山陽道(西国街道)8



徳山−富田福川富海宮市(防府)小郡

いこいの広場
日本紀行
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徳山  

坂川を渡って左折し見上ケ坂とよばれる坂を上がっていく。昔はこのあたりに人馬継所や高札場があったらしい。花岡−徳山間の間宿的存在だったのか。道なりに右折し上がりきったところが久米市である。右手に古い建物があり二階の壁一杯にコカコーラのトタン看板が貼られている。一階は左半分が板張り出格子窓造りで、店屋だった雰囲気である。

道なりに左に折れ道は下り坂となる。

三叉路に差しかかり左にとり徳山久米東郵便局を通り過ぎて西光寺川を西光寺橋で渡る。

旧道は五差路を右折する。右手に明治8年創業の防長鶴醸造山縣本店が白壁土蔵を連ねて風情ある一角を成している。

道なりに進んで新幹線のガードをくぐり、桜木交差点で県道347号に合流するが、すぐ右に分かれて白見ケ森に沿った五月町の坂を登る。その先の下り坂は早乙女坂と呼ばれる。江戸時代、この地には田植えの時期、側を通行する人に”早苗打ち”といって、稲の苗を投げつけ御祝儀をいただくという風習があった。ある日九州からの飛脚が苗を投げられ、その早乙女を無礼打ちにした。住民は塚を建てて早乙女を弔ったという。随分乱暴な風習が招いた悲劇というべきか。

道なりに左に曲がって県道347号に接してすぐ再び右の旧道に入っていく。

県道の南側は徳山コンビナート工場地帯であるが、江戸時代は県道まで海であった。この辺りに徳山藩の御船倉があった。

旧道にはいるとすぐ右手に遠石八幡宮がある。鳥居の前に「遠石の古い町並み」と題した説明板があった。八幡宮の前の通りは山陽道の遠石宿で、遠石八幡宮の門前町として、徳山藩の外港として、また山陽道の宿場町として、水陸の交通に大きな役割を果たしてきた。正式な宿場ではなく、半宿と呼ばれる宿場であろう。

遠石八幡宮は豊前の宇佐、山城の石清水、相模の鶴岡と並んで、本朝四所八幡の一つとされる。622年、推古天皇の時代に神霊を奉安し、和銅元年(708)に社殿が造営され、平安時代から石清水八幡宮の別宮となった。境内からは常夜燈と鳥居の背景に出光石油コンビナートの煙突群が林立するという現代的風景が見られる。

遠石宿の沿道には吉田屋醤油と福原醤油岐陽酒造が軒を連ね、香ばしい匂いが漂っている。その先には岐陽酒造があった。遠石は醸造の町である。



梅花川をわたると遠石東町から西町に入る。右手に
影向石と呼ばれる大きな石がある。推古天皇30年(622)の春の夜に、宇佐八幡大神が新馬にまたがり、この磯浜に降臨し、この大石に降り立ったとされる。遠石八幡宮の縁起になった大石である。

その先、左右に白壁の塀のある立派な家がある。左が土蔵に連子格子造りの旧家で、右は門塀に駒寄を配した屋敷造りである。表札は同姓であった。

十字路を直進して宝性寺手前の二股で、右の細い坂道を上がっていく。入口左手に「出雲国いつばたやくしかんじょうの地」と刻まれた石柱が建っている。

坂を上がった畑地に
一畑薬師堂が建っていた。この坂道を昇り下りした人は、「なむあみだぶつ」と念仏を唱えながら通ったので、この坂道は「念仏坂」と呼ばれている。また薬師堂付近には一里塚もあった。下り坂の左手に明治42年の道標があり、「古のうへ丹いちば多やくしあり」と刻まれている。石段を下りて県道に出る。

街道は青山信号二股で左にとり、徳山市街に入っていく。二股の分岐点に自然石がおかれている。「さすり仏」とか「さすり石」といわれるものだが、石に文字や像が刻まれている訳でもなく由来も効用もわからない。

右手、速玉郵便局の先に孝女阿米の碑と年老いた父親を負う阿米の像がある。病弱の父親を31年間看病し続けた娘の孝養を顕彰して建てられたものである。お米の孝行振りは徳山藩主から恩賞をもらったほどである。

東川を渡って旧徳山宿場があった銀座通り商店街に入る。ここに高札場、目代所、御茶屋本陣などが揃っていたが、徳山市街は第二次大戦の空襲で壊滅し、面影はどこにもない。位置を示す標識もなく、アーケードの下に飲食・小売・パチンコなどの店の連なりがあるのみである。

徳山駅前を右折して徳山館邸跡に寄っていく。

国道2号に面して建つ周南市文化会館の敷地が徳山館邸跡である。徳山藩は、元和3年(1617)に毛利輝元の次男就隆(なりたか)が、兄秀就から都濃郡の三万石余りを分知されたことに始まる。就隆は初め館邸を下松に設けたが、慶安元年(1648)に館をこの地に移した。その後徳山は、藩の改易・再興を経て9代およそ220年にわたり城下町として繁栄を続けた。ここにも遺構は残されていない。

