の落ちた場所を百町村と名づけ矢落の社を建てた。義経はその弓を松に掛けて休んだ場所であるという。今でも津島市百町という地名が残っている。

 

神守町交差点を渡ると右手に佐屋街道4番目の「神守の一里塚」が見えてくる。かっては両側にあったが今に残るのは北塚だけである。塚には根元に空洞を開いたムクの古木が生きながらえている。佐屋街道に五つあった一里塚で現存する唯一のものである。

一里塚は神守宿の入口に当たり、ここから神守宿下町、中町、上町と続いていく。左手の旧家は門塀主屋がそれぞれ立派な屋根を頂き、全体が重厚な造りになっている。神守町下町交差点で県道と分れて旧道は右折、中町に入る。角には海鼠壁の袴をつけた縦長の蔵造りに、シルバーメタルの扉には「南町」の金文字が輝いた立派な山車蔵が建っている。収められている山車の見事さが想像できる。

中町のなかほど左手に高い火の見櫓が立ち足元に神守村道路元標の標石があった。消防分団の後には中町の山車庫がある。街道は大きな旧家を左に見て突き当たりを左折し、上町に入る。突き当たったところに神守宿本陣があった。神守の宿は佐屋街道4宿の中でもっとも遅く正保4年(1647年)に開設された。岩塚・万場宿と佐屋宿の間が長かったため3宿の請願によって開かれたものである。

上町に進む前に右におれて憶感(おっかん)神社による。途中に六角形の屋根を二重に乗せた立派な地蔵堂があり、隣に
行者のような石像が祀られている。脚は骨ばかりにやせ細り、得もいわれぬ顔をしている。

憶感神社にも社殿の前に藤島神社でみたと同じ衝立があった。鳥居と拝殿の間に立ちはだかって、参道をまっすぐに歩いていけない仕組みである。藩塀(ばんべい)といい愛知地方特有の神社建築様式であるらしい。

 

街道に戻る。上町も落ち着いた家並みが続く。右手に穂歳(ほうとし)神社をみて神守宿を後にし、街道は日光川を渡る。

 

堤防の一角に佐屋街道と日光橋の変遷を示した詳しい案内板がある。中でも佐屋宿の渡し場を描いた尾張名所図会は貴重な資料であった。その絵は佐屋宿に譲ることにしてここでは日光川に話を絞る。昭和の中ごろまでこのあたりに日光湊があって材木や石炭を積んだ船の出入りで賑わっていた。

江戸時代の頃から架かっていた木橋は昭和8年と平成20年に架け替えられた。昭和時代の日光橋の親柱が保存されている。佐屋街道は津島の町を掠めるようにして一路佐屋宿をめざしていくのだが、この街道の原型となった津島路は津島神社が終点である。そこへ寄らないわけにはいかない。東海道の宮宿のように、なぜ津島が佐屋街道の宿駅にならなかったのかが不思議なくらいである。多分、津島と佐屋の間が近すぎたのであろう。あるいは佐屋街道の宿駅でなくとも、すでに津島は天王川の川湊として宿泊施設を整えた商都であった。


トップへ



津島

津島市街地の旧道は宅地開発のために消失した部分が多く、最寄の代替ルートをたどらざるを得ない。ヨシズヤの少し先に自然な形で左斜めに入っていく路地がいかにも旧道と思われるがすぐに途絶する。県道68号にもどり埋田町信号の次の丁字路を左に入る(角は幸楽苑ラーメン店)。すぐに右に折れていく細道が旧道である。右手の小さな神社の境内に「明治天皇御小休記念」碑がある。

 

すぐ先が埋田追分である。天和2年(1682)という古い道標が建っており、「右 つしま天王みち」、「左 さやみち」、「東あつた なごや道」と刻まれている。津島街道と佐屋街道の分岐点で、ここより先は津島神社への参道である。かってはこの付近に茶屋が建ち並び津島詣の旅人が列をなした。

道標の先に一対の常夜燈がたち、その後に昭和34年の伊勢湾台風で上部が倒壊した一の鳥居の基部が残されている。傍に自然石の記念碑があって、「旧東海道追分 津島神社一ノ鳥居趾」と記されている。さらに教育委員会による「津島街道植埋田追分」の標識が設置され、詳しい解説文があった。左に折れる佐屋街道の道筋はなくなっていて景観こそ追分らしくないが、史跡としては充実した追分である。

 

