山陽道(西国街道)5



神辺-今津尾道三原本郷田万里

いこいの広場
日本紀行
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神辺  

県境から国道313号に並行してのどかな旧道を行く。地名は上御陵という。「御領」とは平安時代の荘園に由来する。このあたり古い土地柄である。

県境より1km余り行った十字路の手前に一里塚がある。左手には塚跡の石碑と菅茶山(かんちゃざん)の詩碑がある。菅茶山(1748~1827)は神辺宿の東本陣(酒造業)に生まれ、京都で朱子学を学び神辺に塾を開いた儒学者である。

詩碑には「高屋途中」と題する漢詩が刻まれている。

山雲半駁漏斜陽 堠樹蕭條十月霜 野店留人勧蕎麺 一籃銀縷出甑香

出雲半駁斜陽を漏らす 堠樹蕭条にして十月の霜 野店人を留めて蕎麦を勤む 一藍の銀縷甑を出でて香し

山雲がまだらにかかり雲間をもれた夕陽がさす。一里塚の樹も十月の霜にいためられ、すっかりさびれてしまった。その傍らの野店が旅人を呼び止めてそばを勧めている。甑の中から取り出した小さなざるの中のそばは銀糸に似てうまそうだ。

右手にも新しい一里塚跡碑と傍に四ツ堂がある。四ツ堂という名の由来は知らないが四方吹き抜けのお堂である。初代福山藩主水野勝成が建てたもので、旅人の休息、一夜の宿泊の場として、また地元住民の集会所に使われたという。敷地内には多数の地蔵が祀られている。

十字路をこえた右手に宗重池があり、対岸の民家を水面に映して美しい風景を現出している。原風景といってもいいであろう。左手には地神碑と「琴平宮」の自然石常夜燈が立っている。

旧道はこの先二つ目の十字路を左折して国道313号に出、すぐに反対側に続く旧道に入る。短い旧道だが家並みの半ば左手に祠があり、「法界」と刻んだ石塔と、半跏思惟の石仏が納められている。

道は「御領中組」バス停で国道313号を斜めに渡って元の北側に戻る。

すぐ先の十字路角に馬頭観音などの石塔群がある。一番手前の大きい石碑には外ケ島弥五郎と刻まれている。弥五郎は上御領下組に生まれた相撲力士であったが寛政9年(1797)、巡業中にあっけなく亡くなってしまった。60年後の安政4(1857)年に八丈谷で弥五郎の追善相撲大会が開かれた時に、その名を刻んだ碑が建てられた。角に道標があり、正面に「八丈岩」、左面には「←従是北各八丁」とある。八丈岩はここより北に1.2kmほど行ったところ、標高234mの御領山頂にあり、鬼伝説が伝わる。

400mほど先の丁字路角に安政5年(1858)の立派な常夜燈があり前に「御領大石登山道入口」の標識が立つ。大石とは八丈岩のこと。

道は右に大きく曲がって上御領から下御領に入る。

左手に長屋門をかまえ土塀をめぐらせた大きな農家が建つ。暖色の土壁色も原風景の一つである。

道はその先二又になって旧山陽道は左斜めに折れるが真っ直ぐな道を進んで八幡宮と国分寺に寄っていく。

下御領八幡神社の境内に文政10(1827)年の道標二基が保存されている。元は国分寺の入口にあったものだ。

高い方には「左九州をうく者ん 右石州ぎんざん道」、やや低い石柱には「右かさおか近道 左かみがた道」と刻まれている。「をうく者ん」には「をうくはん」「をうくわん」と読む説もあるがいずれもその意味については不明。「往還」のことか。

八幡神社のすぐ先が備中国分寺である。現在の本堂は元禄8年(1694)に福山城主水野勝種によって再建されたものと伝えられている。

往時の面影をとどめるクロマツ並木の参道を入口の方に逆行する。創建当時は現在の参道を中心に約180m四方の土塀に囲まれた広大な寺域があった。参道をはさんで西側に講堂金堂が並び、東側に塔跡を示す石票が設けられている。車道に面する参道入口に南大門があった。

そこは6差路になっており東西に走る広い車道(県道181号)が古代山陽道で、西に向かって駅家町(品治駅家比定地)を経て府中に通じていた。県道をすこし西にたどり堂々川から堤防下の集落に消えていく古代山陽道をながめると、府中まで行ってみたい衝動に駆られた。あのあたり(小山池南側)に安那駅家があった。

近世山陽道は長屋門の先の二股を左斜めにとって真直ぐこの六差路を越えてそのまま細道に入っていく。堂々川の堤防に上がって南に向かい湯野口信号で国道313号に合流、井原鉄道の高架下をくぐって高屋川の手前で右の旧道に入って川の右岸に移る。

500mほど堤防を歩いて橋本橋で高屋川を渡り、古市に入る。神辺宿を構成する三日市・七日市・十日市の三歳市が成立する以前、この場所で市が開かれていた。

右にカーブした先右手、古市公民館の前に荒神社の鳥居が建つ。街道沿いの石垣の内側に小祠と船石と共に「一里塚跡」と書かれた標柱がある。平野一里塚跡である。

高屋川堤防に上がる道との二股にさしかかる。直進する旧山陽道の両側に石垣が築かれ、その中央に二本の縦筋の溝が掘られている。この石垣は東の平野村と西の河北村の境をなし、高屋川の増水時には溝に板を渡し、その間に土嚢を詰め込んで水が河北村(=神辺宿場町)に流れ込むのを防いだ。平野村にとっては迷惑施設であり川北村との間で長く争いが絶えなかったという。

水堰から神辺宿に入り、にわかに格子や白壁造りの家並みが見られるようになる。神辺宿は、川北村の七日市、三日市と、川南村の十日市から成っており、七日市に東本陣、三日市に西本陣があった。

右手、古い門から野菜畑と旧家が覗かれる。廉塾(れんじゅく)と菅茶山の旧宅跡である。菅茶山(1748~1827)は宿場町神辺の東本陣(酒造業)に生まれ、京都で朱子学を学び天明元年(1781)、神辺に私塾「黄葉夕陽村舎」を開いた。全国から学生が集まり塾はのちに福山藩の郷校となり、「神辺学問所」とも「廉塾」とも呼ばれるようになった。また、菅茶山は「当世随一の詩人」ともいわれた漢詩人で、多くの文人が廉塾に立ち寄り、神辺に文化の華を開かせた。

