山陽道(西国街道)6



西条-海田広島廿日市玖波(宮島)

いこいの広場
日本紀行
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四日市(西条)  

西条町に入って二つ目の二股左手草むらに茗荷清水跡がある。同名の清水が田万里の東西にあることになるが、こちらの清水の方が有名らしい。細目の金網で覆われていて中が良く見えない。田万里宿手前で見た茗荷清水よりも規模は小さい。傍に石柱が二つあって、一つは「旧山陽道茗荷清水跡」と刻まれた石標で、低い方には「音に聞こえし茗荷の清水 三原御前酒におとるまい」と刻まれている。『芸藩通誌』にもその名が知られた名泉である。なお、この清水を抱く一帯の山林は西条宿入口に構える蔵元「賀茂泉」の所有で、茗荷清水を仕込み水に使用していたといわれる。

坂道を上っていくと二軒の民家が並んでいる。二軒目には明るい土壁の蔵が目立つ。

一軒目の手前右手に草道が出ている。これが旧山陽道で、民家裏手の藪を抜けて国道2号上り線に出られる。コンビニの空き弁当やペットボトルのポイ捨てがちらばって決して気分良い旧道とはいえない。ガードレールの隙間から国道をよこぎり、向こう側の駐車場に渡る。そこから再び道跡なき法面を登って国道の下り車線に顔を出す。こちらも20mほどの距離ながら踏み跡もない藪漕ぎの道である。上がりつめた所はうまくガードレールが途切れた個所で、国道の向こう側には左斜めに出ている舗装道が見える。

無事二本の国道を渡って旧山陽道の延長に出ることができた。峠でも何でもないが、なにか冒険心を満たす達成感があった。

右手に上三永第一会館、左手に明神社をみながら集落内で右にカーブし、家並みを出て池の右縁に沿った道をいく。

二股に差しかかる。右の土道がいかにも山道の風情を湛えて魅かれるが、松子山峠の道はまだ早い。二股を左にとると林間道となって国道375号のトンネルをくぐる。反対側の導入路脇に綺麗な復元された日向の一里塚があった。

そこから国道に対して直角の方向に出ている道が松子山峠入口である。100mほどの舗装道の先は倒木が散乱する山道である。足元のぬかるみがひどい。数日の晴天後でこれだから、雨天の後などは長靴が必要と思われる。道自体が沢となっている場所もある。靴を濡らしながら進んでいくと池のほとりのに出た。増水時の放水路であろうか。さほど高くないコンクリートの堤を登る。水路は空いていた。向こう側に渡るとその先は歩きやすい山道となった。右からの道と二度ほど合流してゆるやかに上がっていく。

途中に昨年設置されたばかりの基準点を見つけた。「平成26年度 2級基準点 広島中央環境衛生組合」と金属標に印字されている。廃道に設置される訳はなく、この松子山峠道は現役の道である証ではなかろうか。

やがて峠らしい場所に出た。高さを感じない峠である。峠には「旧山陽道松子山峠」の石標が立っていた。

下りは登り道よりも歩きやすい。ここでも同様の基準点を見つけた。左手の池のほとりでは二人が測量中であった。三つ目の設置作業であろうか。

側溝が崩落した箇所やぬかるみの場所を経て自動車道に出た。

道路の整備工事個所を過ぎてまもなく左手金網の中に駕籠松の碑がある。西条の町並みが展望できるところである。ここに樹高40m、幹回り6mという松の巨木が聳えていており、西国大名たちは参勤交代の折この樹陰に駕籠を止めて休息したといわれる。松は昭和18年(1943)枯死した。

松子山浄水場から500m程の左手に小さな今宮神社がある。ここには古い牛万長者の伝説が伝わっている。昔、焙烙を商う男がここにいた年老いた牛の世話をしてやっていたが、牛は死んでしまった。男は哀れに思って牛の身体をなでると、牛は金に変ったという。この牛万長者の伝説には後日談があって、彼は広大な土地を持つようになり、田植え時にはこのあたりからここから西条の先の飢坂(かつえ)坂まで、一日かけて田植唄を歌いながら苗を植えたという。その出発地点であるこのあたりの坂道を「歌謡坂」と呼ぶようになったという。

現在は住宅開発が進んで土地はならされ坂はなくなったが、この辺にあった一里塚が歌謡坂一里塚と呼ばれてその名が残されている。残念ながらその一里塚跡碑を見逃してしまった。

原比川を右に見ながら西条市街地に入ってきた。住宅、ショッピング街の開発に伴う道路整備が大規模に行われていて、旧道をたどるのが難しい程だ。

二股を右に取り川沿いを進んで十字路で川を渡り、すぐ国道375号を横断する。サムエル西条保育園と大きなドラッグストアの間を抜けて広い車道を斜めに渡って土与丸信号を横断する。道なりに左に折れて道は西条の酒蔵が立ち並ぶ西条四日市宿に入っていく。

江戸時代四日市次郎丸と呼ばれた土地に宿場が作られたので、四日市宿とよばれた。西条は灘、伏見に並ぶ日本有数の酒処である。現在も7社の醸造所が建ちならんで赤レンガ煙突に象徴される独特の景観を呈している。

街道に沿いながら左右に建つ酒蔵のすべてを訪問して行こう。各社の紹介は大分を「酒蔵通り案内図」によっている。

上市町にはいってすぐ左手にあるのが賀茂泉酒造である。大正元年の創業で米と米麹のみで造る純米酒の製造を戦後全国でいち早くはじめ、広島を代表する純米酒メーカーである。芳醇な味わいと純米酒特有の山吹色が特徴。昔は田万里との境界近くの山林を所有していてそこに湧き出る茗荷の清水を仕込み井戸として使っていたことは既に触れた。

現在の仕込み水井戸である次郎丸井戸「酒泉館」の前にある。酒泉館は広島県産酒の進行発展と広島流の酒造りの試験場、「県立西条清酒醸造支場」として昭和4年(1929)に建てられた。下見白板張りの瀟洒な洋風木造建築である。玄関前に「左竹原」「右四日市」と刻まれた道標がある。

右手一筋入ったところにひときわ高く赤レンガ煙突が聳えている。福美人酒造で全国の酒造業者らの出資で大正6年に創業した。優秀な杜氏を育てて全国の蔵元に送り出し、「西条酒造学校」と呼ばれた。海鼠壁の酒蔵とは対照的に社屋は白ペンキの板壁洋館である。この組み合わせは西条酒造会社の特徴をなしている。大正から昭和にかけて当時モダンな洋館に仕立てた官公庁にならって事務所を洋風にした。

販売所内に「美人の井戸」がある。黒板に書かれた由来によれば:

「緒龍王山系の伏流水「美人の井戸からその昔赤ちゃんの産湯に使われたほど肌にやさしい水が湧き出ています。そのやわらかい井戸水を使いほのかに甘くやさしいキメの細かい「福美人」を醸し出します」

街道にもどって西に進む。左手に路地を跨いだ長屋門がある。「くぐり門」とよばれている建物で、昭和初期に賑わった芝居小屋「朝日座」への入口であった。現在は観光案内所として使われている。一階の黒板壁、二階の連子格子と白壁が美しい。

右手、亀齢酒造は明治元年(1868)の創業で吉田屋と称していたが明治中期に「鶴は千年、亀は万年」のごとく、長命と永遠の繁栄の意をこめて「亀齢」と改称された。甘口の酒が多い広島県の中では、辛口の酒で喉ごしのうまさを身上としている。ここも海鼠壁の酒蔵と洋館の社屋の組み合わせである。街道沿いの「万年亀(まねき)井戸」には「今は仕込み中のため3月まで水を止めている」とあった。

西条の町並みに入ってすぐに目を引いたのが屋根の赤瓦と飾物であった。この赤瓦が西条来待(きまち)とよばれる釉薬によることは田万里で見かけた福田家油土製造跡の標識に記されていた通りである。来待石による瓦焼きの技術は石州(島根県石見地方)から伝わってきた。

艶のある赤茶色の瓦は見事にその色合いが統一されていて、大棟には例外なく鯱が乗せられている。隅棟先にも鳩などの鳥が飾られていて、景観の徹底ぶりは見事というほかない。使われていない煉瓦煙突の保存も景観維持の一環であろう。