佐屋街道がここで消失していることもあり、ここから津島神社に寄ることにする。鳥居の先を暗渠に沿ってまっすぐにいくと広い車道(県道458号)にでる。右におれると今市場町4丁目交差点で、その北東角にある清光院に津島一里塚跡の標識を見付けた。県道68号沿いにあって、これは佐屋街道の一里塚ではない。津島上街道(高須街道)のものといわれるが、確認していない。

津島駅西口から天王通りを西に進む。天王通5丁目交差点の角地を占めるうどん屋、それにつづく米屋、川魚問屋など、趣ある店屋が残っていて楽しい。天王通2丁目にはいると左右に古い家並みが覗かれる。左手には堤下(とうげ)神社がある。以前はこの前を天王川が流れていて、川を隔てた津島神社の遥拝所であった。そばに「旧上街道」の標識がある。

南北の通りは津島上街道と呼ばれ、清洲市土器野で美濃路から別れ、甚目寺・木田・勝幡(しょばた)を経て津島に至る道で、津島と名古屋を結ぶ道として大いに利用されていた。天王通の右側に入ると一段と風情ある家並みが残されており、創業安政2年という町家造りの麹屋脇には
上切の井戸が残り江戸情緒を醸している。上街道沿いには更に駒寄、格子窓、うだつを設けた商家が軒を連ねて一級品の町並みである。美濃路を歩く際にはこの上街道もたどってみたい。

津島神社の手前の右角地に「御旅所跡の大いちょう」がそびえたっている。樹齢400年、高さ30mという神木にふさわしい巨木である。黄金色の葉をつけていたら神々しい威容であろうと思われた。

津島神社に着く。堂々と建つ朱塗りの楼門は豊臣秀吉の寄進といわれ、国指定重文である。熱田神宮と同様、拝殿から本殿が見通せた。津島神社は、昔は津島牛頭(ごず)天王社と呼ばれ、祭神は建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)、全国3000社あるといわれる天王社の総本社である。津島は江戸、名古屋から伊勢参詣の途上にある。伊勢へ参拝しても「津島かけねば片詣り」と言われ伊勢神宮と津島神社はセットとして考えられた。

南門から出て、江戸時代神官の屋敷街であった祢宜町の路地にはいると右手に黒々とした塀に囲まれた国指定重要文化財旧堀田邸が建つ。堀田家は津島を代表する富豪で津島衆として斉藤道三、織田信長にも仕えた武士でもあった。信長と斎藤道三の娘を見合わせたのが堀田道空であった。堀田家は津島神社の神官、江戸幕府老中職、下総佐倉藩主などの人物を輩出した名家である。県道68号にも面した広い敷地を占める大邸宅だが、塀が高くてほんの一部を垣間見たに過ぎなかった。

その南東に天王川公園がある。天王川は天明五年(1785)に水害防止のためここでしめ切られるまでは佐屋川に合流して伊勢湾へ通じていた。津島の町は天王社の門前町としてだけでなく、佐屋街道が開かれるはるか以前の鎌倉時代から桑名へ出る川湊の町として賑わっていたのである。津島は武士と商人とを兼ねた津島衆が活躍する自由都市的繁栄を享受していた。ここ津島湊には舟番所が置かれ、町屋が立ち並び津島天王の参詣客でにぎわった。

 

公園の北側には旧暦6月14日(今は7月第4土曜日)の天王祭で神輿が渡るお旅所がある。池を東にまわったところで県道68号を東にはいるとすぐさきの十字路右手に神職家の屋敷、氷室作太夫家の住居が残っている。虚飾がなく清楚な佇まいである。

蔵や格子造りの建物がのこる通りを北にたどり突き当りを右におれると
橋詰三叉路にぶつかる。ここで天王通2丁目で堤下神社を覗いたときの旧上街道と、佐屋街道の延長である下街道がつながっている。西に出る道(今歩いてきた道)は「津島神社参宮道」で、大きな道標が立っている。

場所は橋詰町から本町2丁目に入ったところで、三叉路を右折したところに「本町筋」の標識と坂口の井戸がある。井戸には朝早くから水を汲みにくる人が集まり、季節には金魚屋や植木屋などが店をだした。本町筋の旧町名にはそれぞれ実体のある由来がある。解説文からはほのぼのとした土地の郷愁が立ち昇ってくる。