門内には野菜畑があり左手奥にある養魚池には「廉塾養魚池 政酉杪冬為」「寛政酉年(1789)」と刻む石標がある。奥に佇む旧宅は開放されておらず外から様子をうかがう他ない。

その隣は慶応元年(1865)創業の老舗和菓子店谷口屋がある。茶山饅頭が名物と聞いて5個買った。3個食べないと食べた気がしないほど上品である。

丁字路右手の一角に七日市荒神社があり狭い境内に胡子社と地神がある。その道向かいに菅茶山の生家である神辺宿東本陣があった、東本陣は七日市の本荘屋菅波家が勤めていた。文化6年には伊能忠敬が泊まったという。建物は焼失し、残っていた大きな門も平成10年に壊され現在は跡地を示す札が掛けられているだけである。

右手の酒屋天寶一は明治43年(1910)創業の蔵元で、黒漆喰の門塀に土壁町屋造り店舗など、当時の建物が健在である。前に「小早川文吾旧宅跡」と書かれた標柱がある。茶山の門化生で茶山没後に塾を開いたという。

その先右手の千本格子が美しい民家の先には「旧山陽道神辺駅 太閤屋敷あと」の石標がある。豊臣秀吉が朝鮮の役の帰路、ここに立ち寄った館の跡だという。

突き当りの今も正方形の地形が残る枡形を経て七日市から三日市に入る。

右手に西本陣の豪壮な屋敷が現存している。尾道屋菅波家で、七日市の本荘屋菅波家が東本陣と呼ばれたのに対し、西本陣と呼ばれていた。代々酒造業を営み、寛文年間に筑前黒田家の本陣役を勤めたことに始まるという。

本瓦葺きの門に裾に海鼠模様をあしらった黒塀が続く。店は低い二階建ての町屋造りで繊細な出格子が趣を添える。馬つなぎの鉄輪も残り屋根には黒田家の家紋である藤巴紋が見られる。部屋数27、畳200畳からなる延享3年(1746)建築の母屋をはじめ、6棟の土蔵など、施設の大部分が現存し、広島県重要文化財に指定されている。札の間には
「松平備前守宿」「松平筑前守宿」と書かれた宿札が天井いっぱいに掲げられていて、黒田家以外の大名の名が見あたらない。筑前福岡藩主黒田家を備前守と称するのは黒田家が備前福岡に十数年住んだことに由来する。備前の福岡は筑前福岡の故郷である。

本陣の向かいが福山藩のお茶屋屋敷跡だが遺構は何もない。

白壁、うだつ、海鼠壁、格子、駒寄など、三日市通りの家並みは、神辺宿の面影をふんだんに留めている。


道は広島銀行に突き当たって左折し、川北から川南に移る。宿場は十日市となる。

左折した右手の海鼠壁黒漆喰の蔵造りは菅波歯科医院で、重厚な建物である。特に二階の壁には長円形の大きな窓を切り、海鼠模様も単なる菱形でなくて繊細な意匠を凝らしている。ここの菅波家は本荘系か尾道系か。

十日市の町並みは最初の数軒の建物を除いては七日、三日市に比べて単調で新しい。左に光蓮寺をみて、右手神辺駅前で国道313号に合流し、神辺宿を後にする。

すぐ先で右に曲がっていく国道と分かれて直進する旧道に入る。道は細くなって右にカーブして左手の池の下の道を行く。先で旧道は国道182号によって分断されているため右に迂回して国道313号で陸橋をくぐってからゴルフ練習場の前を通る旧道にもどるが、すぐに国道313号に合流する。この間の短い旧道は端折って迂回した神辺第一陸橋東信号から国道313号をそのまま進んで来ても失うものはない。

街道はJR福塩線に沿って進み、鶴ヶ橋南詰信号交差点で国道313号と分かれ、JR福塩線の踏切をこえて橋を渡る。踏切の手前左隅に「出雲大社道」と深く刻んだ道標が2基並んでいる。古い方は文久3年(1863)の建立である。新しい複製がなぜ並んでいるのかしらない。

鶴ヶ橋を渡るまえに横尾の町をのぞいてみた。

橋の袂に建つのは醤油醸造元鞆屋商店で、海鼠壁の土蔵が立ち並ぶ。

橋から離れる道沿いにも古い魅力的な家並みが続いていて、神辺宿三日市に遜色ない。

和風門構えの後ろに見せるレトロな洋館は池田歯科医院である。

広い間口を駒寄で囲んだ旧家は見事な格子造りである。 

二階の壁に虫籠窓を設けた町屋風の家が軒を並べている。

その先はなつかしい現役の畳屋である。「諸家御用達」の紺暖簾が誇らしげであった。


横尾町の散策を切り上げて鶴ヶ橋を渡る。新茶屋信号を左折し中津原集落を通り抜ける。

途中右手に地神と地蔵堂がある。

千鶴幼稚園の先を右に入って行くと芦田川に突き当たる。堤防にあがると河川敷にグラウンドが整備されている。このあたりに昔舟渡し場があって、対岸に渡っていた。

堤防道を歩いて大渡橋で芦田川を渡り、御幸町から郷分町に入る。

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今津 

大渡橋を渡って右折し堤防下の道を行くと右手に延享4年(1747)建立の大きな題目石がある。左手には道標があるが摩耗が激しく読めない。集落入口の民家庭先に注連縄をつけた地神がある。この辺りの芦田川岸が舟渡し場であったのだろう。旧道はこの集落を抜けて南に向かっていたと思われる。

大渡橋西詰で県道391号を潜って旧道を行く。その先二股で、集落を縫っていく山裾の道と、川に沿った堤防(県道378号)、またはその下の道に分かれる。いずれが旧道であるか悩んだすえ、前者をいくことにした。とはいえ結局どこかで県道378号に戻ることになるのだが。

道が蛇行する曲がり角左手に地神がある。

山陽自動車道の手前に天保8年(1837)の自然石の金毘羅大権現常夜燈が立つ。笠の一部が壊れたのか、その部分に小さな瓦礫が積まれている。肌合いが独特で趣がある。

山陽自動車道を潜った先、川に近づいたところで県道に出た。まもなく三本松バス停で県道は川を離れて南西方向に向かう。

福川に架かる山郷橋を渡ると右手に「見守地蔵 祈念往来無事」と書かれた標柱が建っている。左右に石の小祠をしたがえた中央の新しい地蔵が見守り地蔵であろう。

山手町江良信号左手に大きな榎木がそびえ、「山陽道一里塚跡」の立札と、そばに道標を兼ねた標石がある。「一里塚の榎木 右の道 赤坂 松永 方面 中の道 福山 市街 方面 左の道 神辺 井原 方面」と記してある。左右の道が山陽道である。