先の十字路を右に入って行く。路傍の
石仏を過ごして突当りに御茶屋本陣跡がある。西条四日市宿は重要な大宿駅であったため、浅野藩直営で本陣ををつくり「御茶屋」と称せられていた。規模は敷地の広さ 1488坪(約4910㎡)、部屋数は29部屋で214畳半の大きさであった。建物は明治維新後に取り壊されたが御門と称せられていた正門は賀茂鶴の当主が土地とともに払い下げを受けた。石垣ほどの高さに設けられた犬矢来はその大きさから馬矢来というらしい。

隣接してある蔵元は元和9年(1623)創業の賀茂鶴酒造で、県下で最古の蔵元である。昭和2年のレトロな洋館事務所は見事な白壁酒蔵に囲まれている。昭和33年、全国に先駆けて始めた吟醸酒造りでは、全国のトップクラスを誇る。充実した見学室には酒造り用具が並び酒米も展示されている。同社醸造の10銘柄の酒を試飲できるのもうれしい。使い捨ての小さな器だが5杯も飲むと体が温まるのを覚えた。同じ酒蔵だが、銘柄によって味の違いが歴然としていることに驚いた。

街道にもどり次のブロックの右に西条鶴醸造、左に白牡丹酒造が並び建つ。

西條鶴の発祥は江戸時代後期の天保年間で明治37年(1904)西条鶴として創業した。明治中期に建てられた黒格子造りの店先にある名水天保井水は地元の人も汲みに来る。規模としては小さいながら天保から残る酒蔵で手作りにこだわった酒造りを続けている。昭和44年(1969年)には日本酒業界ではじめて防腐剤無添加酒を出した。西条で唯一現役の煉瓦煙突を守る蔵元でもある。

左にある白牡丹酒造は延宝3年(1675)の創業。「冥加の水」を仕込み水として、300年以上使い続けている老舗である。白牡丹の酒蔵は西条鶴に並んで街道の右側にも建つ。延宝蔵はまぶしいほどの白亜の壁に繊細な格子窓が切られている。「白牡丹」は京の五摂家の一つ、鷹司家の家紋にちなんで命名された。酒は甘口で、夏目漱石や棟方志功らが愛飲した記録がある。

駅前通りの交差点に差し掛かる。ここから安芸国分寺跡に立ち寄ることにした。線路をこえて北東に1km余り行った所にある。現在の国分寺の裏側に奈良時代の国分寺跡が広がる。金堂跡や講堂跡、塔跡などが発掘され講堂跡には当時の礎石が残っている。

西条駅南口交差点にもどり、四日市宿の西半分を歩く。当時は交差点辺りが枡形になっていて札場があり宿場の中心をなしていた。駅前通りから一筋西に入った左手、「ふじたストアー」辺りに脇本陣があった。

左手、うだつの上がる町家風店舗は山陽鶴酒造である。酒蔵の一部を改装して直営の割烹しんすけを経営している。山陽鶴酒造は大正元年(1912)の創業。山陽道の松並木に鶴をあしらって「黒松山陽鶴」と命名した。

右手に建つ海鼠壁の土蔵を従えた立派な蔵造りの町屋は太田邸である。うだつを設け、赤瓦と鯱の屋根という景観は守られている。

半尾川を渡る。昔はこの川を境に東条と西条に分かれていた。その後西条は発展していき、東条の名は自然消滅してしまった。

その先右手民家の駐車場脇に「賀茂郡御役所跡」の石標が立っている。広島藩の代官所が置かれていた。

右手真光寺の向かいに明治28年(1895)創業の賀茂輝(かもき)酒造があった。重機で解体中であった。今年夏に廃業したらしい。赤レンガの煙突はまだ残っていた。

このあたりで四日市宿を出る。

旧山陽道は県道332号を横断、二股を右にとって国道486号に合流する。

左側に残る短い旧道を経て友待橋信号を斜め左に入って行く。

すぐ左手、パチスロ駐車場隅のごみ集積場の脇に時友一里塚跡の説明板がある。標識一本を立てるのになんとも無粋な場所を選んだものである。

パチスロの裏道を通り抜け黒瀬川に架かる時友橋を渡ると田園風景が広がっている。先のごみ集積所から100mも離れていない。私だったらここに一里塚跡の碑を立てる。

道なりに緩やかな坂を上り、集落の家並みが途切れた所、右手に「飢坂(かつえざか)」の立札がある。道は土の坂道となって上りきった所左右に池がある。その手前に二つの説明板が立ってある。そのうちの一つ「東広島市ウエストライオンズクラブ 東広島市郷土史研究会」が二つの話を伝えている。

1 大昔、土与丸(ドヨマル)(西条町)に牛万匹という長者がいた。西条一万6千石の収穫物は全部自分のものであった。長者の田植はにぎやかで一番東の端歌謡坂から歌を歌いながらはじまり、浜田(西条警察署のあたり)で中食をたべ、さらに植えていき、夕方この峠にたどりつくが腹が減ってたおれそうになるので飢坂というようになった。

2 大キキンの年であった。飢えに苦しむ人々が食べ物を求めて、街道筋は行列をなしていた。ここでは村人達が焚き出しを行っていたが、この峠に達するや力つきて、たおれ死ぬ人も多く出た。それから飢坂とよぶようになった。

最初の話が今宮神社に伝わる伝承に符合する。

二つの池の間を抜けると本格的な山道に入る。道は平坦で歩きやすい。ほどなくして峠に至り、右手に「旧山陽道飢坂」の碑がある。

下り坂も快適で、旧道歩きを楽しむ間もなく新しく造成されたばかりの住宅地の脇に下ってきた。

道はシャープの工場に突き当たる。工場を囲りこみ池の前を左折、右手に池を見ながら進み左手の小高い山にある清水川神社に寄る。神殿は元々北向きで街道に面しており、通行人が下馬せずに通ると身分に関係なく落馬したために、西向きに向きを変えたという。神が民衆に譲歩した稀有な例となる。

道は南西に向かい八本松南1丁目の南円周を時計回りに進んで、県道67号を斜めに渡って国道486号に出る。その先、旧道筋は線路を越えて左に弓なりにカーブ(現県道46号)して溝迫信号辺りで国道486号を斜めに渡って現在の旧道に戻っていた。

現在はその間の道筋が消失しているため歩道橋で八本松駅の北側に出て沓掛第三踏切で線路の南側にもどり、前方の石段を上がって国道溝迫信号に出ることになる。

国道と旧道の分かれる辺り、現在のミスターマックス駐車場の国道沿いに長尾の一里塚跡の碑がある。説明板はないが、地名「八本松」は一里塚に植えられていた男松と女松に由来するという。それぞれが4本の枝を出していたので、八本松とよばれたとか。

旧道はこの先くねりながら「西国街道(旧山陽道)」の表示に従って道なりに坂を上がり、県道83号を潜って右折する。 行き止まりの左手に「西国街道(旧山陽道)大山峠」の表示があった。坂を上がっていくと舗装はまもなく途絶えて土の山道となる。

山道は広く足元も平らで快適である。まもなく左手に「大山駅跡」の立札があった。この大山峠道は古代山陽道と重なっていて、比定地の根拠となった遺構が出土したわけではないが、この辺りに駅家があったとされる。

二股に出た。「大山峠」の標識にしたがって右に進む。

沢が横切っていて木橋が架けられている。水はない。縦筋の溝がえぐられているがここも空だ。ほどなく峠にたどり着いた。右手に「旧山陽道大山峠」の石標と大きな説明板が設けられている。古代山陽道は日本書紀に現れる「西道」だといわれるから、この道も大山峠もすでに弥生時代からあったことになると、うれしいことが記されている。

この先の下り坂は「代官下し」と呼ばれて、西から上ってくる旅人はいかなる権威のある人でも駕籠から降りたという難所であったという。

左手に「蟠龍の松」の説明板があった。昔この大山峠に龍の形をした大きな松があったが昭和の終わりに枯れてしまった。平成24年10月に2世を植栽したとある。その周囲にあるのは葉を落とした松らしからぬ木立で、2世の松を認めることができなかった。

下り坂になってすぐ右手に「旧山陽道大山清水」がある。水は湧き出ていなかった。

道に倒木が見られるようになり大きな岩が道を塞ぐ。沢を下って行くような道で河原のような悪路になってきた。

悪路は長く続かず再び歩きやすい気持ち良い山道となる。右手に「大山刀鍛冶之墓」の碑が立っている。建武年間(1334~37)守安が初代で、天正年間の宗重の刀が現存する。昭和20年に水害で流されるまではこの付近に刀鍛冶の屋敷跡があって、たたらなどが出土したという。