文化会館の東側に初代藩主毛利就隆を祀る祐綏(ゆうすい)神社がある。

駅前にもどり商店街の北半分を通り抜け北上をつづける。新幹線の高架に突き当たったところで旧道は途切れ、県道347号の浦山信号交差点で復活している。その間、新幹線の高架下の道を経て県道西松原3丁目信号に出て浦山信号へと向かった。

浦山信号交差点の右手、新幹線高架脇から細い旧道が復活している。

地名「浦山」にふさわしく、右側山手の国道2号、左手海側の県道347号に挟まれた段丘の道が延びる。この辺りに浦山の一里塚があったらしいが手がかりはない。

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富田(とんだ) 

川崎三丁目の右手の石垣に、街道松の名残の枯根が二カ所残っている。かつては松並木が続いていたところである。根株はもろくも朽ち果てる寸前で、手でもぎ取ろうと思えばたやすく石垣に隙間を作れる様である。

富田川に差しかかる。左手に文政4年(1820)の荘寺八幡宮の常夜燈がある。荘寺八幡宮とは山崎八幡宮のことである。神仏習合の時代に真言宗の荘宮寺と習合し荘寺八幡宮と呼ばれていた。

音羽橋を渡った右手辺りに米蔵があったという。富田川の川口にあって木材、農産物の集散地にあたり、東大寺の年貢米銭を管理する役所が置かれ政所と呼ばれていた。今も川崎地区の西に政所の地名がそのまま引き継がれている。

新南陽政所郵便局の手前、右手に細い道が出ている。旧鹿野(かの)街道である。県道3号に沿って北上し国道315号に合流して島根県境南側の高原にある鹿野に至る。山陽道よりも旧街道の雰囲気をよく残している。ここをしばらく歩いてみた。

格子造りの家並みが続く静かな街道を500mほど行くと左手に板壁が長々延びる
中島屋酒造場の建物が現れた。高い煙突がその存在を強調する。蔵造りの店舗は黒漆喰の二階に虫籠窓を切り、一階の粗格子窓と合わせて趣ある佇まいである。

川を渡った先も一層旧街道の風情を漂わせる家並みが続いている。最初の十字路を左折して県道を横断する。右手畠の向こうに小山を背景にして絵に描いたような茅葺の屋敷が見えてくる。豪勢な長屋門の両側には白壁の塀が巡らされた広大な敷地である。周囲の雰囲気から豪農だと思いきや、江戸時代初期から代々医業を受け継いだ旧家四熊(しくま)家の住宅である。長屋門から中を覗き見すると、綺麗に手入れされた柘植の植え込みが格調を高めている。寛政の時代、徳山藩富田御殿の仮御殿だったこともあるという。

県道からの道にもどり先をいくと建咲(けんそう)院の門に突き当たる。建咲院をみて県道を新南陽政所郵便局の交差点にもどる。

旧山陽道は交差点から西に続く。左手路傍に道標があった。「是より右下せき道」「是より左上かた道」と刻まれている。下関と上方(大坂方面)を示すもので、鹿野街道との分岐点に立っていたものらしい。

華厳寺前を通り過ぎ道は突当りを左折して広い車道を凹型に迂回して山崎八幡宮前に出る。枡形になっていたのだろう。

石段を上がると風格のある社殿が現れる。楼門、拝殿、渡殿、幣殿、本殿といずれも華美でなく調和のとれた色形の建物群である。山崎八幡宮は和銅2(709)年、豊前国宇佐神宮の分霊を富田河内の神室山に祀った後、宝亀元(770)年、今の地に遷したことに始まる。現在の社殿は明治13年に改築されたものである。

神社の鳥居前から旧街道が西に延び、富田宿はここから始まる。政所あたりが宿場だと思っていたが、思ったより西にあった。富田宿は山崎八幡宮の門前町として賑わった。新南陽富田郵便局あたりが本陣跡である。左手に間口の広い平入り蔵店が目を引く。古めかしいクスリの看板がにぎやかだが、一方で閉店を知らせる寂しい貼紙もあった。明治40年(1907)創業の羽山薬店が昨年末で店を閉めた。

道は富田2丁目に入って突当りを左折し、県道347号を横切ってその先の三叉路を右折して平野地区に入っていく。富田宿よりも街道の雰囲気を残した町並みである。このあたりに古代山陽道の平野駅家があったと考えられている。白壁の蔵造りの家が散見される。右手、一階は千本格子、二階の白壁に海鼠装飾を施した蔵造りの家は堂々とした建物である。

平野一丁目から温田に入るところで二股を右に行く。

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福川 

民家の前庭をかすめ、段丘の縁を進んでいくと県道347号に出る。県道の反対側から右斜めに上がっていく坂道が旧道の延長である。県道を渡って坂を上がっていく。

登り詰めた所左手に石仏群と壁がつぎはぎの寂れた御堂がある。温田観音はこの堂内に安置されているのか。

短い坂道であったがここが温田峠で、かつては温田の一里塚、御駕籠立場、萩御茶水茶屋所などが建ち並んでいたという。狭い道を下って県道に降りる。

温田と福川の境で二股を右にとって福川宿に入っていく。宿場は東町・中町・中市・西町から成り、伝馬14疋を常備していた。将軍家へ輿入れする篤姫一行が宿泊している。土蔵造りの商家や門構えの旧家が見られ、旧街道の雰囲気が残る町並みである。