左手に湯傳稲荷神社がある。神社の前の江良坊会館は板壁、兜屋根の雰囲気がある建物だ。

天井川の小田川を渡って細い道が続く。左手田圃に倒れそうに傾いたコンクリートの祠に数体の石仏が納められていて脇に「旧一本松跡」の石標がある。松くい虫によって、昭和60年に伐採されたそうだ。

山手町から津之郷町に入る。昔はこの辺りまで海が入りこんでいた。

橋の手前、谷尻バス停の横に三基の大きな石塔が並んでいる。地神、石仏、その隣は墓らしい。

新幹線高架下をくぐった先の橋の袂、坂部バス停脇にも大きな石碑がある。右が「昭湖墓」、中央が「地主大神」、左の石祠には地蔵が窮屈そうに座っていた。

真直ぐな道は山陽本線に接近して右に曲がりながら落ち着いた家並みが続く赤坂の集落に入って行く。

五差路左手に天保3年(1832)の金比羅大権現常夜燈がある。右に折れると八幡神社への参道がある。

赤坂町から神村町に入ってまもなく右手に大きな金比羅神社常夜燈がある。明治25年建立と比較的新しい。この地域には金毘羅常夜燈を多くかける。それもすべてが自然石を荒削りしたような素朴な造形で、石が赤みがかった温かい色である。昔はこのあたりが海岸線で、塩田が広がっていた土地柄である。金毘羅信仰が浸透していたのであろう。

一車線幅の狭い街道はやがて国道2号に合流する。

300mほど先、神村小学校入口バス停で右斜前に入って行く短い旧道が残っている。再び国道2号に合流したすぐ先、左手の和田西踏切前に道標がある。「北 南松永町へ」「東 西尾道市」「西 東福山市へ」「南 御大典記念」とわかりやすい文字で刻まれている。

福山西署入口で再び国道2号を左に分け、右斜めに入って行く。羽原川を渡って赤壁交差点で一旦国道へ出て、松永駅入口を過ぎ、バスセンター前交差点から再び右斜めの旧道に入り、本郷川を吾妻橋で渡って今津宿へと入って行く。

松永は製塩業と下駄の生産で知られている。福山藩士本庄重政が寛文7(1667)年7年の歳月をかけて塩田を完成し、福山藩繁栄の基礎を築いた。明治になって製塩用の薪材から下駄作りをはじめ、日本一の産地となった。駅の南側に珍しい履物博物館があるようだが、寄らなかった。

今津宿に入ってすぐ右手に薬師寺がある。巨大な波板のような舗装坂を登ると立派な山門がある。坂は石段であったものを車で登れるようにコンクリートを流したのであろう。ところどころの踊り場は両側の民家の駐車場に連結している。

薬師寺は弘法大師により大同2年(807)蓮華寺と共に創建された。境内には円形の芭蕉句碑があり、「今日ばかり ひとも年よれ はつしぐれ」とある。詠まれた場所なり人なりのつながりがなければまったく興味がわいてこない。境内から今津町の町並みが展望できる。

JA福山市今津の先、右手に少し入った所に今津宿本陣跡がある。庄屋河本家が代々世襲した。明治4年の百姓一揆で屋敷は焼き払われたが、表門と塀、石垣は残って当時の面影を伝えている。

右に弧をえがく場所を左に入って行くと国道の北側に接して延喜式内社髙諸(たかもろ)神社がある。新羅王子伝説の地で、須佐之男命と劔比古神(つるぎひこのみこと)を祀り、劔大明神ともいう。

街道に戻ると、右手に蓮華寺がある。白鳳年間、高諸神社の創建者である庄司田盛の菩提寺として建立された。明治まで高諸神社の別当寺を務めた。江戸時代には今津宿の脇本陣も勤めており、上段の間が現存しているという。

その先右手に「陰陽石宮」という小さな神社がある。備陽六郡志に「街道より北、田の中にあり。陰石は西にありて、陽石東の方に相臨めり。天地自然の造物、本朝無類の名石なり」とあるという。神体は祠に納められていて見ることができない。常識として陰陽石とは男根と女陰に似た自然石をいう。日本の各地に見られるもので、わざわざ隠すほどの物でない。境内には女性生殖器病に効くという効能書きもあった。どことなくもったいぶって胡散臭い神社だ。

街道は今津宿を出て藤井川に架かる真田橋を渡り、福山市から尾道市に入る。

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尾道 

旧山陽道は国道2号に合流してすぐに右の旧道に入っていく。山裾の道に入ってまもなく、右手に「恋の水」の石碑と祠がある。碑に伊勢音頭が引用されているが、伊勢はここから随分遠い。これから向かおうとしている防地の向こうに伊勢でもあるのか。

暫くいくと今度は「掘出地蔵」がある。祠の中に武士のような板目の木像と、両側に摩耗した石仏がある。地中から出土したとすれば石仏であろう。説明板がなくわからない。

道は二股になり、右手の険しい崖下に「右ちかみち」の道標が立っている。道標に従って、坂道を上って行く。左手に「高須一里塚跡」があるとのことだったが見落としたようだ。

結局200mほど行って車道に戻り、さらに200mほどで今度は左側の細道に入る。集落のなかほどにお堂と石仏があり、旧道であることを教えてくれた。

川を渡って高須インター南信号に出る。左手の高台に
地蔵堂が孤立している。

信号を左折して国道317号の下をくぐりながら国道2号に沿って南に進むと右手に池が見えてくる。道は二つの池の間を右に行く。堤防上には徳本上人の「南無阿弥陀仏」の題目碑と左右に二つの石仏が立っている。道はその先、尾道バイパスの下をくぐって防地峠に向かう。

途中、右に山道が出ていて、そこを歩いていった。短い坂を上って峠を越し民家の脇を下りて車道に戻った。これが旧峠のように思えるが、そうではないようだ。もう一息舗装道を上がって行かねばならない。

やがて見えてくる十字路が福山藩と藝州藩の藩境をなす防地峠である。手前右手に福山藩の領界石が立ち三面に「従是東 福山領」と深く刻まれている。

すこし右に行った道路脇に
福山藩番所跡の説明板が立っていた。説明では全国で三棟しか現存していないという番所の建物が残っているとあるが、何度も見渡してもそれらしい古い建物を見ることは出来なかった。最近解体されたのではないか。