暫く行くと、左手に「大山の滝」への案内標識と「旧山陽道賀茂安芸郡境」の石柱碑がある。東広島市から広島市安芸区に入る。

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海田 

下り坂も終わりに近づく気配がして、左手に「旧山陽道代官おろし跡」の碑がある。こちらから大山峠を目指す登り坂は、代官、大名でも駕籠から降りて歩かねばならなかった難所であった。

すぐ先に「瀬野馬子唄発祥の地 大山峠入口(旧山陽道)」の大きな絵入り案内板がある。

♪瀬野の三里とエー 大山の峠(たお)とヨー 大須(おおず)なわてがなけにゃエー 
♪♪瀬野の馬さはエー 金つき馬でヨー 夜(ばん)になってもせいをだす 
♪♪♪瀬野の馬はエー 一石五斗のヨー 米を振り分け馬の背に

瀬野馬子唄の由来

「ここから大山峠へ上がる坂は大変急であるため、旧山陽道(西国街道)で一番の難所でした。「代官おろし跡」の案内板があるように、お殿様でも駕陥から降りて、お付きの人に後ろから押してもらってようやく峠を越えることができたそうです。 瀬野馬子唄は、この急な坂を、米なら1石5斗(約225kgくらい)を背に振り分けて積んだ馬を曳きながら馬子たちが唄ったものです。当時の馬は金つき馬と呼ばれる去勢されていない馬で、大変扱いが難しかったと言われています。

旧道は道なりに川に沿って右に曲がり突当りを左折、山陽本線をくぐって清山バス停で国道2号に出るが、左折して200m足らずですぐ左斜めの旧道に入る。

600mほどで旧道は再び山陽本線をくぐって右折する。左から合流してくる道路の左手に万葉歌碑がある。

「まきのはの しなふせのやま しぬばずて われこえゆけば このはちりけむ」と万葉仮名で書かれている。口語訳として

「眞木の葉のしなやかに垂れている勢の山を、家郷を思ふ心を忍びかねて自分が越えて行くと、その山の木葉も自分の思ひを知った事であろう。」とある。

旧道は国道2号を横切って瀬野川沿いに続いている。橋で右岸に渡り川沿いの道を少し行くと左手に2本の松があり街道風情を醸している。傍には「旧山陽道三本松(二代目)」と書かれた標柱がある。私の眼には2本しか写らなかったように思う。

橋に通じる道との丁字路右手、石垣を背にして「旧山陽道凉木一里塚跡」の石標がある。

旧道は川に寄り添って蛇行をかさね、一旦国道に出たところですぐに右の旧道にもどり、その先の清水第5踏切で山陽本線を渡り、道なりに今度は線路に沿って西進する。

右手墓地の一番左に「先祖 大山刀鍛冶市左衛門之碑」がある。傍には平成26年12月という、建てられたばかりの大きな説明板があった。それによると「60数基の墓は、2代重守の貞治年間から文禄までの歴史です。なお、初代守安の墓所は、大山峠にあります。」とある。その墓所はここから100mの所にあるらしい。

旧道は坂を下って清水第7踏切を渡っていく。続いて国道2号を横断するのだが、その手前右手に立派な長屋門を構え、白壁の塀をめぐらせた旧家が佇んでいる。昔は村で唯一の医者だったらしい。

国道を横断してすぐ左手の瀬野川の川岸に石垣と水路がある。ここは広島藩の油御用所跡で、瀬野川の水を利用して菜種油を絞った作業場跡である。

道は一貫田の町並みに入って行く。
一貫田は中世の世能庄の中心で、近世には海田市宿と西条四日市宿との中継地の間宿として賑わった。県道174号を横切った左角に大正13年の道標がある。「右ハ 海田市 廣島 左ハ熊野跡村 呉 方面」「右ハ熊野跡村 呉 左ハ八本松西條 方面」と書かれている。県道174号は今も熊野跡道とよばれている。

道はここでも赤瓦で統一された家並みを通りぬけ、西端ちかくで右に曲がって下一貫田信号で国道2号を斜めに渡り、中原第1踏切で山陽本線を横切る。700mほど西に進んで再び線路を辰の口第1踏切で渡り国道瀬野小学校前信号に出、300mほど国道2号を進んで歩道橋前で左の旧道に入る。

すぐ右折して国道の南側を600mほど行って橋を渡り平山歯科前の丁字路に突き当たる。右手のゴミ集積箱を挟んで「右ハ四日市 左ハ志わ」と刻む道標「旧山陽道落合の一里塚跡」の石標がある。

旧道は丁字路を左折して瀬野の町並みを抜け、国道2号瀬野大橋東詰信号を渡って山陽本線の高架下をくぐり、県道274号を南下する。概ね線路に沿った中野6丁目地区の高台の道を通り抜ける。

広島国際学院大学の門の前に小さな道祖神がある。

中野東駅を通り過ぎ、安芸中野駅から500mほど手前の右手民家の塀の脇に「旧山陽道鳥上の一里塚跡」の石標があった。うっかりすれば見逃す存在だ。その先十字路を右に入って行くと矢口神社がある。

安芸中野駅をすぎ京田第三踏切を渡り、瀬野川堤防の道に出る。川沿いに300mにわたって中野砂走の「出迎えの松」と呼ばれている松並木が続いている。「旧山陽道中野砂走り出迎えの松」の石標があった。芸備地域では1633年の幕府巡見使の視察を契機として急速に領内の交通網の整備が進められ、沿道に一里塚や杉、松などの並木が植えられた。「出迎えの松」の名は、当時参勤交代の責を終えた安芸国の藩主を、家来や村の有志たちがこの松のあたりまで出迎えたという言い伝えに由来している。松は高さが不ぞろいで若木もみられるが説明板によると樹齢は100年から250年と推定されるという。最も高い松のことを言っているのだろう。

道なりに川から離れて広島市安芸区中野町から安芸郡海田町に入る。

畑賀川に架かる砂走橋の手前右手に「旧山陽道蓮華寺登口跡」の石標と古い砂走橋の親柱がある。

山陽新幹線の高架下をくぐり、大力第一踏切で山陽本線を渡る。

500mほどいくと右手に海田町ふるさと館があり、その裏が古墳公園になっている。復元された竪穴住居、埴輪、古墳などがあるが、今一つ実感に乏しい。その中で本物の道標が2基保管されていた。一つは指差道標で下部は埋もれていて、「本道ちか」と刻まれている。他は「右ハ 矢野町 熊野町 呉方面」「左ハ 海田村 中野村 xxx方面」と読める。

左手に「街道松跡」と書かれた案内板がある。海田に残る最後の街道松で「名残の一本松」と呼ばれて親しまれていたが、昭和61年(1986)松食い虫で枯れ伐採された。写真でみる姿は美しくかなり高かったようだ。

上市から海田市宿に入って行く。左手海田町役場に「旧山陽道(西国街道)」の案内板が立っている。中世以前の山陽道は畑賀から府中に抜ける内陸のルートであったが、寛永10年(1633)の幕府巡検使の巡察を契機に広島藩内の道路制度が画期的に整備され、宿駅としての海田市の発展が始まった。ここも「市」が宿場の名前に付いている。海田村は江戸時代を通じて海田市とよばれ広島藩の蔵入り地(直轄地)であった。江戸時代は町の前面が瀬野川の河口であったという。

役場の向かいに熊野神社がある。石段を上がって行く途中、右手石段の側溝石に「文政7年 石段寄付者云々」と刻まれている。承応3年(1654)に庄屋で脇本陣を勤めていた加藤(猫屋)次郎兵衛が願主となって拝殿が再建された。高台から海田町が展望できる。

右手に「御茶屋跡(本陣)→」の標識が立っている。矢印の方向に坂を上がって行くと左手に説明板があった。広島藩は藩主の公用宿泊所として御茶屋を9カ所(可部・吉田・八木・海田・西条・本郷・吉舎・甲山・尾道)置いており、宿駅の整備・拡充に伴い本陣の役割をはたすようになったものである。770坪の敷地を有していた御茶屋跡は民家で占められており面影はない。

