山陽道(西国街道)1



西宮−兵庫明石加古川

いこいの広場
日本紀行

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徳川家康が江戸を中心とする五街道を整備したはるか以前に、大和朝廷は全国の行政区分を中央の五畿(大和、山城、河内、和泉、摂津)と地方の七道にわけ、中央と地方との間を駅路とよばれる幹線道路で結んでいた。地方拠点を直線的に最短距離で結び、約16kmごとに駅家を置いた、古代版高速道路である。駅路は大路・中路・小路に区分され、中央と大宰府を結ぶ最重要路線だった山陽道と西海道の一部が大路とされた。畿内と東国を結ぶ東山道(中部、東北)・東海道(東海、関東)は中路、それ以外の山陰道、北陸道、西海道(九州)、南海道(四国、紀伊)の4道が小路とされた。大路であった山陽道は江戸時代には五街道に主役の座を譲り、自らは「西国街道」として脇街道に格下げされた。



西宮 

その山陽道は西宮から始まる。京から西宮までは山崎通りが整備され江戸時代は合わせて西国街道とよばれた。また、西宮から海岸沿いに大阪まで通じる道は中国路ともよばれ、これら三つの道が西宮、
与古道町四丁目で交わった。

旧道は正念寺の北、西の路地を回りこむようにして東西に走る旧国道に入っていく。旧国道を西にむかい
札場筋を横断する。交差点の東南角の札場交番あたりに高札場があった。向かいの西南角には「蛭児大神御輿屋傳説地」の碑がある。蛭子(戎)にちなむ伝説らしいが潅木に隠れた説明板を読むことができない。このあたりが西宮宿の中心であったが、沿道の家並みからはその趣をうかがわせるものは何一つ見出だせない。通りの先に西宮神社の赤門が見えている。ここで札場筋を南に下って酒蔵通りをあるいてみた。

西宮は酒造りの町である。六甲山系からの伏流水が湧き出、その成分が酒造りにぴったりだった。「西宮の水」を縮めて「宮水」とよぶ。酒蔵ではそれぞれ宮水の井戸場を持ち、酒蔵に送り込んだ。その第一号というべき宮水井戸が久保町酒造会館の向かいに
「宮水発祥の地」として保存されている。西宮をはじめとする灘五郷で造られた灘の酒は、西宮港から樽廻船で江戸に大量に積み出された。

江戸時代、東の武庫川から西の生田川にかけて海沿いに発展した酒造業の地を灘五郷とよぶ。東から順に地図を眺めていくと多くのなじみある銘酒にであう。

今津郷 大関  扇正宗(今津酒造)
西宮郷 日本盛  白鷹  白鹿(辰馬本家酒造)  灘自慢(国産酒造)  多聞  寶娘(大澤酒造)  灘一(松竹梅酒造) 
島美人(北山酒造)  喜一(木谷酒造) 金鷹(本野田酒造)  金鹿(灘酒造)  徳若(万代大澤醸造) 
魚崎郷 桜正宗  道灌(太田酒造)  浜福鶴  松竹梅(宝酒造)  大東一(田端酒造)  酒豪(豊澤酒造)  
金正宗(松尾仁兵衛商店)
御影郷 白鶴  菊正宗  剣菱  戎面(坊垣醸造)  瀧鯉(木村酒造)  大黒正宗(安福又四郎商店)  
福寿(神戸酒心館)  灘泉(泉勇之介商店)  泉正宗(泉酒造)
西郷 富久娘  沢の鶴  福徳長  金盃

旧国道札場辻にもどって西に向かう。西宮は酒造り・宿場町に加え、戎神社の門前町として賑わった。
西宮神社は関西弁で「えべっさん」とよばれる福の神の総本社である。本町通りの突き当たりに鮮やかな朱塗りの表大門が立ちはだかる。1604年豊臣秀頼の寄進によるものと伝わる豪壮な四脚門で、毎年正月10日午前6時、開門とともに血気盛んな若者が狂ったように拝殿にむかって参道を駆け抜ける。多数の死傷者がでないのが不思議だ。先着3名が福男となる。

境内の東・南面を囲む全長250mに及ぶ長大な築地塀は
「大練塀」とよばれ、京都三十三間堂蓮華王院の「太閤塀」、名古屋熱田神宮の「信長塀」と並び日本三練塀に数えられる。大練塀の東南内側に芭蕉句碑が、外側には寛政11年(1799)の古い道標を兼ねた常夜燈があり、「左京都・大坂道」「右兵庫・はり満道」と刻まれている。