峠を横切ると芸州領である。右手に「従是西 藝州領」と刻まれた立派な領界石が立つ。ここを境とする福山藩と芸州藩が合併して現在の広島県となった。芸州藩側にも番所があったがその跡を示すものはない。

峠から山陽道は細い下り坂となってするどいヘアピンカーブを繰り返す。

最初の折り返し地点に南無妙法蓮華経と刻まれた宝暦7年(1757)建立の題目石があり、左手には「大慈悲」と書かれた扁額を掲げる地蔵堂がある。

三度坂道を折り返して尾道バイパスの高架に差しかかる。手前右手にも髭文字の題目石がある。

下り坂は尾道バイパスをくぐってなおも続きやがて尾道の町並みの中に入ってきた。

右手に石仏を集めたコンクリートの祠がある。ジグザグ状の坂道を下って行くと尾道東高校の手前の曲り角左手に板碑や円柱石塔を納めたブロック造りの祠がある。いずれも摩耗が激しく内容が分からない。

尾道東高校の正門前に立ち寄る。尾道東高校は旧尾道高等女学校で林芙美子が青春の日々を過ごした場所である。創立100周年を記念して林芙美子の記念碑が建てられた。

  巷にくれば憩いあり   人間みな吾を慰めて    煩悩滅除を歌ふなり

そばには、頼山陽の往来安全燈龍が建ち、円筒の胴には「為往来安全  内海自得建之」と刻まれている。元は天保年間に山陽道沿いの防地川際に建立されたものであるが尾道東高校100周年記念事業として暗渠になった防地川から学校正門に移された。

右手、遊行上人によって開かれた念仏寺を見て、国道2号との防地口交差点に出る。かつてはこのあたりが防地川の河口にあたっていた。

街道は交差点を右に折れて商店街に入っていくのだが、その前に交差点を左に折れて浄土寺に寄る。

山門への参道石段が山陽本線をくぐっていく。尾道は坂の町である。海に落ちる段丘斜面に町が形成され、道路や線路が等高線状に東西に町を貫き、それら幹線道路と直角に交差する多数の路地が山と海とを繋いでいる。寺社が集中する山側と山陽道を中心とする本通り商店街の間に国道と山陽本線が並走している。江戸時代は山陽道が海岸線をなしていて現在の本通り以南の土地は後世の埋め立て地である。

重要文化財である浄土寺の山門は室町時代初期の建築でベンガラ塗りの四脚門に本瓦を葺いた立派な門である。内側から門外を眺めると横切る線路越に尾道の町並みと瀬戸内海尾道水道、向島がフレイムに納まって一幅の絵を提供する。浄土寺は聖徳太子の創建と伝わる古刹で、国宝の本堂、多宝塔をはじめ、国の重要文化財も多く文化財の宝庫と称されている。国宝の本堂は嘉歴2年(1327)の建立、国宝の多宝塔は元徳元年(1329)に再建されたもので金剛三昧院、石山寺とともに日本三大多宝塔に数えられている。重文は山門、阿弥陀堂、納経塔、宝筐印塔2基等がある。

防地口交差点に戻り本通り商店街に入っていく。すぐ左手の古びた煉瓦塀は尾道を代表する豪商橋本家の別荘跡である。橋本家は江戸期に代々町年寄りを務め、寺社仏閣への寄進や、飢饉に際して慈善事業を行い、また田能村竹田、菅茶山ら多くの文人墨客と交友し、頼山陽や本因坊秀策を支えたことで知られる。さらに明治期には、県内初の銀行である第66国立銀行(現広島銀行)の創業に携わり橋本吉兵衛が初代頭取に就任した。

内部は公開されていないが爽籟軒としてしられる庭園が現存している。

街道の両側路地入り口に同じ明神鳥居様式の石鳥居が建ち構えている。反った笠木だけでなく、両鳥居の神額に同形の唐破風が付けられているのだ。右手が久保八幡神社、左側が八坂神社である。線路を越えて坂を上がらねばならない八幡神社は省いて、左の八坂神社に寄った。境内右手に文政10年(1827)建立の「かんざし灯籠」がある。

江戸時代ここから程近い芝居小屋で働いていた内気で美しいお茶子に浜問屋の若旦那が恋をした。だがかんざし一つとてないお茶子を豪商の跡取りの嫁として親は許さなかった。お茶子は井戸に身を投げ、この大銀杏の木の下に「かんざしを下さい」と哀しい声で訴える幽霊が出るようになった。この灯龍はそのあわれを慰めようと心ある人々がお金を出し合って奉納したものという。

商店街は曲尺手を経て「尾道通り 旧本陣 石畳地区」と記された石標の立つ十字路に出る。十字路手前左手に本陣を勤めていた笠岡屋(小川家)の広大な屋敷があった。笠岡屋は灰屋(橋本家)、泉屋(葛西家)と並んで尾道三大豪商と呼ばれた。

天然の良港として知られた尾道は古くは平安時代後白河院領備後国大田庄(現在の世羅町)の倉敷地に公認され荘園米積出港として発展した。その後江戸時代には西回り航路が開拓され北前船の寄港地として賑わった。当時の尾道には白壁の蔵が建ち並び、北前船によって運ばれてきた昆布や鰤などの市も開催され、商人の町として黄金時代を築いた。明治時代に入っても山陽鉄道の尾道駅開業をはじめ、汽船による大阪航路や外国航路の寄港地となるなど西日本における商業の中心地として、多くの豪商たちが誕生した。

十字路を左折して海岸通りに出てみる。薬師堂通りの名がつくこの通りは旧出雲街道で、尾道と石見銀山を結ぶ銀の道であった。中浜通りとの丁字路角に「出雲大社道」の道標が保存されている。旧出雲街道は石見銀山街道、石州街道とも呼ばれ、赤名峠を越えて出雲に向かう街道とわかれて大森銀山を経て温泉津に至る山道である。現在の県道363号から国道184号に合流し国道54号に乗り継いで赤名峠を越え、県道55号、166号、国道375号、県道186号、県道31号で大森に至り、さらに日本海沿岸の温泉津までおよそ140kmの行程である。

海岸通りに出て左に曲がり「おのみち映画資料館」に入った。小津安二郎他なつかしい映画ポスターが壁一面に張り出され昭和の雰囲気が満ちた楽しい空間である。高倉健の追悼特別展示もあった。