中店に入って右手に恵比須神社がある。神社由来記の大きな説明板には海田町の歴史も詳しく書かれている。瀬野川の渓□集落であった開田は、更に海に面して土地が開かれ海田と呼ばれるようになった。海田は古くから交通の要地であり、西条四日市と廿日市と並んで「市」が開かれ、海田市と呼ばれ、今日の安芸郡の政治経済の中心地として発展した。

今も海田市駅には山陽本線と呉線が発着するように、海田は古くから交通の要衝で、寛永12年(1635)参勤交代制の確立の時に西条四日市と広島城下を結ぶ宿駅人馬継立所となった。

左手海田公民館の敷地に「脇本陣跡」の説明板がある。この付近にあった庄屋の加藤(猫屋)新太郎宅が1814年当時脇本陣と呼ばれていた記録が残っているという。猫屋は海田市の鎮守である熊野神社の拝殿再建の願主としても記録に残っている屋号である。

左手に一際高い松が聳える千葉家の立派な屋敷がある。房総の豪族千葉氏一族を先祖とする武士であり、天正年間に安芸に移り住んだ。その後屋号を「神保屋」と称して酒造業を営んでいた。玄関は入母屋造り、座敷は数奇屋風書院造りで、江戸時代の建築様式を今に伝えている。江戸期には天下送り、宿送り役をはじめ、年寄、組頭などの役職を勤めている。また諸大名が宿泊することもあったというから本陣、脇本陣に準ずる役目も兼ねていたのであろう。

明顕寺の前には連子格子に虫籠窓、犬矢来、駒寄などを揃えた黒漆喰造りの風情ある旧家が建つ。三宅家住宅で、江戸時代から明治にかけて安芸郡きっての大地主で農業篤志家であったという。佇まいはどう見ても町屋で、生業はなんであったか、わからない。

稲荷町と新町の境の路地右手前角に、清正寺道標に並んで「旧山陽道海田市の一里塚跡」の石標がある。

海田市宿の土地が斜めにジグザグ状に割られている。軒先だけをみるとノコギリの歯のようである。大名行列が早く見えなくなるようにとか、荷車を着けやすいようにとか、姿を隠すのに便利だったとか、理由には諸説がある。なんらかの実用的あるいは軍事的な利点があったからに違いない。

道は安芸郡海田町から広島市安芸区船越に入り、その先に枡形が残る。手前の十字路で旧道と新道(県道151号)が分かれ、旧道は右折して急な市場坂を上がっていく。新道は直進して次の十字路を右折し、市場坂を下りてくる旧道と合流する。合流点に明治5年建立の常夜燈が立つ。

街道はなおも狭い的場坂を上がっていく。所々に格子造りの家が見られ、旧街道の雰囲気が残っている。二股で右の広い車道を更に上って船越峠に出る。といっても更に広い車道に出ただけで、峠の感じはしない。ここで広島市安芸区から安芸郡府中町に移る。広島市域の一部に安芸郡府中町が入り込んでいる形である。府中町は安芸国府があった所で、特別の扱いを主張したものか。

船越峠を越えると比丘尼坂と呼ばれる下り坂。府中永田バス停の手前で左の旧道に入って行く。左手に船越地蔵を見て、柳ヶ丘西口信号で広い県道151号に戻る。

の先で左手の短い旧道を経て永田信号六差路で県道と分かれて右斜めに入っていく。

恵比須神社の手前を左折する。そのまま真直ぐに歩いて行って府中大橋を渡り、安芸郡府中町から広島市東区矢賀新町に入る。

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広島 

矢賀新町5信号で右折してすぐ左斜めの旧道に入る。

広島高速2号をくぐる。矢賀3丁目辺りに一里塚跡があったそうだが跡地の標識らしきものは見かけなかった。JR芸備線の高架下をくぐり、その先の曙町5丁目東信号の変則7差路交差点を右斜めに入って田中歯科の前を行く。

500mほどで突当りを左折、尾長西1信号あたりに三本の名残の松があるという。豊臣秀吉が名護屋からの帰りに広島に立ち寄り並木松を植えさせたとの伝説がある。バス停をはじめとして「三本松」の名を付けた果物屋、マンションなどは見たが肝心の松の木は見当たらなかった。

山陽本線の愛宕踏切を渡ると城下への入口である猿猴橋(えんこうぱし)に差しかかる。広島城下には伝馬所が二カ所設けられ、東口にあたる猿猴橋町と西の堺町2丁目に設置された。愛宕町から猿猴橋にかけては東の宿場として一般人が宿泊する旅籠が軒を連ねた。

「猿猴」とは、広島地方で、サルに似た河童のような想像上の経物のことを言い、洪水のたびに人々を川に引きずりこむ猿猴がすむ川として、川や橋の名前に使われた。猿猴橋は、16世紀末の毛利時代に木橋としてかけられたもので現在の橋は、大正15(1925年)に完成したものである。親柱の上には地球儀のような球の上に鷲が羽を広げた像がすえられ、束柱には豪華な電飾灯、欄干には2匹の猿猴が両側から桃を抱えている鋳物の透かし彫りが施されていた。戦時中の金属類回収令により装飾品はすべて供出され現在の姿になった。

橋を渡ってホテルを回り込み、駅前通の京橋町10番信号の西側につづいている旧道の延長に入る。京橋で京橋川を渡った左手に水の神である市杵嶋姫(イチキシマヒメ)大明神がある。


旧山陽道は幟町交番前信号を左折、薬研掘通北信号を横切って3つ目の十字路(右手に福連木ビルがある)右折し、堀川町信号で中央町通りを横断する。このあたり飲食店がひしめきあい夜が賑やかな歓楽街である。

中央通りの一筋手前を右手に入ったところ、ビルの谷間に胡子神社がある。慶長8年(1603)の創建で、祭神は事代主命・蛭子命・大江広元で、「御祭神大江広元公は十二代前の毛利元就公のご先祖です」と書かれた木札が立てられている。

堀川町信号から突当りを左折、右折する枡形を経て本通りを西に向かう。

本通信号で国道54号を横断、紙屋町2信号から大手町に入る。

元安川に差しかかる。元安橋の手前右手茂みの陰に広島市道路元標がある。元は県の里程元標が建っていた場所で広島からの里程はすべてこの地点から起算されていた。案内板によると、この地は、主要街道が交差し太田川の水運の利もあって広島城下の中心地だった。川岸には船着き場跡を偲ばせる石積が残っている。

この地には高札場があり、付近には馬継場や藩の公式の宿舎、御茶屋(御客屋)などがあった。本陣の役割を勤める御茶屋は町の有力者の屋敷が当てられた。記録には町役として萬屋長右衛門、奈良屋勘右門、鶴屋新九郎、伊予屋加右衛門、天王寺屋吉郎兵衛、海老屋久左衛門宅(脇本陣)などの商人名がある。

川辺を北に進むと原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)が見えてくる。補修工事の為ドームを囲むように足場が組まれ外観を阻害しているが、足場が届かないドームの肋骨は今も人類最大の過ちを伝えている。昭和20年8月6日史上初めての原子爆弾によって破壊された。爆弾はこの建物のほぼ真上600mの空中で爆発した。その1個の爆弾によって20万をこえる人々の生命が失われ半径約2kmに及ぶ市街地が廃墟と化したのである。

ここから広島城に寄り道をする。電車通りを東に移動、八丁堀西信号交差点を左折する。「八丁堀7番」信号と「京口門」信号の間、左手の小公園に「八丁馬場跡」、「京口門跡」の石碑がある。毛利輝元は、天正19年(1591)広島城を築城した時南側の外堀と中掘との間を東西に走る大路をつくり、それを浅野藩時代には八丁馬場とよんだ。その道路の東端にある門は、広島城から京都へ向かう最初の出入り口にあたるので京口御門とよばれた。

京口門交差点を左折し、市営中央テニスコートの南側を歩いていくとその東西端に「中堀跡」の碑がある。長さ200mに渡る堀跡の石垣が発掘された。

広島城二の丸表御門から入っていく。広島城は天正17年(1589)毛利輝元によって築城された。その後1600年(慶長5年)に福島正則が入城、1619年(元和5年)に浅野長晃が入城して以降明治になるまで浅野家が12代に亘って広島藩50万石を統治した。天守閣、櫓、門など総ては原爆で破壊された。