道は丁字路に突当り右折する。中町から中市に移る。右手に真福寺がある。脇本陣としても使用された。墓地には乾元2年(1303)という古い板碑が安置されているとのことだったが、見逃した。

左に曲がって中市から川を渡って西町に入ると右手に本陣跡がある。福川の本陣、脇本陣は御茶屋と称して代々福田家がこれを預かっていた。現在は天保9年(1838)に再建された門が残るのみである。

旧街道は県道347号を横切り、西町第二踏切を渡って御姫橋の袂に出る。そこを右折して夜市川沿いの道を延々と行く。

山陽自動車道をくぐり、夜市川と的場川が合流するあたりに夜市一里塚があった。今はただ平凡な堤防道である。

川に沿って左に曲がり、国道2号と山陽本線、夜市川が最接近するあたりで街道は川から分かれて狭い原踏切を渡り国道2号を横断して夜市(やじ)集落に入り、突き当たりを左折する。その間、広々とした田園地帯を走り抜ける山陽本線の電車の風景を楽しむことができた。

左手の大きな白壁土蔵には蔦がはいめぐり農家の風情を醸している。右手には長い土塀を巡らせた旧家が角地を占めている。このような旧街道を歩くのは楽しい。



家並みをぬけると林間の山道に入る。峠道だが舗装された車道で快適な道である。ほどなく
赤坂峠にたどりつく。右手に西徳山総合グランドがあり、旧峠の趣はない。駕籠建場があったそうだが、何の手がかりもない。夜市(やじ)から戸田(へた)に入る。

戸田集落に下りて、光西寺などをみながら集落を通り抜ける。

赤レンガ塀をめぐらせ、屋根は石州瓦で覆った赤ずくめの屋敷の一角に石鳥居と玉垣に囲まれた小さな池が設けられ、水中に石祠がある。「宮島様」と呼ばれ、祠には鯛を抱えた恵比寿が祀られている。宮島様とよばれる所以は定かでない。単に水中にあるからだろう。

宮島様の向かいには戌辰戦争の凱旋記念碑がある。

戸田市観音で知られる心光寺、建物は新しいが老舗風の造りをみせる桝屋、その先にも塀を巡らせ起屋根に鯱を載せた堂々たる蔵造りの豪壮な邸宅がある。竹内医院のものか。

柳橋の手前右手に辻地蔵がある。天明5年(1758)地蔵が震えて大量の汗を出して火災の難を知らせたので、汗かき地蔵ともよばれている。

橋を渡り道なりに左に曲がって国道2号に合流する。国道を1kmほど行って山陽自動車道の高架を潜った先で右斜めの旧道に入って行く。

旧道は1.5kmほど続き、「椿峠」のバス停で国道に合流する。国道の南側歩道に渡ってすぐの草むらに「椿峠郡境碑 これより西100m」の案内標識と説明板があった。

歩道から国道より一段高い草道の旧道をたどっていくと、旧峠に郡境を示す石標が立っていた。「従是東都濃郡」「従是西佐波郡」と刻まれている。享和2年(1802)、尾張の商人菱屋平七の『筑紫紀行』によると、この峠付近に人家が十軒ばかりあったという。

草道はここから下って国道に出る。ふりかえると国道の椿峠に「椿峠 標高94m」と書かれた標識があった。ここで周南市から防府市に入る。

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富海(とのみ) 

椿峠から300mほど下った左手に旧道が出ている。すぐに国道のガードを潜って、富海の
戸田山集落を右下に見渡す素晴らしい風景を満喫する。やがて前方に海が見えてきた。

新川のほとりに石室のような石の祠があり、中に地蔵が安置されている。祠の側面には安政2年の銘があった。左の塚に立札が立っている。地蔵の説明ではなく、「ゲンジボタルの幼虫放流中です」と書かれていた。3人の夫人が自転車を止めて立ち話をしている。のどかな風景に囲まれてうれしい気分になる。

旧道は「富海」信号で国道2号を渡り県道189号となって富海宿に入っていく。富海宿は東町、中町、新町から成る。富海小学校の先から旧宿場街に入るや左右に白壁、格子造りの旧家らしい家が軒を連ねている。富海は宿場の面影を色濃く残す町並みである。

左手に切妻造りで平入りと妻入りの棟を連ねた立派な家がある。平入り町屋建築は清水家主屋で、明治11年(1878)の建築、国の登録有形文化財に指定された。清水家は江戸時代前期頃より紺屋を業とし、江戸中期より酒造業に転じ財をなした。1階の窓には繊細な出格子を備え、明治時代後期には、銀行の出張所としても使われたという。

入江氏宅で脇本陣を勤めていた。二階の白漆喰がまぶしい。一階は繊麗な連子格子である。敷地の西端に指差し道標があり、「当國二十番瀧谷寺道」と刻まれている。

その先に本陣石川家跡の門が残されている。富海宿は福川から2里半、宮市へ2里という比較的近距離にあって、大名行列の休憩、あるいは比較的小規模な人数の宿泊に利用された半宿であった。富海の本業は漁業と船運であったといえよう。特に富海と大阪の間の海運に活躍した飛船問屋は幕末の時長州藩勤王志士たちの輸送に大いに貢献した。