西宮神社の南側を進み、圓満寺前で右の旧道に入っていく。香櫨園駅前を通り阪神電鉄の高架沿いに進み、芦屋市との境付近で西国街道は右にそれる「本街道」と、左にすすんで海岸沿いを走る「浜街道」の二手に分かれていた。本街道は阪神電鉄に分断されて、春日町の交差点の東西にわずかながら旧道が残されている。東端は鉄道につきあたり、西は大きな屋敷にぶつかる。
交差点角に道標と地蔵尊がある。道標には「右西宮道」「左中山道」とある。地蔵の左側面に刻まれた文字と格闘していると、向かいの家からでてきた主人が丁寧に教えてくれた。「右から、甲山、荒神、中山、妙見山です。区画整理事業でこの部分だけ旧道をのこしたのです。」

西に向うと大きな民家に突き当る。もとは旧道が通っていたが鳴尾御影線工事にともなう区画整理事業で、家を移転した結果旧道をふさぐことになったとか。門前に道標があるが、磨耗がはげしく一字も読めなかった。右におれて鳴尾御影線に出る。新緑の木々が立ち並ぶ静かな住宅街を、まっすぐにぬけるきれいな道路だ。

阪神電車打出駅手前の右手に
金津山古墳が見える。交差点角に「阿保親王(平城天皇の第1皇子、在原業平の父)塚廟」と刻まれた石碑がある。交差点を右折し親王塚に向かう途中国道2号の手前に打出神社がある。この地は内陸を通ってきた山崎通りからつながる西国街道がはじめて海辺近くに打ち出る交通の要地であったという。

親王塚へはよらず、引き返して旧道をすすむ。ウエルシアの東北側を回りこみ、斜めに残っている旧道筋を追う。宮川に架かる
西国橋脇に白露地蔵堂がある。茶屋之町4丁目の二股を右に進み、「茶屋之町北」交差点先で国道2号に合流する。芦屋川に架かる業平橋を渡る。国道といっても沿道に万国旗がはためき、ファミレスやドライブインの広告がうちつづき、大型トラックが疾走する月並みな国道ではない。実に静かで清潔な国道である。

芦屋市から神戸市東灘区に入る。住吉川の手前、田中町に旧道が残っている。旧道の終わり辺りに
花松首地蔵という、一瞬ドキッとするような大きな彩色首が通行人をにらんでいた。

JR住吉駅の先に
本住吉神社がある。手前の交差点角に「有馬道 是ヨリ北江九十丁」と刻む道標があり、神社の前に「西国街道」の石碑と案内板がある。住吉は西宮宿と兵庫宿の間にある「道中昼休みの宿」だった。本宿間の距離が20kmというのは誰が考えても長すぎる。神社自体は小さく建物も新しかった。本住吉神社の先で旧道は左斜めに入って行くが、住宅や学校で道筋は失われ、阪神御影駅北口を通って御影中学校の西門の前に出る。

御影駅前には「澤の井の地」の碑がある。宮水の井戸の一つであろう。御影中学校の西門前に西国街道の石標があり、
「西国街道の松」の末裔が一本、街道の証人としてたっている。
平安時代の大路(おおみち)とされた山陽道は、都と九州大宰府を結ぶ古代国家の大幹線道路であった。鎌倉時代には衰えたが、江戸時代になると西国と畿内を結ぶ交通路として大いににぎわい西国街道の名で親しまれた。この老松は、大名行列が通ったころの街道の面影をわずかに残す並木の一本だという。  東灘区役所

旧道はすぐに天神川に架かる
一里塚橋を渡り、まもなく石屋川に突き当たる。手前右手に、「徳川道起点」の説明板がたっている。

ここは幻の道として知られている、徳川道の起点である。徳川道は江戸時代末期(慶応3年)に幕府か兵庫港を開港するにあたって開港場付近の外国人と西国街道を往来する諸大名や武士との衝突を避けるために作られた迂回路である。そのコースはここで西国街道と別れ当時の徳井・平野・高羽・八幡・篠原の各村を経て杣谷を通り、杣谷峠・森林植物園・鈴蘭台・白川・高塚山・長坂・昨日大蔵谷までの8里27町9間(約34km)であった。
 
石屋川を西国橋で渡ったところに街道石碑がある。
県道95号との交差点を左折して、
「処女塚」をたずねる。処女塚は史跡としては小規模な前方後円墳であるが、古墳の上にたつ万葉歌人田辺福麻呂の歌碑にこの塚にまつわる伝説が記されている。芦屋の処女に二人の若者が求婚した。心を痛めた乙女は入水し、それを知った二人の男も後を追った。処女塚古墳が処女の墓で、これを挟んだ東西の求女塚古墳が二人の男の墓だという。成田街道市川に同じような話があった。