靖国神社前を通って城址公園北端の堀縁に天守閣が復元されている。下見板張りや最上階に高欄を持つ美しい外観は破壊されるまで国宝であった。広島城は名古屋城、岡山城とならんで日本三大平城に数えられている。

街道に戻る。元安橋を渡って中島に入る。左たもとにある「広島市レストハウス」は昭和4年大正屋呉服店として完成し、昭和19年県燃料配給統制組合に買収され、燃料会館となった。原爆によりコンクリートの屋根は大破、内部も破壊炎上したが全壊を免れ、戦後直ちに改修されて都市の復興の拠点となった。

街道からはずれて左の方向に歩いて行くと平和の灯がゆらめきその先の原爆死没者慰霊碑のアーチを南から覗くと、平和の灯と原爆ドームが一直線上に見えた。丹下健三によってそのように設計された平和記念公園である。

広島平和記念資料館に入った。写真展を中心とする。改めて戦争の悲惨さを思い知らされた。

戦前の繁華街であった旧中島本町を通り抜けて本川(旧太田川)を渡り、広島宿の西半分にはいっていく。

西の馬継場が置かれた
堺町である。ここに大坂の堺から商家の境屋が移住し命名されたという。又ここは堺町1―3信号で北に分岐する出雲石見街道(雲石路)の起点にもあたっていて、出雲、石見銀山との交通の要衝になっていた。出雲石見街道は県道277号を経て国道54号で三次に出て、尾道、福山からの街道と合流して赤名峠へ向かっていた。

街道は県道265号となって天満川を渡って天満町に入る。すぐ右手に天満宮がある。江戸時代、堺町から天満町にかけて西の宿場が置かれてから、火災が頻発したり水難も被ったので、災難除けとしいて天満宮が祀られたのが始まりだという。天満宮の前に「ここは旧山陽道」と書かれた石標がある。

己斐(こい)橋で太田川放水路を渡る。広島城の別名鯉城はここから来たとも、単に堀に鯉が多かったとも言われている。広島カープは鯉から来ている。広島市内は川が多い町だ。東から、猿猴川、京橋川、元安川、本川(旧太田川)、天満川、そして太田川。広島は扇状に間口を広げたデルタに造られた町である。6本の川をそれぞれ6、7本の道路が東西に横切っていて都合40か所以上の橋が架けられていることになる。感心なことにどの橋からも景観が優れていた。一つには山陽道の南か北のいずれかの橋を市電が頻繁に通り過ぎていくことであった。川面に映る電車が景色を活かしているのである。なお山陽道に架かる橋は最後の己斐橋を除いてすべて川と同で名であった。山陽道が城下の幹線であった印であろう。

山陽本線の手前で左折、蔵店風の建物が残る商店街を行くと、右手にJR西広島駅、左手に広電西広島駅がある。

八幡川に架かる源左エ門橋を渡る。江戸時代源左エ門という者が、大雨による増水のために渡ることが出来ず困っている大名行列の一行を見兼ねて、板を渡してやったという話が伝わっている。

広電と接する場所では民家の玄関口に通じる踏切が作られている面白い光景にであった。

その先、二股の分かれ目に「別れ茶屋」がある。ここは草津港方面に続く古い路と西国街道の分岐点にあたっていた。広島城下から西への旅人を、ここまで見送りをし、ここで休みながら別れを惜しんだと言われる。

山陽本線の踏切を渡り西広島バイパスをくぐって高須地区を南西に進む。高須1丁目7番辺りに高須一里塚があったというが何もない。

古田保育園前交差点角に延命地蔵があり、傍に「是ヨリぢぞう道」と刻まれた道標がある。

右手に冠木門を構え白壁土塀をめぐらせ、さらにそれを生垣で囲い込んだ壮大な屋敷がある。茶道上田宗箇流家元の邸宅で和風堂と呼ばれる。冠木門を入ると広大な庭を通り一段高いところに長屋門があって、その内部に多数の部屋を擁した屋敷がある。上田宗箇は芸州浅野家の家老であった武士で、茶人であるとともに作庭家としても名高く和歌山城や名古屋城、旧徳島城の庭園など数多くの名園を残している。

道なりに山陽本線に突当り右折、広電古江駅前を通過して草津踏切で山陽本線を渡ると右手に鷺森神社がある。平安時代の天徳年間(957~960)に勧請された古社である。古くはこの一帯は海辺で、湾内の東端に在り漁船の船着場として栄えた。

このあたりは間の宿、草津宿があった所である。草津宿は広島城下と廿日市宿との中継地として繁栄した。うだつをもつ家が散見され古い港町の風情を残している。

御幸橋の手前右手に白壁土蔵が連なる老舗の蔵元小泉酒造が建つ。間口の広い切妻平入作りで大屋根には煙出しが設けてある。一階の繊細な格子窓も美しい。天保頃から酒造を始めて、今も厳島神社用のお神酒が造られている。

小泉酒造の向かい側には、明治18年に明治天皇行幸の休息所として小泉家が利用されたことを記念する石碑がある。

御幸橋を渡ってすぐ左手のポケットパークに、「ここは西国街道“草津まち”」という案内板と、鏝絵(こてえ)、大石餅の説明板がある。鏝絵は民家の土蔵の壁などに彩色の漆喰で描かれた左官絵で、草津には12カ所で見られるという。私は三国街道長岡宿の酒造会社で見た鏝絵が印象に残っている。

展示されている石臼は大石宅より移設したものであるという。 草津の名産である大石餅の名は餅屋の近くにあった大きな石から来たものかと思っていたが、どうやら餅屋の名が大石家であったらしい。大石餅はその名が「おいしい餅」と聞こえるので評判が広がったという。その餅屋はこの少し先、広電草津南駅手前の踏切付近にあったが平成10年成(1998)に閉店され、今は店跡もない。

広島電鉄の線路を渡り、すぐ先左手に大釣井(おおつるい)がある。住民や旅人の飲み水として、また、防火用水としても使われたという。

道は草津交番西信号で国道2号(宮島街道)に出るがすぐに右の旧道に戻る。

ここで国道を横切って昔の草津湊跡を訪ねることにした。西部埋立第八公園として整備されているこの辺一帯がかつての草津港であった。入り口に福満稲荷がある。ここは昔の魚市場の北にあたり、二本松と井久田家の屋敷があった場所である。

左に入っていくとグラウンドの北側に石を積んで階段状にした旧草津港の雁木跡が残っている。現在の草津港は広大な広島港の西端に位置し、ここから2kmほど埋め立て地の中を縫って行かなければならない。

草津交番西信号にもどり、旧道を入っていく。広島電鉄の踏切の手前左手に大石餅屋があった。

山陽本線の南側に沿って進み、西原ヶ尻踏切を渡って線路の北側に移る。新井口駅手前の二股を右にとる。

500mほど行った十字路を左折、広電の井口駅に突き当たって右折、線路沿いに進んで井口高校北の陸橋先で線路から離れて二股を左に直進する。

右手に塩釜明神がある。かつて海岸沿いの街道であったことの証人だ。浜で製塩や漁業に従事する人たちが、良い塩の出来上がり・航海の安全を祈願し崇拝していたようである。

右手、「しのはら小児クリニック」の前あたりに「街道の松jの写真入り案内立札がある。井口村内に最後まで残っていた街道名残の松だが、昭和58年に道路拡幅により伐採された。その切株が「まつのき薬局」に保存展示されているという。

「井口三丁目」信号交差点の角地に立派な旧家が建っている。

八幡川の手間で広島市西区から佐伯区に入る。八幡橋を渡り、五日市駅からの駅前通りを通り越して次の小さな変則十字路を左折し、弧をえがくように南方向に曲がり込む。

山陽本線に接近する。古浜第5踏切を渡って山陽本線と広電の間の道を行く。

左手に旧山陽道の名残の松が見られる。昭和56年の説明板によると五日市町には5本の松が残っていて、それらの明細が記されている。傍の松はそのうちの一本だが、その先にも2本の街道松が見られた。

道は岡ノ下川に突き当たり左折して広電の一本松踏切を渡って国道2号を右折、海老橋を渡ってすぐ左折、川沿いに南下して三筋橋西詰信号を右折する。西隅の浜信号で国道2号を横断、道幅が狭くなって広島市から廿日市市佐方本町に入る。