海岸を西に歩いて行くと港の脇に住吉神社がある。元文5年(1740)に尾道の町奉行に着任した平山角左衛門は、翌年の寛保元年(1741)に住吉浜を築造しその際、浄土寺境内にあった住吉神社をこの住吉浜に移して港の守護神とした。毎年旧暦の6月28日前後の土曜日、平山奉行の功績を称えるためおのみち住吉花火まつりが行われる。境内には平山角左衛門の顕彰碑の他、寛政9年(1797)の常夜燈や重さの違う幾つかの力石が置かれていて、浜の賑わった昔日を彷彿とさせる。

薬師堂通りの家並みを眺めながら長江口十字路に戻り、山陽道商店街を西に進む。

郵便局の手前で二つ目の曲尺手が作られている。

右手に大和湯の看板を残し銭湯を改装した店が雑多な品物を揃えていた。中で食事もできそうである。コンクリート造りの堅い建物と店先のきまぐれな品ぞろえとのギャップが面白い。

左手に趣ある鉄筋コンクリート造りの尾道商業会議所記念館がある。大正12年(1923)に建てられたものである。その横に奉行所跡の石標がある。

その先右手、山崎清春商店は一里塚があった場所である。標識や説明板類はない。

商店街の出口近く左手に「芙美子記念館」がある。入っていくと奥の突当りに林芙美子が思春期を過ごした部屋が保存されている。

大正6年14歳の時に二階に移り住む。大正7年3月尋常小学校を卒業して4月尾道市立高等女学校(現在東校)に入学、9月に転居した。芙美子一家は尾道在住7年間の間に9回も間借り先を変えている。


商店街を出た国道との合流点に
芙美子の銅像がある。石碑には「海が見えた 海が見える 五年振りに見る 尾道の海はなつかしい」という「放浪記」の一節が刻まれている。林芙美子は宿命的に放浪者であった。彼女は古里をもたない。故郷に入れられなかった両親を持つ彼女は、したがって旅が古里であった。

彼女は恋多き女性でもあった。女学生の時、因島から通ってくる中学生に恋をした。尾道は芙美子にとって忘れ難い初恋の土地であった。

旧山陽道は芙美子の銅像のある場所から踏切を渡って尾道駅北口前に出て道なりに細い道を北に向かっていく。

千光寺山に天主閣が聳えているが観光案内には一言も触れられていない。昭和39年(1964)に千光寺公園の展望台を兼ねて「全国城の博物館」として建てられたが歴史的価値がなく、見る間に廃墟と化した代物である。解体をめぐって議論されているらしい。よくみれば屋根の鯱は片方しかない。

三軒家町には懐かしい家並みが残っている。

赤い実をぎっしりと付けたピラカンサと木の丈もある皇帝ダリヤの背後の崖上に一風変わった総板張りの木造建築の建物が乗っている。各階に手摺を設けて旅館風でもあるが、屋根が複雑な構造をしていて奇怪な感じもする。俗称、
「尾道のガウディハウス」と呼ばれている。尾道市で箱物製作・販売を手がけていた和泉家が昭和戦前期に別宅として建てたものである。一人の大工が3年かけて建てた。35年前頃まで住居として使用されていた。現在空き家再生プロジェクトNPO が修復工事を行っている。

右手、安政元年(1854)創業の吉源酒造は黒漆喰の店舗と白壁土蔵が重厚なコントラストを見せて味わい深い。

街道は左に曲がって西に向かう。国道184号を横切って栗原川を渡る。日比崎小学校への通学路を上がっていく。小学校のグラウンド端をたどって二股を左にとり、ここから七曲と呼ばれた坂を下っていく。

すぐ右折、三叉路を左折して道なりに下っていくと右手に
「大窪寺」と書かれた祠がある。地図には卍サインで示されているが今は小堂に過ぎない。かつては背後の空き地に寺があったのだろう。その先の十字路で、ここを右折する説と、直進する説とがある。めざすはいずれも尾道家電前の細道である。

右折すると南北に走る広い通りに出る。右手、天満宮参道入り口に明治8年の大きな常夜燈が建つ。その通りを鋭角に左折して100mほど坂を下ったところで丁字路を右折する。右手に尾道家電がある細道が旧道である。

大窪寺先の十字路にもどって、より自然な道筋である直進ルートを歩いてみた。十字路から90mほどで小さな十字路がある。そこを右折し民家の隙間を通りぬけると、最初のルートと同じ車道に出た。すぐ右手に尾道家電に通じる丁字路が見える。ちょっとした筋違いの変則十字路である。

道標の類がないから確かな旧道筋がどれなのかはっきりしていない。いずれにしても史跡などを見逃すことにはならないようだ。

尾道家電からは車通り抜け不可の標識がある細道を道なりにたどり、美容室テルミー脇から旧国道に出た。そこを右折して尾道を後にする。

山の崖を穿って祠とし地蔵尊を安置した地蔵堂をいくつも見ながら、道なりの狭い道をほぼ山陽本線に沿って進んでいく。

吉和小学校の南辺りで道は線路から離れて右に曲がり、吉和川を茶堂橋で渡る。
吉和郵便局を通り過ぎ、左手高台に八幡神社を見やりながら大人峠に向かう。
まもなく尾道バイパスに突当り、陸橋を渡って左折する。陸橋辺りが大人峠のようである。

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三原 

左折して坂を下って行く。すぐ先右手に「大人峠一里塚跡」の新しい石標がある。側面に「三原市内の一里塚四ヶ所の最東端」と書かれている。旧道は尾道市と三原市の境界をなし、右側が三原市、左は尾道市である。

旧道が国道2号に接近するあたりで尾道市から離れて三原市木原に入って行く。

すぐ先の木原踏切を越えて国道2号に出て100mほど先で左斜めの旧道に入る。海岸沿いの集落内を300mほど歩いて木原町内畠信号で国道に戻る。
そこから300mほどで、また左の旧道に入る。
工場で道筋が分断されジグザグに進みながら観音寺下信号で国道に出、すぐ反対側の旧道に入る。

すぐ右手に山陽本線のガードがあり、入口に斜めに傾いた道標がある。正面に「鉢ケ峯 虚空蔵 一粁五〇〇米」と刻まれ、側面には糸崎駅まで3.44km、尾道駅まで4.52kmと記してある。