街道に戻って大石に向かう。都賀川をわたったところで左に折れて浜街道と
澤の鶴資料館を見に行く。国道をくぐって海にむかうと西郷橋のたもとに「旧西国浜街道」の大きな石標が立っている。浜街道は国道43号の一筋南を走っているようだ。資料館にはいると、ちょうど若い女性に引率された年配の団体が土間で10分ほどの映画を見終わったところだった。一階には酒の匂いこそしなかったが古めかしい大きな壷と樽が陳列されている。醸造の工程順に展示されている本物は迫力がある。12年まえの大震災で倒壊したものを復興させたものである。ここは西郷。灘五郷の最後である。

旧道にもどり、原田中学校にさえぎられて右手の国道2号に合流する。西灘交差点で左にそれていく国道と分かれ、旧道は直進して西郷川を渡ったところで二股を右斜めに入ってJR灘駅前に出る。旧道はその先から直角に左折して三宮まで一直線に通じる旧道筋に出るのだが、どこを左折するのか定かでなかった。直感的には朝鮮学園をはさむ東西のいずれかであろうと思われる。

脇浜町、吾妻通りを経て三宮駅南口、サンシティの北側に出る。途中、春日野商店街、大安亭市場との交差点、雲井橋西詰、サンシティ西角の4箇所に西国街道碑と説明板があった。いずれにも江戸時代の絵地図が掲示されていて、浜街道と本街道が東西に併走して、生田筋で合流している様子が描かれている。

三宮駅を北に横切り、繁華な生田新道に出る。東急ハンズの北が
生田神社である。境内右手にある「酒の神」松尾神社に「灘五郷酒造の発祥地」の碑があった。生田神社で醸造した神酒で新羅の要人をもてなしたのが灘五郷酒造りの始めと伝えられている。つまり酒造王国の発祥地は生田神社であるというのだ。境内奥に薄暗い「生田森」が潜んでいる。源平一の谷合戦の際、平家軍は生田の森を東の城戸として陣を張った。ここから以西、酒の旨みにかわって源平の酸っぱく苦い味が濃厚になっていく。

街道は、生田神社の前からでている生田筋「
IKUTA ROAD」を南下し、三宮センタープラザで浜街道を吸収し、神戸朝日ビル前で右折して大丸前交差点にでる。大丸の向かいにある三宮神社前で神戸事件が発生した。生麦事件の関西版である。

街道は大丸の先で
神戸元町通商店街に入る。

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兵庫


元町通商店街を出た所に、「きらら広場」があり、ここに高い
「兵庫縣里程元標」が立っている。単にどこそこ宿まで何里といった大雑把な里程でなく、特定地の標柱までの距離だから何丁何間何分と、「分」単位まで刻まれている。ただし、「間」から「尺」、「寸」を飛び越えて「分(3mm)」まで降りているのは何かの誤解か愛嬌であろうか。

湊川神社による。楠木正成のための神社である。明治天皇の命によって建てられた。延元元年(1336)足利尊氏の軍勢に破れた楠木正成は一族郎党ともどもこの地で自刃した。門の右側には楠木正成の墓がある。

旧道は神戸駅で分断され、駅南西側の相生町から復活する。信号のある逆一方通行の道がそれだ。進んでいくと西国街道ビル前に御影石の新しい道標がある。JRの高架をくぐり、複雑な横断歩道システムを経て幾つかの道路を横切ると右手に小さな社がみえてくる。
湊八幡神社で、ここに兵庫宿の東入口である湊口惣門が置かれていた。ここからJR兵庫駅までがかっての兵庫宿である。

湊八幡神社から旧道にもどるのを間違えて大きな道の一つに沿って七宮神社まで来てしまった。歩道橋交差点の北側、西出町に
鎮守稲荷神社がある。文政7年(1824)、海の豪商高田屋嘉兵衛が海上安全を祈って神社に燈籠を献上した。献上灯籠は常夜燈として鳥居の足元を照らしている。神社右手には、平経俊の墓がある。平経俊は平清盛の甥で一ノ谷の合戦で戦死した敦盛の兄である。西出の浜まで落ち延びてきたところを源範頼の郎党に討ち取られた。