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廿日市 

廿日市市に入ってすぐ右手に佐方の一里塚跡碑があり「西国街道壹里塚跡」とはっきりした文字で刻まれている。碑は新しそうだ。

佐方川を佐方中橋で渡る。

左手桜尾公園に一本の街道松がある。佐方中橋から桂公園の辺りまで3間(約6m)ごとに松が植えられ文政2年(1819)には68本の松並木があったという。この松は現在廿日市に現存する唯一の松だそうだ。

ここで桂公園に寄っていく。桜尾城址であるが今はグラウンド広場になっていて史跡はない。桜尾城は承久3年(1221)の承久の乱の結果、藤原親実が新たな厳島神主となって築いたものである。当時は三方を海で囲まれた海城であった。天文23年(1554)、毛利元就の支配下に入り、城主として桂元澄が入城した。関ケ原合戦後廃城となった。公園の片隅に建つ桂公園碑は桂元澄の末裔、桂太郎の揮毫による。

街道にもどり、鉤の手角の廿日市招魂社境内に「明治天皇御駐蹕遺跡」の碑がある。このあたりにはうだつを持つ民家が見られるが、宿場町であった雰囲気はない。

右手、廿日市天満宮の鳥居を入っていくとコンクリートで固めた崖の頂に社殿がある。遠くからながめると砦の様で異様に見える。由緒によると、鎌倉時代の承久2年(1220)に、藤原親実公が厳島神社の神主として幕府より任命され、廿日市の桜尾城に着任の後、天福元年(1233)に守護神として鎌倉の荏柄天神を勧請してこの篠尾山に社殿を造り鎮座した。

鳥居の向かいあたりに代々山田家が勤めた廿日市宿本陣跡があった。「芸州廿日市御本陣旧趾」と刻まれた石碑があるというので探したが見つからなかった。丁度そのあたりが中央公民館で、現在建替工事のため周囲が囲まれている。一時移設されたか、囲いの中にあるのだろう。

街道はその先駅前通りの広い車道を筋違いに横断する。左手歩道上に「廿日市町屋跡」の説明板がある。寛永15年(1638)の地詰帳(土地台帳)によると、西国街道を中心に町屋が確立していたことが知られている。幕末の慶応2年(1866)第二次長州戦争では広島藩士により、長州軍の廿日市通過阻止と士気を高めるため町屋に火が放たれ、町屋の三分の二が焼失したという。

常念寺の前の十字路を鉤型に右折すると、この通りにもうだつのある家が見られ、わずかに古い町並みが残る。その先細い路地との丁字路を左折して廿日市宿を出る。

可愛川を渡って右折、左斜めに進んで可愛川西2踏切を渡り、広電の平良駅前を通り過ぎる。

三差路を直進してすぐのY字路を右にとり、さらに次の二股も右にとって細い坂道を上って行く。この辺り一帯は県道247号を挟んで開発された新興住宅街である。道なりに右に曲がって陸橋で山陽本線を跨ぐ。すぐに左折して県道の下をくぐり、線路に沿って南に下っていく。JR宮内串戸駅をすぎて突当りを右折し、御手洗川に沿って西に向かう。

西広島バイパスと山陽新幹線を潜って県道30号の宮内交番前信号手前左手に宮内一里塚跡があり、「西国街道壹里塚跡」の新しい碑が立っている。佐方の一里塚跡碑と同じものだ。

街道向かいにある専念寺には旅人が休むお茶屋があったと伝えられている。

県道30号を横断し、次の十字路を左折して砂原大橋を渡る。

右から合流する道と共に県道に出る。

その先、県道を挟んでその南側と北側に残る短い旧道を縫いながら西に進んでいくと畑口橋信号に至る。ここが津和野岐れで、直進する県道30号が津和野街道、ここを左折するのが旧山陽道である。分岐点に夜泣き石と呼ばれる自然石があり「南無阿弥陀仏」と刻まれている。江戸時代この石から毎夜赤ちゃんの泣き声が聞こえてきたので、南無阿弥陀仏と彫って供養したところ泣き声は聞こえなくなったという。この石は道標にもなっていて「石州道」「九州道」と刻まれていて津和野街道と山陽道の方向を示しているらしいが、とても読めるものではなかった。

旧道は山陽自動車道を潜り、坂を上っていくとやがて四郎峠にさしかかる。右手に小さい村境碑があり「宮内 大野 村境」と刻まれている。「四郎」という名前は「大野五郎」とよぶ5人の兄弟の4番目で推古天皇の頃、天皇の命令で大野村に下って来て、田畑を開いたという伝説による。この先でその大野村を通っていく。

坂をくだり敬愛病院の先で広島岩国道路を潜りの高架下を通る。

中山集落にはいって右手に疣(いぼ)観音堂と今川貞世歌碑が並んである。今川貞世(了俊)は、応安4年(1371)足利義満から九州探題に任ぜられ、その任地に赴く途次ここ中山を通過したときのことを紀行文「道ゆきぶり」に記している。

「とにかくにしらぬ命をおもうかな わが身いそぢにおおの中山 むかしたれかげにもせんとまくしいの おおの中山 かくしげるらん」と刻まれている。

旧道はここで右折して戸石川橋を渡り、左折して川沿いに進む。

左手に中山一里塚跡があり、ガードレールの後ろに「史跡一里塚跡」の石標と、「塚の松跡」と題した立札がある。

大野集落の家並みに入ってくる。「十郎原」と題する立札があり、「伝説「大野五郎」の五人兄弟のうち末弟十郎が開墾したところとして十郎原の名が残っています。」と記されている。

推古天皇が使わした5人兄弟とは太郎、次郎、三郎、四郎、十郎の5人である。それぞれが近辺の土地を開墾し農業を起こした。四郎峠地域は4男の担当区域であった。

道は右からくる車道と合流する。左にいくと東大野小学校や中学校がある。合流点を直進する方向に民家の軒先を通る細道がある。私道のような道が旧山陽道である。数軒の脇を通り抜けると高見川を渡って山裾の道が続いている。

右手に稲荷神社がある。広島岩国道路のトンネルを右手にみて二股を右の土道に進むと右手に三槍社がある。番号⑩の立札には「大頭神社4末社のうちの一つ祭神葉山祇尊」とある。

「⑨土井貝塚跡」の案内札を過ぎ、右手の空き地前に「⑧大野次郎宅跡」の立札があり、大野五郎伝説が記されている。いかにも前の空地が1400年前の屋敷跡地を想像させ、古代情緒あふれる道である。

「推古天皇(593~628年)の時代、勅命で、太郎、次郎、三郎、四郎、十郎という五人の兄弟が大野村に降り、田畑を開いて農業を始めました。 総領の次郎は土井、兄の太郎は鳴川、弟三郎は原、四郎は中山、十郎は鯛の原を夫々開墾したと伝えられています。四郎峠・十郎原という地名が現存しています。また、この付近は総領次郎の屋敷が有ったと伝えられる所です。この伝説は大頭神社縁起書に伝わるものですが、中世に土井付近に豪族屋敷があったことに関して作られたと考えられています。」

その先、右手石段の上に新宮神社がある。「⑦新宮神社」の立札に「伝説「大野五郎」の五人兄弟のうち総領の次郎をまつった社で地元では「新宮さん」と呼び崇拝しております。」とある。

土道から車道に出て、左手に⑥古代山陽道の高庭(たかば)駅家跡・濃唹(のう)駅家跡があり、山上憶良の歌碑が建てられている。

「出でて行きし日を数へつつ 今日今日と 吾を待たすらむ 父母らはも」

肥後国の18歳の青年が都にのぼる途中病気にかかりここで亡くなった。その話を伝え聞いた山上憶良が本人に代わってその心持を歌ったものである。

なお、駅家の名が2つ記されているが、「高庭」が古く、平安時代になって「濃唹」に改称した。

家並みからすこし遠ざかって林間の道に入る。「⑤高畑東貝塚跡」が出てきてすぐ先に「④高畑貝塚跡」が続く。あと3つ何かありそうだ。

林の中に入り込む道があり入口に「③高畑ため池」の立札がある。「文政8年(1825)編さんの広島藩の地誌「芸藩通志」に載っている大野で最も古い灌漑溜池であります。」池には寄らなかった。

歴史の道が終わる手前に「②陣場」がある。「この付近を陣場といいます。慶応2(1866)年長州征伐のとき幕府軍が検問所を設けていたところです。前方の平地を筏津といい、古代は海の入り江でありました。」