本陣跡の向かいにある空き地は天下御物送り番所跡で、問屋場にあたる。

左手に「飛船問屋大和屋政助の船蔵」と書かれた案内標識があり、空き地を横切って県道からひとすじ海側の路地に下りてみた。狭い家並みの間を高い石垣に挟まれた船蔵通りという小路がのびている。大和屋の船蔵も石垣の上に建っていた。大和屋政助は本名を清水与兵衛といい、幕末から明治にかけて飛船問屋を営む傍ら町方世話役を勤め、勤王志士らの活動を支援した政治的人間でもあった。

街道をはずれたついでに海辺に出て漁港界隈を散歩する。中町踏切を電車が通って行った。

街道にもどり、西に歩いて踏切を渡ると西町に入る。再び街道をはなれて左に折れ右折した先右手に「伊藤井上両公上陸遺蹟」の碑がある。

飛船問屋入本屋磯七の別邸があったところで、今は空き地の片隅に幾つかの庭石が残るのみである。入本屋磯七は入江家6代目当主で、富海農町兵隊設立時の世話であった。伊藤博文と井上馨が四国連合艦隊の下関来襲を聞きつけて急遽英国から帰国した際ここに上陸して入本屋で食事と休憩をとった。

この入江家と脇本陣を勤めていた入江家が同一なのか別家かは知らない。

街道に戻る。川をわたり、富海駅に通じる道を越えたあたり、右手が墓地になっている。その一画の街道沿いに「尊攘義民大和屋政助墓」と書かれた大きな墓石が建つ。飛船問屋大和屋政助の墓である。

墓地の西端あたりに富海一里塚があったという。

左の路地から海がのぞいている。浜に出ると遠浅の海水浴場が広がっていた。

富海を後にして橘坂第一踏切を渡ったところの二股を右にとり県道58号との合流点手前で左の橘坂を登っていく。

眼下に海が広がってくる。左手に手懸岩と呼ばれる大きな岩がある。瀬戸内海の絶景にしばし足をとどめ、この岩に手を懸けて休んだという。

「手懸岩と橘坂」の案内板に、菱屋平七の筑紫紀行の「東海道のさった峠によく似たり」という一節が紹介されている。さった峠とは東海道興津宿と由比宿の間に横たわる峠道で山が太平洋に落ちる山腹からの風景は山、海、鉄道、国道、それに富士山というエレメントをそろえた絶景である。ここはそのうち山、海と鉄道を取り入れた疑似風景ということになる。「山陽の旅今昔」と題した案内板が設置されている。それによればこの浮野峠道は国道(現県道58号)が開通した明治10年まで使われていた道である。その後、国道2号、山陽自動車道、山陽本線、山陽新幹線と交通網が整備されて今の姿となった。

快適な山道をしばらく行くと「茶臼山古戦場」と題した案内板と、大内輝弘の墓がある。歴史的な出来事は案内板に任せよう。この付近に駕籠立場があったといわれる。

私にとって至福な山道とは、藪漕ぎでも舗装道でもなく足元が優しい草道で、熊やマムシの心配がなくて、高低がおだやかで、木漏れ日でほのあかるい広葉樹林の道である。この浮野峠道はまさにそれにふさわしい心地よい道であった。

浅い沢を渡る。これがおこん川であろう。徳山領(富海村)と三田尻宰判(牟礼村)との藩境をなしている。木柱や石柱があったがいずれもそれに記された文字を読みとることができなかった。藩境を示すものだろうと勝手に解釈して、三田尻宰判(牟礼村)側に渡る。

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宮市(防府) 

右手に二基の道路改修碑がある。小さいのは「旧山陽道修復記念碑」で平成9年に設置したもの。大きくて立派な方が浮野峠改修碑で、明治4年それまで左に曲がり込んでいた旧道を真っ直ぐな平らな道に付け替えたことを記念するものである。その短い古道を歩いてみた。倒木や小岩、傾斜があって足元は悪いが、難所というほどの場所ではなかった。すぐに改修後の道に合流する。

二度ほど峠らしき高みをこえながらようやく本物の浮野峠に達した。左手に二本の「浮野峠」と記された標識が立っているだけで、思っていたより素っ気ない。

下り坂は美しい竹林の中を通り抜ける。竹の落ち葉に埋もれた道路は石畳にも見える舗装道であった。山道はおわり車道に出て、防府第二トンネルを出てきたばかりの国道2号を跨いで浮野に入っていく。

集落入口手前右手に「浮野駕籠立場跡」の説明板があり、その筋向かいには「又兵衛屋敷(茶屋)跡」の標識がある。

その先を右折すると、浮野の集落に入る。

集落の中程右手阿弥陀境界石と呼ばれる石柱と石祠がある。石柱は阿弥陀寺への道しるべと言われている。

その先左手には徳地屋敷跡という空き地がある。江戸時代大名の休憩所を勤めた旅籠屋「徳地屋」の跡で、井戸だけが残っている。

同じ空き地に
二基の道標が立っている。それぞれ「こんひらみち」、「あじなみち」と刻まれている。萩藩の「防長風土注進案」によると、浮野村山に金比羅社が、法華寺山に阿品社があったと記されており、これらの社への道しるべであったと考えられている。「右左」、あるいは「東西南北」で目的地の表示を一基の石柱ですませるものだが、ここはそれぞれに独立させたものか、あるいは別の場所に立っていたものをここに並べたものか。