七宮神社から旧道筋へ引き返す。右手にマグドナルドの黄色いアーチがみえる道が旧道である。本町公園の向かいに岡方惣会所の跡である岡方会館を通り過ぎる。

徳川時代兵庫津の行政機構は全域を三分し岡方、南浜、北浜とした。これを三方(みかた)と称し、大坂町奉行支配であった。三方にはそれぞれ惣会所があり名主が惣代や年寄などを指揮して行政をおこなっていた。岡方は浜に接しない町々を含めて総称し、岡方惣会所をここに設けていた。

本町2丁目の東南角に半分地面に埋もれた道標があり、「右 和田」「左 築」と読める。その横に彩色絵図入りの解説板が建っている。ここが
高札場跡で、兵庫宿のほぼ中央にあたる。道はここを直角に右折して現在の兵庫駅方面に向かった。左におれると古代の兵庫津にでる。新川運河沿いに「古代大輪田泊の石椋」がある。平安時代のはじめに造営された「大輪田泊」の港湾施設の遺構であるという。

前方に築島水門がみえる。運河をわたると左右は広大な神戸市中央卸売市場である。小型自動台車がかいがいしく行き交っている。中ノ島交差点で右折して大和田橋をわたる。橋をわたり終わった右手に13重の石塔が見えてくる。住吉神社の境内の一角をかりて
琵琶塚と清盛塚が並んでいる。清盛の銅像は昭和47年建立の新しいものである。

新川運河にそって札場の辻に戻る途中に、「兵庫城跡 最初の兵庫県庁の地」がある。兵庫城は天正9年(1581)池田信輝・輝政父子によって築かれた。明治元年、わずか数ヶ月であるが城跡の一部に最初の県庁がおかれた。この近辺が宿場と港と官庁を備えたまさに兵庫の中心地であった。

札場の辻にもどり、街道筋を西に進む。北逆瀬川町にある
能福寺によっていく。奈良、鎌倉と並ぶ日本三大仏と呼ばれている「兵庫大仏」があるという。座像の高さは奈良15m弱、鎌倉12mで、兵庫が11m。そんなものかなという印象であった。門を入った左手に神戸事件の犠牲者「滝善三郎正信碑」、その隣に「わが国唯一将軍平清盛公墓処 八棟寺 平相国廟」、本堂の「月輪影殿」をみて奥にはいっていくと廻船問屋で新川開発の発起人であった「兵庫の豪商北風正造君顕彰碑」、隣接して我が国最初の英文碑といわれる「ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)の碑」がある。能福寺は盛り沢山の寺だった。

門口町信号で阪神高速3号神戸線高架下の大きな道を渡り、その先二股の左の道をとる。柳原交差点の東南角、柳原蛭子(ひるこ・えびす)神社の前に
「西国街道兵庫西惣門跡」の石標と解説板が建っている。兵庫宿の西の出入口である柳原口である。

JR兵庫駅北口に出、道を左斜めにとって兵庫区から長田区に入り国道28号に乗る。長田交差点に「式内 長田神社」の立派な社碑がある。距離5町40間とあったが寄らなかった。長田交差点から県道21号に移る。新湊川の東岸辺に
源平合戦勇士の碑がある。源平合戦で討ち死にした平通盛、源氏の木村源吾重章、猪俣小平六則綱、平知章之の碑などを敵味方のへだてなくあわせ祀ったものである。

新湊川橋を渡ってすぐ、まだ新しい石鳥居を構えた長田神社参道があらわれる。脇にたつ社標の前には大震災で倒壊した旧鳥居の一部が保存されていた。まっすぐに伸びる県道21号は長田区から須磨区にはいり、天井川で右に折れるが旧道はそのまま直進して、道路工事中の中を須磨寺駅に向かっていく。途中、太田町交差点と、妙法寺川を渡ったところに西国街道の証があった。

須磨寺駅前の商店街をぬけていく道は旧街道らしいゆがみと古さをかもしている。それを避けようと、新しい道が東側に造られつつあった。

山陽電鉄の踏み切りを渡って須磨寺によっていく。須磨寺前商店街のゲートの前に
「平重衡とらわれの遺跡」がある。寿永3年(1184)2月7日源平合戦の時、生田の森から副大将平重衡は須磨まで逃れてきたが、この地で源氏の捕虜となった。平重衡は清盛の五男。南都焼討の実行者で、このとき東大寺の大仏も焼け落ちた。鎌倉に送られた後、頼朝・政子に厚遇され千手の前という美女まで与えられたが、結局南都衆徒の恨みは逃れきれず、木津川畔にて斬首され奈良坂の般若寺門前でさらし首となった。