国道にもどってしばらく山陽本線と海岸の狭間を西に進む。三原バイパス入口を通り過ごして糸崎神社東バス停の先の二股で国道2号を左に分けて右斜めに行く。

旧道に入ってすぐ右手に六本松一里塚跡の碑がある。

100mほどの旧道出口付近に糸碕神社がある。神社神門は三原城内にあった侍屋敷門の一つが移設されたもの。

境内右手に御調井(みつぎい)がある。昔、村長木梨真人が神功皇后にこの井の水を汲み献上したことからこの地を井戸崎(後に糸崎となる)と呼ぶようになったという。

巨大なクスノキが境内を圧倒している。樹齢は約500年といわれ樹高は30m。特に根本が地上2mの高さにまで肥大しているのは驚異的である。

旧道は国道2号に接するが国道の下に並行する道が旧道である。

右手に祠があり、松の枯れ幹が祀られている。この松は、神功皇后が西行の途中、この地に立ち寄った時に、船をつないだ松といわれている。この松の木片をとってそれに火をつけ、夜泣きをする子どもに見せると、夜泣きの癖が止まるといわれ夜啼松として多くの信仰を集めていた。かつては枝が海辺まで垂れ下がっていたといわれる巨木であったが、枯れてしまった。

街道は国道2号の下をくぐって反対側に出る。右折して国道に沿って進み、安藤酒店の角を左折、右折して小公園のある先で跨線橋を渡り、国道に合流する。
三原市糸崎町歩道橋の先の二股を左にとり糸崎駅前を通り過ぎて国道2号に戻る。
右手三菱病院前を過ぎたところ、糸崎2信号の手前で左斜めの旧道に入る。

東町踏切で山陽本線を渡り右折。国道2号の高架下で道が二手に分かれている。左の細い道が旧道である。右の道路歩道に「三原城 東惣門跡」の碑がある。側面には「正場所南十米」とあるのは旧道に当たる。

左側の旧道は千本格子や黒壁造りの風情ある古い町並みの中を通っていく。旭町には旧街道らしい空気が漂っている。道は東6番ガード南信号を右折して山陽本線と山陽新幹線をくぐり広い道路に出る。

道が左に曲がる角の右手に
熊野神社がある。石段の途中で安永5年(1776)の鳥居をくぐり、上がりつめた高台に社殿がある。周囲は足場、廃材が散乱していて第一印象は廃社になったのかと思わせた。籠怒(かごぬ)神社とも呼ばれ、元和5年(1619)紀伊より浅野忠吉が三原城主として入府したとき、その水手(さきて)等が熊野新宮速玉大社の御分霊を勧請したとある。

東西に広い道路が真直ぐ延びる。左手に酔心山根本店が黒基調の町屋と白壁土蔵群の品格あるコントラストを見せている。町屋は黒漆喰に繊細な千本格子。駒寄まですべてが黒塗である。暖簾には「横山大観愛飲の酒」とあった。

左手路地(東町1丁目5)入り口に「我里屋小路」の標石がある。「江戸時代我里屋という屋号の家があったので、その名前がついた」とある。これでは各路地に標石を設けねばならなくなる。

その先の真田家は三階建ての主屋に門と塀を巡らす武家屋敷を思わせる大邸宅である。主屋の二階に切られた虫籠窓は大きくて立派な格子造りである。一階は出窓、主窓、扉ともに重厚な色合いの格子で揃えられている。真田家は三原城主の典医だったと言われる。


右手、和久原川沿いに構える冨田酒店三原宿本陣跡である。

和久原川を神明橋で渡る。橋から左手下流を眺めると右岸に石積が見られる。石垣岸がジグザグに築かれていて、和久原川の水流を緩めるための(はね)であった。めずらしい物を見た。

右手の学校角の石垣前に三原城東大手門跡の石碑が建つ。

学校の敷地を越えた左手に濠に囲まれた三原城天守台跡がある。三原城は戦国時代に瀬戸内海の水軍を掌握していた小早川隆景が、永禄10年(1567)沼田川河□の三原湾に浮かぶ大島・小島をつないで築いた。城は海に向かって船入りを開き、城郭兼軍港としての機能をそなえた名城で、満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えるところから浮城とも呼ばれた。小早川氏のあと福島氏、浅野氏の支城となり、明治維新後、一時海軍鎮守府用地となった。天守台址へは三原駅構内から行く。駅が三原城を南北に分断したのである。

濠の西側の駅前広場に小早川隆景の銅像がある。

道は、城の濠を回り込むようにして鈎型に折れて本町に入っていく。

左手に駒寄を設け、総二階を格子窓で揃えた金尾内科医院が建つ。校舎風の造りは入院施設を兼ねた部屋割りになっているのであろう。

その先にも黒壁造りの重厚な建物がある。一、二階共に格子窓を具えているが頑丈でいかつい感じがする。又一、二階の双方にうだつを付けた造りも珍しい。金尾医院とともに古い建物に違いないが特段の説明板も見なかった。

右の路地を入って宗光寺に寄る。石段の途中右手に「吉田石痴墓」と書かれた説明板があるが、肝心の墓が見当たらない。脇に数本の折れた石柱が重なっていた。これかな?吉田石痴は幕末に山陽道において最初の種痘を施した人物で、その数5万人に達したといわれる。

宗光寺の山門は四脚門としては全国的に見ても最大級の規模を誇る。小早川隆景が本郷に築いた新高山城の城門と伝えられ、国重要文化財に指定されている。

甲山通り信号を越え250mほど行った右手の順勝寺山門は三原城作事奉行所の門である。16世紀後半天正年間の建築とされ、古さにおいては宗光寺山門と同等だが、造りが簡素であるため市の重要文化財にとどまっている。側面が空いていて四脚門の構造がよくわかる。


道は左に大きくカーブする。右手三原西町郵便局の前に三原城西惣門跡の石標があり、その向かいには西之宮一里塚跡の碑がある。いずれも周囲の風景からはその気配を感じ取ることはできない。

西野川に架かる宮浦橋の手前に三原八幡宮がある。石段を上がりきると社殿の前に大きな茅の輪が置かれている。永正7年(1510年)に比大神・応神天皇・神功皇后をまつり、西町・西野村一帯の総氏神として建てられたと伝えられる。西町にある神社として「西宮」とも呼ばれ、所在地名にもなっている。

街道は宮浦橋を渡らずに右折して県道155号を西に進む。国道2号の手前で左折し、梅観橋を渡る。道なりに右に折れて国道2号三原バイパスに沿ってその東側の道を南に進む。