十字路の右手角に「春日宮」の常夜燈が建っている。

公民館前に浮野町の案内板があり、江戸時代の浮野町地図と浮野宿についての説明があった。浮野宿は富海宿と宮市宿の中間に置かれた半宿で、人夫8人と馬10匹を用意していた。公民館の向かいに高札場があった。

家並みが途絶えたあたりに昔は往還松があった。

柳川を渡り、江泊(えどまり)から牟礼今宿に入る。

旧道は左から来る広い車道に合流し、「史跡周防国衙跡」の石柱が建つ国衙跡信号交差点を右折する。東南角に道標が二基建っていたが文化郷土資料館に保管されている。

「右 九州道  左 三田尻 中ノ関道」 「右 せきみち 左 上かたみち

北にむかうとまもなく左右に周防国衙跡の史跡公園が広がっている。左手には国庁八幡宮跡や周防国衙跡の説明板や石碑がある。国庁八幡宮は、大和国手向山八幡宮から分霊、国庁の守護神及び地域の氏神だったが、明治40年佐波神社に合併された。

文治2年(1186)周防国は東大寺造営領国となり、以降東大寺から派遣された僧によって国務が行われ国衙は江戸時代まで存続した。全国の国府が律令体制の衰退に伴いその姿を歴史上から消したものが多いなかで、周防国府は稀有な例である。

街道は大きな通りを横切って次の東西の道を左折する。そこを右折してすぐ左手にある多々良大仏をみてきた。東大寺の大仏を模して造らせたといわれる高さ3mの木造阿弥陀如来座像である。木肌はかなり疲れているようだった。

街道を西へ向かう。毛利邸庭園に立ち寄る。毛利家は安芸の国を本拠に勢力を拡大し全盛期には中国地方を領有したが、関が原の戦い以後、長門・周防二国(長州藩)に減封された。長州藩士から勤王の志士が輩出され明治維新を成就させた。毛利家は家族の最高位である公爵に叙された。

大正5年に完成した旧長州藩主毛利氏の本邸である。本館は江戸期の御殿造りの様式を取り入れ、木曽の桧、屋久島の神代杉、台湾の欅などを使った贅を尽くした近代和風建築である。日本庭園は瓢箪池をめぐる回遊式で多種の植樹の中でもツツジの存在が目立った。

街道にもどり、すぐ先右手に佐波(さば)神社がある。周防国の総社として国司、藩主の崇敬が深かった金切神社が明治40年に、浜宮神社、国庁八幡宮、日吉神社の三社を合併して佐波神社と改称された。

左手に国衙北西端を示す碑がある。先に見た国衙跡公園は国衙敷地の東南端に当たる。

分寺町に入る。創建当初とほぼ同位置に国分寺がある。重厚な仁王門の両翼に繋がっている築地塀は五本線筋塀といわれ、御所、門跡寺院、勅願寺院など皇室に由来する格式を表し、その中でも五本は最も高い格式を示すものである。門をくぐって筋塀の内側にまわると漆喰壁がはがれた土塀の正体を現していた。

唐破風をつけた威風堂々たる金堂は天明8年(1788年)ごろ完成したものである。堂内には、本尊の木造薬師如来坐像ほか数多くの重要文化財をはじめとする仏像が安置されている。国分寺に金堂が現存していること自体が全国的に珍しい貴重な存在である。

五重塔(元は七重塔)の跡もその位置が確認された。

境内には衛門三郎の像や仏足跡、菅原道真縁の水鑑の井戸などの史蹟があり、それぞれに丁寧な説明板が設けてあるがここでは省略する。

その先右手にある門塀を構えた古風な邸宅は防府天満宮の大宮司武光家の屋敷跡である。その西隣の萬行寺は人馬受払所としての役目を負っていた。

萬行寺の前で道は曲尺手となり、左折・右折して宮市宿の中心である防府天満宮の鳥居前に来る。

鳥居は寛永6年(1629)の建立で山口県下最古を誇る。防府天満宮は山口県の代表的観光名所の一つで、参道沿いには飲食店や土産品店などが軒を連ね大勢の観光客が訪れていた。結婚式の撮影会も盛んである。

防府天満宮は、九州の太宰府天満宮、京都の北野天満宮と併せて日本三天神といわれている。延喜4年(904)国司土師信貞が社殿を建立したのが始まりと言われ、菅原道真を祀る神社として全国で一番古い。ちなみに太宰府天満宮は1年遅れの延喜5年(905)に創建、北野天満宮は, 天慶10年(947)とされている。

石段を登りつめた所に立派な楼門がある。昭和38年(1963)に再建されたもので古社の趣はないが、唐破風付隋神門に楼閣を乗せた華やかな建物である。楼門が目立ちすぎてその奥にある本殿が貧弱に見えた。