広い車道に出る。はて歴史の道散歩①はなんだったろう。見逃したのかな。

新幹線の高架下を潜って反対側の車道に出、すぐ左斜めに延びている旧道に入る。

川を渡って道なりに進み滝の下信号で県道を横断する。

右手大野中学を通り過ぎて次の大野西小学校前信号交差点の右手角に、「右宮島廣島道」「左 宮内 妹背瀧道」と刻まれた道標がある。妹背瀧はこの地域の名所になっているが、街道から1kmほど離れているので寄らなかった。紅葉の時期は綺麗であろう。

JR大野浦駅前に「史跡一里塚」碑と、今川貞世歌碑がある。歌は応安4年(1371)九州探題として任地に下る時詠まれたもの。「大野浦」駅の名はこれに由来する。

 おおのうらをこれかととえば やまなしのかたえのもみじ 色に出でつつ

ここで大野浦駅から山陽本線で二駅もどって宮島口で降りる。世界遺産宮島を訪ねるためである。その訪問記は末尾に記す。

旧街道は大野浦駅の先の二股を右に直進して、細い上り道を行く。本覚院の前で広い車道に出て左折、150mほど行くと再び左手の細道に入り、400mほどで向原バス停に出る。途中に大野町教育員会の立札があって、向原の石畳があったのだが保存のためその上をアスファルトで固めたという。通行止めにしない限り保存しようとすればこの方法しかないか。

バス停の右側に細い山道が出ていて、傍に「古代山陽道の史跡」の説明板がある。古代山陽道は、四十八坂と呼ばれるこの付近の山裾を通り、鳴川を通過して大竹市に続いていた。山道に入るとまもなく川の手前で二手に分かれる。鳴川の石畳は石橋を渡って左に続いていた。わずかに100mばかりの古道である。こちらは誰も通らないから現存できた。

石畳道が終わって舗装道に出て右折するが、この道もまもなく途切れ、貯水槽のそばに今川貞世の歌碑があった。

 波の上に 藻塩焼くかと 見えつるは あまの小舟に たく火なりけり

道の左側に海を見渡せる場所があって、「宮浜温泉 海望の源泉地」の碑が設置されている。今川貞世の歌にあるように確かに瀬戸内の海が展望でき、宮島が大きく見えた。

貯水槽の横にのびる細い道をたどっていくと広島岩国道路の高架前に出た。標識があって「残念社(西国街道)←700m」「トレッキングコース経小屋コーススタート地点→300m」とある。残念社に向けて左の道を取る。

広島岩国道路の南側に沿った舗装道を少し行くと右手に高架トンネルが見える。高架手前の空き地で一人キャンプチェアに座ってサックスを磨いている老人がいた。無言でそばをすり抜けトンネルをくぐる。自動車道の北側に出て左折。気持ち良い山道をいくと側道は途絶、右手の山道入口は金網で塞がれ、下に小さな赤鳥居が置かれている。不法投棄の防止には鳥居を置くのが有効だそうだ。金網の横から山道に進入する。

ここから傾斜が急な本格的な山道にかわる。足元はかなりでこぼこの多い道である。ほどなくダムの下流をよこぎって鳥居のある残念社の前に来た。慶応2年(1866)丹後宮津藩士の依田伴蔵が幕府軍の軍使として和睦交渉に向かう途中、長州軍に戦闘員と間違えられて狙撃された。伴蔵は「残念」と言い残して死んだ。後に長州軍は遺憾の意を表し村人がこれを哀れんで祠を建てて祀った。四十八坂と呼ばれるこのあたり一帯は第二次長州戦争で幕府軍が大敗した古戦場である。

羊歯が足元に迫る石道を上がると峠の広場に出る。「歴史の散歩道 西国街道」の標識と中央に「従是大岩見透線境」と刻んだ石標が立つ。右に登り坂が出ていて道の中央に大石が、左側に説明板が2本、右側に「依田神社」の標識が見える。峠にある石標はこの場所を示したものか。依田神社は修復のため鳥居もろとも撤去してある。

この大石が吉田松蔭腰掛けの石と呼ばれ、安政6年(1859)5月江戸へ護送されたときここを通ったという。この岩に腰かけて故郷と父母を思うと同時に、広島、山口、大島(愛媛県)の三県が見渡せると感動した場所であるという。吉田松蔭はその年の10月、江戸伝馬町牢屋敷にて処刑された。

峠から「西国街道(歴史の散歩道)」と書かれた標柱を頼りに道なりに下っていく。やがて風情ある竹林を通り抜けて車道に下りる。山道の出口に「残念社(西国街道)→」の標識が立つ。車道の右側には福地農園の門があって通行止めになっていた。左折して坂を下って行く。

突当りを右折、道なりに広島岩国道路を潜って南に下って行く。左手鳴川保育園の前に「西国街道(歴史の散歩道)」の大きな地図がある。右手は白壁塀が美しい邸宅だ。前方に瀬戸内の海を眺めながら坂道を下り、鳴川バス停の所を道なりに右に曲り、三叉路を「区民ふれあい道路(西国街道)」の標識に従って直進する。

その先の十字路を直進し民家の軒下を抜けて川を渡る。この川が廿日市市大野と大竹市玖波の境界である。

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玖波 

橋を渡って民家の前庭をすり抜けていくとその奥から細い道が山中に延びている。山道はすぐに古びた石畳の道となる。鳴川の石畳とよばれる。左手に「史跡西国街道跡」と題した詳しい案内板がある。石畳は鉾ノ峠(たお)に達する。
この辺りに鉾ノ一里塚があった。

石畳が終わっても山道は続く。やがて前方に2本の線路を見下ろす明るみに出た。山陽本線の短いトンネル出口の真上だ。そこから藪道をたどって民家の手前まで来た。足元の傾斜がきつく山側に体を傾けてあるく。下に車道があるのにフェンスがあって下りることができない。フェンスンに沿って民家の脇に下りて海辺の国道2号に出る。この辺りが唐船浜なのだろう。

小さな橋を渡ると、旧道は国道を左に分けて短い玖波隧道をくぐる。昔はこの上が「馬ためし峠」とよばれる難所だった。

玖波宿に入って行く。

右手に白壁がまぶしい長岡酒造がある。
玖波宿は、長州戦争によりそのほとんどを焼失したといわれるが、白壁に出格子造りのうだつを付けた家並みが旧宿場町の面影を残している。特に街道の左手(海側)にそのような町屋風建物が多かった。


そのほぼ中間あたりの十字路角が
高札場跡で、玉垣で囲まれた祠の裏に角屋釣井(かどやつるい)と呼ばれる共同井戸が残されている。井戸はコンクリートで蓋がされ、ポンプが取り付けられている。今も現役の井戸のようだ。

次の十字路の左手に玖波宿本陣があった。本陣は寛永9年(1632)以降、本陣役新屋(平田)半左衛門宅の整備普請というかたちですすめられた。その規模は、間口21間(38m)、奥行16間(29m)からなる約340坪の敷地に、平田家居宅の8室に加えて本陣用の7室を合わせた115坪の建物が建てられていた。長州戦争で悉く焼失した。

旧道はこの十字路を右折して山陽本線のガードをくぐっていくのだが、十字路を越えたすぐ左手にも古い佇まいの商家がのこっている。小城材木店で、漆喰のうだつを付けた二階と、板壁出格子造りの一階が上品な佇まいである。高札場付近の家並みと共にこれらは長州戦争後に再建された明治時代の建物であろう。

本陣跡の先を右折して、山陽本線のガードをくぐる。

恵川を川木橋で渡る。この先宅地開発で旧道は失われている。左に迂回して広島岩国道路の高架下の車道に出る。左手に玖波中学校をみながら湯舟団地口信号交差点を渡った先で道なりに左にカーブし、大膳川を黒川橋で渡る。その先黒川2丁目信号を左折して、上河内第3踏切を渡り、国道2号の手前を右折する。

黒川から曲尺手をすぎると小方の集落である。虫籠窓やうだつを備え美しい格子造りの町屋など、風情ある町並みである。小方は江戸初期に福島正則によって亀居城が築かれ、その家中町として起こり、後には山陽道の間宿的な役割も生じて、大きな町場として発展した。

庄屋を務めた和田家は玖波宿の脇本陣の役割を務め、玖波宿だけで対応しきれないときは小方の民家78軒が宿泊所に指定された。間宿でなく相宿というべきであろう。和田家の長屋門があるとのことだったが見かけなかった。