山陽新幹線と山陽本線の高架をくぐり、広い道路を横断する。

突き当たりの三叉路を左折し、頼兼公園の東側をジグザグに進んで大きな通りに出、そこを右折して宮浦中学校を越えると峠の高台に出る。左手が広島大学三原キャンパスである。左右のバス停脇に備後と安藝を分ける国境碑がある。左手の大正3年の碑文は摩耗がはげしく読みづらいが「従是 西安藝國豊田郡長谷村 東備後國御調郡西野村」と刻まれているらしい。右の金具で保護された国境碑は明治11年のもので「従是東 備後國 従是西 安藝國」と刻まれている。この場所は峠になっており、昔は仏ヶ峠と呼ばれていた。

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本郷 

街道は峠を下って広い車道に出る。右手角に地蔵がある。

丁字路を右折してすぐ国道2号淀屋大橋北詰信号を右折して400mほどで右斜めの旧道に入る。三原バイパスをくぐり山裾に沿った家並みに沿って北にすすむと左手に「木之浜 壱里塚跡」の石標が立っている。側面に「小早川隆景400回忌記念」とあった。1998年にあたり、17年前に設置されたものである。

新倉集落内の旧道筋は宅地開発のため失われている。左にまがって結局どこかで国道2号に合流することになっている。住宅地を左に右にと左斜め方向に進んだ結果、新倉信号で国道に出た。その先800m余り国道を行き、七宝橋のバス停先で国道2号から離れて右の旧道に入る。

伯母ヶ崎第一踏切を渡ってすぐ左折して水路を渡り、のどかな長谷地区の田園地帯を行く。右手に八重垣神社をみて、長谷宮第5踏切で山陽本線を渡る。踏切の先の階段を上がって国道2号に合流する。

長谷橋を渡ってすぐ右折、仏通寺川を右に見ながら開放的な気分で堤防道を歩いて行くと唐突にラブホテルが軒を連ねる場所に入って春眠から起こされる。二股を左にとり、堤防から離れ国道2号に合流、長谷から本郷に入り、今度は沼田川を左に見ながら工場地帯を西進する。

納所橋北詰信号の200mほど先で国道と分かれて右斜めの旧道に入っていく。

右手に三体の地蔵があるが、台座に掘られた三名の「信士」という戒名からこれは個人の墓所のようだ。すぐ右手に吉国神社を見て広い道に合流、本郷南5信号交差点を渡って旧本郷宿の町並みに入っていく。

大きな交差点手前右手に西念寺がある。山門は2階建ての楼門で立派である。

市役所支所を過ぎた丁字路角に道標があり、「稲荷道」「佛通寺道」と刻まれている。文化6年(1809)の建立である。

家並みは古くも新しくもない。所々に懐かしい昭和の匂いを感じる。うだつを付けた民家もみられるが、その形が長方形のもあれば、丸く下ぶくれした愛らしいものも見られる。

右手に恵比須神社がある。天保10年(1839)の鳥居の扁額は石板に二匹の向き合った鯛が浮彫されている。珍しい扁額である。

恵比須神社の角を右折して線路沿いの道路左角に「古髙山城小早川城址」と刻まれた標石がある。線路の向こうに見える小高い山が高山城址であろう。

一筋西の踏切を渡ってすぐ左折、突当りの麻尾医院の西隣にある門構えの家が御茶屋本陣跡である。隣の家の陰になって見えないが門まで近づいて左の隙間をのぞくと石垣白壁塀が延びて内側には松の植え込みや土蔵が見られる旧家である。藩主の別荘を参勤交代の大名や幕府役人の宿にあてた。

街道(県道193号)に戻る。すぐ左手に美しい千本格子造りの本郷醤油醸造元が建つ。明治初期の建物らしく駒寄は鉄製である。出入り口は引き戸ではなく、大吊り戸といって毎日ロープで開閉されているという。

本郷橋で宿場を出る。本郷橋の南袂には、天保14年(1843)の三界万霊地蔵、その後ろには安政4年(1857)の常夜燈、昭和42年(1967)の鳥獣慰霊碑、錦山神社、最後に大渡大師堂がある。常夜燈は沼田川を渡ってくる旅人が本郷宿入口の目印にした。

本郷橋で沼田川を渡る。400mほどで県道33号を左に分けて右斜めの旧道に入って行く。昔この一帯は茅の原野があり、「茅原」と呼ばれていた。

右手に甑(こしき)天満宮がある。菅原道真が大宰府に赴く途中、日照り続きの水不足で困っていた村人のために自ら井戸を掘ると水が滾々と滾々と湧き出た。村人は道真の甑で飯を蒸して差し出した。村人たちは道真の残した甑を祀ったという。

道は右にカーブする。本郷中学校入口手前右手に「よこみ寺址 右は髙木山城址」の道標があり、行ってみた。中学校の東側の田圃の一角から横見寺の講堂、塔、築地などの遺構が発掘された。白鳳期時代の遺跡で国指定史跡になっている。

こから西に少し行った所に県史蹟梅木平(ばいきはら)古墳がある。宮川神社(山王社)の左手に梅木平古墳の横穴式石室が口を開けていた。全長13m余りで県下最大の横穴式石室であるという。

街道は梨和川に架かるふたばや橋を渡り、国道2号の西側に沿った山沿いの道となる。緩やかなアップダウンを繰り返しながらのどかな旧道気分を楽しむ。

左手に5体の地蔵が背を向けて並んでいる。通り過ごして見返ると皆よだれ前掛けをした可愛い浮彫地蔵であった。

南方郵便局から200mほど先の丁字路に「史跡御年代(みとしろ)古墳入口」と書かれた案内板が立つ。右折して案内標識に従って国史跡御年代古墳に寄っていく。御年代古墳は、明治28年(1895)国道改修工事により偶然発見された。この石棺は屋根形で非常に優美に削られている。この横穴式石室は6~8世紀の間に我国で流行したものであり、7世紀中頃の築造と考えられる。沼田地方の首長の墓と考えられている。

その先の「史跡貞丸古墳」はパスして最後に宗長神社の境内にある二本松古墳を見て行くことにした。境内の中央に大きな家型石棺が置いてある。古墳自体はこの神社が建つ小山をいうのであろう。

この先、舗装の途切れた細道をすすみ、廃墟と化したラブホテルに突当り、脇から国道2号に合流した。すぐに国道は三叉路を右に曲がっていく。左折する道(県道369号)は竹原に通じており、手前のバス停名「追分」はこの三叉路を指す。