天満宮の前から南下する商店街は萩往還である。中国山地を越え日本海の萩と瀬戸内の防府三田尻をむすぶ53kmの萩往還はここから800mほど西の交差点で山陽道と合流し、宮市の宿場を通ってここ天満宮前で山陽道と分かれて終点の三田尻に至る。

ここで山陽道をしばらく離れてその三田尻にあるという御殿を見て行くことにした。

萩往還は鳥居前から天満宮商店街を南に進み、銀座アーケード商店街をとおり抜けて、なおも真直ぐに延びる。山陽本線をくぐってやや右斜めに方向を変えて、明覚寺の西側で左に曲がる。二つ目の十字路角に文化15年(1818)道標があり、西面に「左宮市天満宮 志ものせき 道」、南面に「右かみかた 左中のせき」と刻まれている。昔は南に塩田が広がっていてここは丁字路だった。中ノ関は三田尻中関港を差し、天満宮・下関方面と上方方面が萩往還にあたる。

左折して250m先の十字路を左折すると次の筋違い交差点角に終点三田尻御茶屋(英雲荘)が建つ。三田尻御茶屋は承応3年(1654)二代萩藩主毛利綱広によって建設された藩の公館である。昭和になって毛利家から市に寄贈された際、三田尻塩田をはじめ産業の振興に尽力し藩の財政再建に勤めた七代藩主重就の法名にちなんで「英雲荘」と命名された。

足を延ばして三田尻御舟倉跡を見る。県道184号の信号に出て一筋南の十字路を東に進む。その後の道順は説明し難いが要所に御舟倉跡の案内標識があるのでそれにしたがっていけばよい。小さな堀池から水路がでている。かつては瀬戸海に面していて萩藩水軍の拠点になっていた。元禄以降周辺の干拓が進み陸地に囲まれるようになった。

萩往還の終点を確認して天満宮前の山陽道に戻る。

左手に宮市本陣兄部(こうべ)家跡がある。兄部家は鎌倉時代から続く旧家で、合物(塩魚・干物)を手広く扱い後に酒造業に転じた防府随一の豪商であった。寛政元年(1789)の建物が残されていたが建物は2011年の火災で表門と築地の一部を残して焼失した。往時の写真が面影を伝えている。

右手定念寺に宮市観音がある。その西隣の安村商事は中村脇本陣跡である。

左手に蔵造りの旧家などを見ながらすすむと川を渡って宮市から今市にはいり、すぐの交差点で萩往還が北に分かれていく。北から萩往還が山陽道に合流するというべきか。

県道54号との交差点辺りに千日一里塚があったらしい。千日一里塚は安芸境小瀬川から18里、 赤間関まで18里にあたり、ちょうど防長山陽道の中間にあった。気分的には山口県に入って3分の2ほど来たつもりだが、まだ半分と分かって少々がっかり。

街道は県道をわたり、千日、泉町を道なりに西進して左折する。なおも道なりに南西に進んで古祖原で佐波川の堤防に出る。大崎橋の下流辺りに大崎の渡しがあった。大崎橋を渡り左折して山陽自動車道をくぐり、国道2号の玉祖(たまのおや)神社入口信号に出る。

旧道はそこを直進するが、右に折れて玉祖神社に寄っていく。玉祖神社は周防一ノ宮で、三種の神器の一つ曲玉を作った玉祖命を祀る。静かな森に囲まれて社殿は重厚な造りで立派である。境内に「黒柏鶏発祥の地」の碑がある。黒柏鶏(くろかしわけい)は天然記念物で、長鳴きどりとも呼ばれている。緑黒色に光る羽と、尾が長く気品と風格がある和鶏として知られる。神社境内で数匹が飼育されているらしいが、見かけなかった。

神社の前を左折して突当りを左折、玉祖小学校の前を通って明照寺前の交差点を直進する。みなみストアの二股を右にとる。

左手に「玉祖宮」と刻まれた常夜燈がある。

右手民家の生垣と電柱の間に一里塚跡の石碑がある。「一里塚跡 小瀬川より十九里 赤間関迄十七里」と刻まれ、中間点であった千日一里塚から一里の地点だ。

右手にため池があり、旧山陽道佐野峠道の案内板があった。旧道はここで車道から分かれて池の縁を回り込み、二股を左の山道に入っていく。

佐野峠道はよく整備されて遊歩道の気分で気持ちが良い。さほどの急傾斜も経験せずに見晴らし良い駕籠立場に着いた。そのすぐ先に「佐野たを」と刻まれた自然石が建つ。ここが佐野峠のようだ。江戸時代の文書に「山陽道随一の佳景」とあるだけあって確かに見晴らしはよいが眺めの手前が山陽自動車道の佐波川SAによって大きく占められ随一の絶景ではなくなった。

峠をこえてからも比較的平坦な道が続く。その先、石を渡した流れを二カ所越え、急な下り坂をへて峠道は舗装された道路となって車道に合流。佐野から台道地区に入り山陽自動車道をくぐって岩淵集落に下っていく。