本町3丁目から南へ本町筋は昔、坂口・高町・厨子・中島・下構といって、当時の町のようすをよくあらわしている名であった。坂口から横町へ曲がる南角に辻番があり、付近には今も残っている井戸からうまい清水がでたので夜明けと共に遠方からも水を汲みにくる人でにぎわった。その物音で寝ている番人が「アーア夜明けだナ」と時を知ったという。高町は津島でも土地が高いところであるので町名となった。今市場の西端から南への厨子の町は昔は道幅が狭くなっていた。厨子とその南の中島は昔「下村」といった。その南の村を「下村の前の村」という意味で「下ヶ前」と呼んだ。これに「下構」の字があてられるようになった。坂口から筏場にかけて大橋茂右衛門’(福島正則に仕え後、松江の松平家に家老・6千石で仕えた)の屋敷があって、その横の出口があったから横町といわれる。


辻番があったという二股を左にとって本町3丁目を抜けると今市場1丁目で県道68号にもどる。消失した佐屋街道の西側を南に下るため、県道の東柳原信号を右折する。
 


トップへ


佐屋

区画整理された住宅街を1km弱南下して愛宕町4丁目と6丁目の境を西に入ると、愛宕神社の西側で旧道が復活する。愛宕町5丁目の細道を斜めに通り抜け県道114号を横切ってさらに短く旧道をたどったのち県道105号を渡って斜め前に続く旧道に入っていく。

道はすぐに出口屋酒店で二手に分かれ、どちらが旧道なのか定かでない。流れからして左だろうと、さらに細い道を選んだ。軽自動車の幅ほどしかない
裏道は家並みにそれなりの雰囲気があって旧街道を歩く気分を与えてくれた。やがて道は宅地に阻まれ右折して車道にでる。出口屋酒店を右にたどってくる道筋である。この道もすぐに県道105号の日置交差点を東西に走る道にぶつかって、右折する。

 

まっすぐ西に進み名鉄尾西線の踏み切りを渡り内佐屋交差点で県道458号に合流する。「佐屋」という名をはじめて見た。終点は近い。南にむかってすぐ左手、農道との丁字路角に茶色の石碑が建っている。「佐屋海道址」と刻まれただけで、そばに解説板もない。街道址とは旧道の道筋としてわずかに残っている農道が県道458号に合流し、この後は佐屋の渡しまで県道をゆくことを意味するのであろう。


須衣の集落に入ってくる。まだ佐屋宿ではないが、沿道の家々が昔の旅籠に見えて仕方ない。
須衣交差点を右折してようやく終点佐屋宿に入って行く。 4宿中最大の宿場で天保14年には家数290軒、人口1260人、本陣脇本陣が各2軒あった。

左手路傍に「くひな塚 是より南へ一丁」と刻まれた道標がある。その路地を左に入っていくと芭蕉の水鶏塚がある。元禄7年5月25日芭蕉最後の帰省の際、佐屋御殿番役の山田庄左衛門氏の亭に泊まった。そのときの句が刻まれた句碑が建っている。

  
水鶏鳴と 人の云えばや 佐屋泊 はせを 


芭蕉死去の5ヶ月前のことであった。
 

街道に戻り、わずかに歩いて佐屋街道の終点に着く。国道155号の佐屋交差点である。交差点手前の左側に「左 さや舟場道」の大きな道標がある。陸路はここまでで、是より先は船旅であることを示している。

その西側の民家のブロック塀越にカラタチの枝が伸びている。この民家の敷地には旅籠近江屋があり、カラタチは「きこくの生け垣」として当時から知られていた。日光橋でみた「尾張名所図会」にも描かれているものである。

近江屋の向かいが佐屋宿舟番所前で、現在は「佐屋代官所址」の碑がある。この地には寛永11年に佐屋湊佐屋御殿が設けられ、その後天明元年に代官所となった。

 

佐屋交差点の近江屋向かいに「東海道佐屋路 佐屋三里之渡趾」の碑がある。東海道を佐屋まで来た旅人は佐屋湊で渡し船に移り、佐屋川を下り木曽川、揖斐川を横切って桑名に達した。この間約3里あり、宮宿からの7里の渡に対し3里の渡と呼ばれた。しかし江戸時代末期には佐屋川は土砂で埋り明治5年に熱田からの陸路(現在の国道1号)が整備されて出佐屋街道は役割を終えた。

現在の国道155号が佐屋川の川筋である。国道佐屋交差点の北方には今も佐屋河原の地名が残っている。

(2009年12月)

トップへ