国道左手にもラブホテルが3軒ほどある。

三差路から600m余り行った所で左斜めの旧道に入っていく。ここから国道の日名内(上)信号まで、1.5kmほどの旧道だが、山裾が右側の川に落ち込む縁に沿った道で、いわゆる峠を越える山道ではない。木々の間からは国道が寄り添って走るのが見え、標高差は10m程度ではないかと思われる。

数カ所で倒木をまたぐ場所があるが、手入れがされたと見え藪漕ぎをすることもなく、道筋は終始はっきりしている。足元は落ち葉で柔らかかった。前方に民家が見え山から解放されて十字路に出た。右折すれば国道に出る。旧道はここを直進して再び山に入って行く。

右手に小さな墓場、左手に猪用の箱罠を見ながら歩いて行くとほどなく轍の通となり、開けた場所に出る。左前方の建物はサテライト山陽という競輪車券売場だそうだ。なぜこんな不便な所にあるのか不可解という他ない。国道との交差点手前に地下を潜る道がある。国道の反対側から道が出ていて上日名内集落に続いている。これが旧道の延長であろう。

この辺りには日名内の一里塚跡があったらしいが、手掛かりになるものは見当たらなかった。

国道から300mほどいって家並みがつきるあたりで左に草道があり入っていくと、山際のあぜ道となって途絶えていた。集落に戻り県道49号に出る。この道は広島空港ができた際の取り付け道路のようだ。

県道を500mほど西に行くと右手に道がでている。駐車場跡のような空き地は県道工事用と思われる。猪の罠檻を通り過ぎると石畳の道となって旧道であることがはっきりしてきた。県道49号を潜り抜けると瓦坂峠への山道然となってくる。手入れが行き届いていて倒木もなく快適な峠道である。傾斜をほとんど感じないほど優しい坂道である。枯葉の下に固い物を感じ、足で葉を払うとここにも丸みを帯びた石畳が残っていた。

まもなくなだらかな峠に出る。峠を示す何もない。地図上ここで三原市本郷町から竹原市新庄町に入る。

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田万里 

明治時代に当地の赤土で瓦を焼いた跡があることから「瓦坂峠」と呼ばれたとか、雨の後には峠道が河原となるために「河原坂峠」とよばれたそうだ。峠の西斜面には駕籠場が、明治20年頃までは峠の茶屋があったという。

下り坂は更に歩きやすく快適な山道である。轍の下は石畳である。この山道の旧道は通して石畳道だったのではないか。道はまもなく横大道の集落に降りていく。

集落に入って、国道432号の手前十字路の左手角に寛政7年(1795)の地蔵尊が、その対角線角には「東大坂 西廣島 道」「明治三十二年」と刻む道標がある。

国道との交差点には「横大道古墳群→」「河原坂峠→」「←旧山陽道→」の標識が立っている。

旧道は国道を横断して西野町を西に進む。田万里川に落ちる河岸段丘上に集落がつくられていて、石垣が多い。

船谷川を渡った左手に、街道に背を向けた地蔵がある。台座は道標になっていて「右竹原道 左上方道」と刻まれているらしいが、どうしても読み取れなかった。

街道右手には大きな顕彰碑がありその脇に「船谷一里塚跡」の木標が立っている。

道は水ヶ谷、末京集落をぬけて大橋集落で道なりに左に曲がって国道を横断、田万里川を渡って右折、山裾にそって田万里川を遡上する。

橋から500mほどで西野町から田万里町に入る。左手路傍に「旧山陽道 これより田万里往還」と書かれた標識があった。多分、西の端にも同様の標識が予想される。街道の一部を切り取って地元の往還とよぶ郷土愛を感じ取れる。

左手に「末徳師古城跡」の標識をみつけた。城址自体は背後の山頂にあるらしいが、傍の棚田の石垣がいかにも城址の遺構に見えて、勝手にここを城址と解釈した。

旧道は早咲きの桜が色を添える段丘と川の間を気まぐれに曲がりながら延びていく。美しい日本の原風景の中にある。

やがて田万里の集落に近づいてきた。左手、地蔵堂は明和2年(1765)の建立らしい。なぜか「貞則(旧山陽道)」と記された札があった。貞則地蔵堂と呼ばれているようだ。貞則は地名か人名か。

左手に「往還の名水 茗荷の清水」と書かれた標柱がある。たしかに澄み切った清水が湧き出している。

左手、「これより西 市頭橋まで田万里市」の標識がある。この地方では「市」は「宿場町」と同義で使われることが多い。田万里市は本郷宿と西条宿(四日市)の間に置かれた間の宿であった。

鉤の手にある民家は旅籠跡である。

左に折れたすぐ右手に門塀を備えた旧家は本陣跡である。明治時代郡内最初の郵便取扱所であった。郵政民政化の時に流行した「特定郵便局」であろう。

その隣にえびす神社があり、田万里市についての説明板が設置されている。幕藩時代の田万里市は35戸余りの集落であったという。今の田万里集落の中心は国道沿いに移動している。

小ぢんまりとした風情ある町並みを通り抜ける。

「これより東 市荒神まで田万里市」の標識がある。「これより西 市頭橋・・」に呼応する宿場の西端である。

滝荒神社の小さな案内標識を見過ごして進んでいくと右手に黄幡坂一里塚跡の標柱と説明板がある。船谷一里塚と日向一里塚の間に位置する。

「高屋溝口への間道」と記された標識が立つ二股を直進して行く。

旧道は田万里橋信号で一旦国道2号と合流するがすぐに左の旧道に戻って行く。

その先、国道と川と旧道が最接近するあたり、左手水路脇に「油土製造 福田家水車跡」の標識が目に付いた。遺構があるわけではない。「赤瓦釉薬西条来待(きまち)のルーツ」という添書きが興味を引いた。詳しくは知らないが、来待と呼ばれる釉薬がこの地方でひろく使われている屋根瓦の美しい赤色を作りだしているのだということらしい。この先西条の町で見られるであろう。

左手山裾に石立神社がある。落石伝説がある。そんな立地条件にある。

右手に「風呂ヶ迫縄文遺跡」と書かれた簡素な標識がある。川向うの棚田が発掘現場らしい。目を凝らして見たが遺跡や案内板らしきものは見あたらず普通の手入れされた棚田に見える。埋め戻されたのであろう。

旧道は大きく左にカーブして竹原市から東広島市西条町に入って行く。予想通り左手に「旧山陽道 これより田万里往還」の標柱が立っていた。単に町境だけでなく市境界線でもある。

(2015年3月)
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