岩淵集落の手前右手に元治元年(1864)建立の大きな
「周防三孝女 石川阿石の碑」がある。貧しい家に嫁いだ石は、足の悪い舅の看病をし、日々、舅を背負って病気治癒祈願のため、寺に詣でていたという。夫は行商の旅に出たが、商売は失敗し、10年も家に帰らなかった。その間、お石は内職その他の仕事をして家を守っていた。石の長年の献身的孝行は官府にも知れるところとなって物の他後には石川姓までも与えられた。周防三孝女とは徳山のお米、防府のお石、そして下関清末のお政である。

集落入口の左手に常夜燈、右手に地蔵堂がある。岩淵は、宿馬十匹の半宿だった。400mばかりの小さな岩淵集落を抜けると横曽根川に突き当たり、ここで旧道筋はしばらく途絶える。川を渡って国道2号のガードをくぐり、右折する。300mほど先の二股で旧道が左に復活している。細い道を下って大道の集落に入る。入口右手に地蔵立像がある。

県道21号を横断して大道の集落が続く。このあたりは大道市と呼ばれて馬10疋を備えた半宿であった。今も市東と市西の地名が残る。家並みも海鼠壁の土蔵や門構えの旧家など立派な家が多い。

右手に古い門と井戸を残した旧庄屋上田家邸宅がある。その西につづいて近代的な建物と長い土塀という一見ミスマッチな邸宅があり、「上田」の表札があった。同一の上田家邸であれば、広大な屋敷ということになる。

旧街道は市西自治会館前を通って国道2号に合流する。その先500mほどで国道をまたいで左右に短い旧道が残っている。国道右側の旧道には津山神社があり、国道にもどる手前で
長沢池を望む公園があった。長沢池は慶安4年(1651)頃、時の代官東条九郎右衛門によってつくられた用水池である。国道に合流して長沢池のほとりで防府市から山口市に入る。

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小郡 

この辺りに往還松の名残があるとのことだが、若木が数本植えられているだけで名残の松を見ることはなかった。

旧道は国道と分かれて左に折れて山陽本線の札場踏切を渡ってのどかな道を大きく左に回り込むように進む。再び踏切を渡った先左手路傍に小さな地蔵がある。「岩屋寺八丁 明和四亥十二月日」と刻まれていて岩屋寺への道標を兼ねている。

国道2号に出る。合流地点の長沢池畔に文久2年(1862)建立の赤川晩翠の詩碑が建つ。晩翠は萩藩士で後に山口明倫館の教授となった。漢詩の様だがもちろん読めない。

今宿東信号の手前で国道と分かれて左の旧道に入る。

四辻駅前を通過し、高橋川手前の二股を左にとって高橋橋を渡る。このあたりに古代山陽道の八千駅家があった。


右手に門塀を構え大きな屋根を石州瓦で葺いた旧家が目を引いた。

綾木川を渡った先、春日神社の鳥居の脇に「建石」と呼ばれる扁平な石が建ててある。寛保2年(1742)の記録にあるそうだが、いつ何のために建てられたかは不明。十字路に目印として建てられたもよう。「立石」の地名が残る。この付近に一里塚があった。

鳥居のある参道から国道2号下の道を東に戻って四辻西信号を左折して北に進む。セキスイハウス工場手前の右側、草地の中に「国指定史跡周防鋳銭司跡」の説明板が立っている。ただ広い空地であるがここに平安時代140年余りにわたって銅銭を鋳造する役所があった。るつぼやふいごなどが出土し、国史跡として保存されている。

立石の丁字路に戻る。400mほどで国道2号をくぐり、すぐ左折して陶上市集落に入る。円覚寺のところで曲尺手になっている。左手に陶(すえ)上市の市恵比寿がある。陶村の上市と下市で市が立ち、市えびすが祀られた。陶市は宿場ではないが、天下送りの継ぎ場が置かれ、宿馬10疋が置かれたと記録にある。

右手、市自治会会館の前に享保6年(1721)の地蔵立像と安永5(1775)建立の宝筐印塔がある。茅葺屋根を赤トタンで覆った民家が目立つ。古い家並みが旧街道の趣を残している。

百谷川を橋本橋で渡ると陶下市である。右手に地蔵堂と下市の市恵比寿がある。

陶集落をぬけて県道335号と合流し、すぐに再び右の旧道に入っていく。真菰(まこも)池の西縁を進んで新幹線をくぐる。右手に小郡一里塚跡の碑があり「従安芸郡小瀬川二十二里 従赤間関十四里」と記されている。碑は新しい。

東津橋椹野(ふしの)川を渡る。堤防を左に少し行った右手に藩米津出蔵跡の案内板がある。ここは山口港に注ぐ椹野川の川口湊として賑わったところで、藩の年貢米を津出蔵に保管して船で大坂に運んだ。御蔵に並んで川口番所があった。

街道に戻り、新丁踏切を渡る。ここより小郡宿新丁に入る。古い家並みが宿場の面影を感じさせる。

藤本金物店の手前の十字路を右折して二筋北に入って行くと、右手に大きなクスノキが見える。その元に新丁公民館がある。そのあたりが小郡宿の御茶屋・勘場跡である。御茶屋は、藩の公的な宿泊施設であるが藩主はあまり利用せず、脇本陣として使われていたという。