家並みが尽き、国道手前で右折する手前、右手崖下に芭蕉句碑があった。小方集落の中程から移設された模様である。大きな自然石で、けごろもの句碑と呼ばれている。

氅につゝみて ぬくし 鴨の足  者世越

右に曲がって崖下に沿って進む。むかしはここまで海が迫っていた。

山陽本線のガードをくぐって左折し新町川に突き当たる。右折して新町川沿いを北上する。広島岩国道路の手前で左折して川を渡り、右折して自動車道の西側にで出、左折して苦の坂に向かう。

このあたりに小方一里塚があったというが分からず。自動車道建設のための取り付け道路に見える緩やかな坂道を上って行くと右手に橋姫神社がある。由緒は不詳。山陽自動車道の建設のため旧西国街道一の坪馬ころ橋下から移設したという。一の坪がどこかわからない。

自動車道の東側から上がってきた取り付け道路との合流点に大きな地図入りの「歴史の散歩道(案内)」が立っている。鳴川石畳から木野川渡しまで大竹市が旧山陽道を整備したものである。

道はその先で「全面通行止」となる。ここが旧道、苦の坂入り口にあたる。右手崖面に架設階段が設けられていて旧道に入ることができる。草深い草道のあとは見事な竹林に入る。足元は竹の枯葉に覆われて滑りやすい。

右手にコンクリート製の祠のような窪みがあり、上部に「〒」が記されている。まさか無人郵便局ではあるまいし、後日調べてみると「装荷用ケーブルハット」といい、昭和の初めに東京から続いた「長距離市外電話」ケーブルの中継基地であることが分かった。全国でも数個しか残っていない珍しい産業遺跡だそうだ。

まもなく苦の坂峠に出る。説明板があるほか、石碑等はない。竹林の中の明るい峠である。

推古天皇時代(600年ころ)厳島神社の祭神である市杵嶋姫命が筑紫から安芸へ移るとき二歳の嬰児をつれてこの坂に差し掛かった。あまりの急坂で「えらや苦しやこの苦の坂は 金のちきりも要らぬものを」と呟かれ、大切に持っていたちきり(機織りの縦糸を巻く道具)を投げられたら、麓の池に飛んで行った。それ以来人々は、この坂を「苦の坂」と呼び、その池を「滕池」と呼ぶようになったという。後に「滕池」を埋めてその上に社を建て、市杵島姫命を祭神(池に埋まった滕を御神体として祀った。

下り坂も快適な山道である。出口に近づくにつれ草深くなって、やがて県道1号に出た。

出口手前の右奥に滕池(ちきりいけ)神社がある。苦の坂の案内板にあったように市杵嶋姫命を祭神として祀った神社である。右側石垣の一部から汐水が湧くという。それが旧暦の6月17日に行われる厳島神社の管弦祭の夜に起こるというから神秘である。

出口に「史跡長州の戦跡「苦の坂」」と題した説明板がある。 慶応2年(1866)6月14日、長州軍遊撃隊と幕府軍がこの坂をめぐって白兵戦を演じ、長州軍が勝利した。幕府軍は逃げ遅れた多くの兵を残して船で遁走した。

県道合流点から400mほど行った左手、ガードレールと民家の石垣の間に太閤の振舞い井戸がある。太閤秀吉が朝鮮出兵で佐賀県唐津に築いた名護屋からの帰途、村人がこの水でお茶を点てて差し出したところ大変喜んだという。地元では「つぼかわの井戸」とよんで今でも共同井戸として利用されている。

広島県・山口県を繋ぐ両国橋から10mほど進んだ所で、左に二本の道が出ている。県道に対しほぼ直角に出ているのが旧道である。町並みにはいって左に出ている最初の路地をはいると山裾に建つ白壁の民家に突当たる。津屋本陣跡(児玉氏宅)で、左手奥まったところに本陣門が保存されている。大名の休息所や川止めの時の宿泊施設として使われた。天璋院篤姫も江戸城へ向かう途中この津屋本陣で休息している。

旧道にもどり、南東の方向に歩いて行く。木野川の蛇行部分を短絡するように造られた400mばかりの旧道は落ち着いた雰囲気の中に古い町屋や旅籠の風情を残す建物が建ち並ぶ素晴らしい町並みを形作っている。白壁土蔵、虫籠窓に連子格子の町屋などが、渡し場を控えた宿場として賑わい造り酒屋もあったという昔の木野の面影を品よく保っている。

川沿いの車道に出て堤防の道を両国橋方面に戻る。300mほど川を眺めながら歩いて行くと広い河川敷の前に「木野川渡し」「小瀬川の史蹟」という絵入りの案内板が立っていた。周防小瀬村と安芸木野村の間を流れる国境の川は木野村では木野川とよび、小瀬村では小瀬川(正式名称)と呼んでいた。この一対の案内板が示すように必ずしも使い分けは厳格でないようだ。

河川敷の奥に方形のコンクリート枠に石が敷き詰められている。「ごじんじ」とよばれる駕籠置き場が復元されたものである。呼称の由来は元々街道の駕籠立場として「御陣地」であったことによるらしい。

河辺に下りてみると石畳の細道と土手側に石組の遺構が残っている。木野川は洪水が起こるたびに川の流れが変わる荒れ川であった。その治水対策として流れを弱める三角形の石組やまき石護岸が築かれた。

大きく川の蛇行に沿って右に曲がった辺り、道の左手に「木野川渡し場跡」の標石が、右手には「市指定史跡旧山陽道木野川渡し場入口」の標石が建てられている。少々重複気味の感を免れない。

木野川渡しは、と小瀬村(周防)から出された渡し守が二人一組で昼夜交替して行った。渡し賃は江戸中期で、武士階級が無料、その他の者は一人2文、牛馬が一頭4文であったという。

両国橋で木野川(小瀬川)を渡る。真中が山口県と広島県の県境である。一車線の幅しかなく、すぐ上流に新橋が架けられつつある。

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宮島 

大野浦駅から二駅広島方面にもどった宮島口からフェリーで約15分、宮島のフェリーターミナルに着く。海沿いに平清盛の銅像と日本三景碑が建つ。天橋立、松島とならぶ日本随一の名勝地である。

厳島神社は、瀬戸内海の自然を代表する天然記念物「弥山(みせん)原始林」を頂く宮島の島全体を神体として、6世紀ころに創建されたと伝えられている。

保元の乱・平治の乱を経て武士の第一人者となり1167年には太政大臣に昇りつめた平清盛(1118年~1181年)は翌年の1168年、海上に浮かぶ寝殿造り様の社殿という独創的な神社建築を完成させた。清盛がいつどのようにして厳島神社を信仰するようになったかは明らかではないが、1146年と1153年に安芸守に任じられ、1160年には厳島神社に参詣している。 以後、清盛の厳島参詣は記録に明らかなものだけでも10度に及び、1164年清盛と平氏一門は法華経などを書写して厳島神社に奉納した。

土産店や蠣、あなご料理などを名物とする飲食店が軒を連ねる表参道商店街(通称清盛通り)を通り抜けると海中に建つ大鳥居が間近に見られるスポットに出る。大勢の観光客の祝福を受けて人力車に乗った一組の新婚夫婦が人ごみをかき分けていった。

鮮やかな朱色に塗りこまれた社殿に入る。どこからでも姿がよい朱色の五重塔がアングルを変えて見えるように設計されている。

回廊の中間あたりに設けられた手洗い所だけが黒っぽかった。

社殿の中央に位置する平舞台、高舞台から眺める大鳥居は格別に美しい。

周囲の海や山と見事なまでに調和した厳島神社の美しさと、その多彩な歴史は他に類例を見ないものである。大鳥居の立つ海と背後の弥山原始林や都市公園を包含する地域は1996年12月7日「厳島神社」として世界遺産に登録された。

一方通行になっている社殿の回廊を出た所の商店街に、古い町屋を利用した宮島歴史民俗資料館がある。江戸時代末期から明治にかけて豪商といわれた旧江上家の母屋と土蔵の一部が保存されている。

社殿を左にみながら陸地の道を戻る。

五重塔、千畳閣とよばれる豊国神社を見て再び商店街を通り抜ける。2個400円のやき蠣を喰って紅葉饅頭とあなごちくわを買った。半日あれば十分楽しめる観光地である。


(2015年3月)

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