勘場は萩から出張して来る代官の勤務する役所で、大庄屋が毎日出勤し、算用師などの地下役人を指図して行政を取り仕切っていた。敷地内には御留米蔵もあった。

街道にもどる。つぎの交差点右角に道標がある。草に隠れて見逃しやすい。「左萩山口石見」「右 京江戸」、裏側に「牛馬繋事無用」と刻まれている。道標に牛馬を繋ぐ不届き者がいるための注意書きである。「左萩山口石見」の道は石州街道とも呼ばれるが山陰道でもある。京都から発った山陰道は鳥取、島根を経て山口からここで山陽道に合流していた。高札場があったのは当然であろう。

山陽道はこの十字路を左折する。山陰道からは直進の方向である。左手に風情ある町屋が残っている。特に虫籠窓を切った二階の漆喰壁の下部に細かな花模様をあしらった海鼠壁が印象深い。

中央通りを渡った左角の西中国信用金庫駐車場付近は、三原屋本陣跡である。文久3年(1863)下関での外国船砲撃の件で、奇兵隊を詰問するため三原屋で待機していた詰問使らを、奇兵隊過激分子が襲撃、従者3名を殺害した。詰問使は海に逃れたが、中の関沖合の船中で再度襲われ殺害された。後の長州征伐の要因ともなった三原屋事件の舞台である。

旧明治町に入って、十字路の右角が春定(はるさだめ)札場跡である。春になると高札に田畠毎に秋の貢祖予定額が示された。

国道9号の手前右手に粟島神社がある。その先旧道は国道で分断されている。地下道で国道の反対側に出て旧道にもどるがすぐに県道335号に合流する。

県道で山陽新幹線をくぐり最初の十字路(右手に柏崎新開公民館)を左折して細い旧道に入る。線路と県道にはさまれた狭い集落の中を真っ直ぐに進む。海鼠白壁土蔵や落ち着いた家並みがつづく気持ち良い旧道である。

突当りの三叉路を左折して宇部線、山陽本線の踏切を渡る。右に曲がりながら坂を上がっていく。宇部線を跨線橋で渡って左折する。上嘉川公会堂の辺りに嘉川一里塚があった。

左手跨線橋のたもとに白い標柱があって「真田四郎の墓この先50m」とある。真田四郎は土佐藩士だったが元治元年(1864)の禁門の変時、脱藩して忠勇隊士として長州軍として戦い、その後、明正寺に嘉川浪士隊として駐屯していた。経緯は不明だが慶応元年(1865)明正寺の本堂で切腹する。墓は明正寺でなく山裾の目立たない墓地にある。

山陽本線の上嘉川踏切を渡る。左に二階の白壁に虫籠窓を切り一階は格子造りの立派な旧家が目を引く。道なりに左折して嘉川市に入る。

右手に恵比須社があり前に二本の標識がたっている。それぞれに「山陽道嘉川市」「本間源三郎顕彰碑」と記されている。
その背後にある寺が真田四郎が切腹させられた明正寺である。
嘉川市は半宿で宿馬10匹、家数70余軒あった。古代には山陽道の賀宝(かがほ)駅家が置かれていた古い土地柄である。

市区自治会館の向かいに平屋建て下見板張り寄棟造りの洋風建物がある。赤ペンキか弁柄塗か、赤茶色のはげかかった色合いが古色を醸して風情ある佇まいである。郵便局か自治会館の旧舎であろう。

右手に起り屋根の魅力的な民家がある。低い二階部分の白壁には小さな虫籠窓が作られ、黒漆喰の帯に白漆喰の花模様が施されて女性らしい愛らしさを見せていた。漆喰の花模様は小郡宿でもみたものでこの地方に多い建築意匠であろうか。

旧道は賀川市信号で県道335号を斜めに横切り、嘉川福岡信号で再び県道を斜めに渡る。左手JAの広い駐車場に三体の石仏、「一回一力一心」の碑、明治40年の道標が街道に面して並んでいる。道標には「右厚狭郡山中舩木 左吉敷郡阿知須床波」と刻まれている。石仏はいずれも18世紀建立の古いものだ。

嘉川駅前を通り過ぎて幸之江川を渡ったすぐ左手に道標がある。「あしす とこなみ 中の村」と刻まれている。阿知須、床波を経て宇部に向かう海岸通りの道(国道190号)と山中に向かう山陽道(国道2号)の追分道標である。

幸の橋信号で一旦県道335号と合流したのち、すぐ県道を左に分けて右斜めの旧道に入る。

1.5kmほど一本道の旧道を進んだ後、国道2号と県道6号、335号が複雑に絡む交差点に突き当たる。旧道をそのまま進み県道6号のガードをくぐり、県道335号を進むと国道2号に出る。

国道の右側、左側にみじかいS字状の旧道がある。坂を上がりつめた右手の「おいはぎ峠」食堂の先に周防長門国境碑があり「東周防國吉敷郡」「西長門國厚狭郡」と刻まれている。山口市と宇部市の市境である。山陽道の最終章に入っていく。

(2015年5月)

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