須磨寺参道の門前商店街は京都京極を思わせる日本情緒にあふれている。小橋をわたり仁王門をくぐると境内は手ごろな広さの端整な空間である。「源平の庭」には海に退く平敦盛と砂浜で相対する熊谷次郎直実の一騎打ちの様が再現されている。テーマパークばりの演出には驚かされた。源義経がそれに腰掛けて敦盛の首実検をしたという腰掛け松がある。枯れた松の幹の一部が横たわっているが、なんとなくニセくさい。三重塔の奥にその敦盛の首塚があった。胴体は一の谷にあるという。

街道は須磨寺駅前から左斜めに下りていって国道2号に合流する。合流地点の右手奥に山陽電鉄のガードを背にして
「村上帝社」の小さな祠がある。平安末期のこと、琵琶の名手太政大臣藤原師長と村上天皇の琵琶にまつわる伝説が伝わっている。


その先の路地を右にはいりガードをくぐって坂を上っていくと左手の台地上に
関守稲荷神社がある。古代この近辺に須磨の関があり、関守が住んでいた。須磨の関を詠んだ歌は多い。中でも百人一首で知られる源兼昌の歌が名高い。

  
淡路島通う千鳥の鳴く声にいく夜寝覚めぬ須磨の関守

そのほかにも、西須磨協議会が古歌を拾い書きしている。その中からいくつか。

   旅人はたもと涼しくなりにけり 関吹き越ゆる須磨の浦風   在原行平
   須磨の関秋萩しのぎ駒並べて鷹狩りをだにせでや別れん    読人しらず(伝 業平)
   淡路島はるかにみつるうき雲も 須磨の関屋に時雨きにけり  藤原家隆
   藻塩焼く煙も霧にうづもれぬ 須磨の関屋の秋の夕暮れ    大僧正慈円
   須磨の関ちどりの声はうつつにて とだえがちなる夢の通い路 藤原隆信
   月ははや遠島かげに傾きぬ しばしとどめよ須磨の関守    栄福門院


山陽道はこれからしばらく須磨浦沿いに国道2号をたどる。左手に海がひらけてくるところが「一ノ谷」である。水路が山手から降りてきて道路の下を潜り抜けて海に注いでいる。ここから塩屋にかけて、宝塚からはじまった六甲山系が瀬戸内海に果てるところである。あるいは淡路島につながっていた六甲山系が陥没によってできた明石海峡に分断されたといってもよいであろう。グーグルの航空写真がその姿をよく捉えている。山が海に迫り陸路は極端に狭められていた。平家はそこに陣をはった。北は山。南は海。東面さえ固めておけば大丈夫と思ったことであろう。義経は山側から平家軍の横腹をついた。須磨寺でみたように、敦盛は海に退くしかなかった。

須磨浦公園の中に
「源平史蹟 戦の濱」碑があり、国道を西にしばらくいくと敦盛塚がある。その先境川で須磨区から垂水区にはいり、昔は摂津と播磨の国境だった。山陽道が造られた奈良時代、摂津は畿内で、播磨国から地方行政区としての山陽道がはじまった。つまり須磨は中央と地方との境だったのである。地形をながめると納得できる。畿内の「すみ」であることから「すま」となまったともいわれている。

須磨浦公園の西方、境川の近くに芭蕉句碑があるという。

  
蝸牛 角ふりわけよ 須磨明石

元禄元年(1688)旧暦4月20日芭蕉は『笈の小文』を須磨・明石で締めくくった。源氏物語・須磨の巻に「明石の浦は這い渡れるほどに近い」とあるのをうけて、カタツムリに片方の角で須磨を、もう一方の角で明石を示してみよとよびかけている。境川は摂津と播磨の国境であるが、もっと身近には須磨と明石の境であった。

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明石

垂水区はまだ神戸の一部であるが気分はもう明石である。海岸沿いを走る国道2号を進んでいくとやがて海上に巨大な
明石海峡大橋がかすんで現われた。かって世界一の吊橋であったサンフランシスコのゴールデンゲート・ブリッジよりも1km以上長い。いずれ間近に見える場所を通るだろう。そのまえに一ヶ所寄って行きたいところがあった。

福田川をわたり垂水駅前を通る。西宮以来、沿道にはじめて旧街道を偲ばせる古い建物を見た。「商大筋」で街道をはなれ、右折してJRと山陽電鉄をくぐり駅西広場に出る。住宅街の急な坂をのぼって
五色塚古墳をめざす。道順は少々わかりにくいが、そこからの明石海峡大橋の眺めがよいというのだ。たどりつくと海をみおろす位置に、大きな前方後円墳の「五色塚古墳」と小ぶりの円墳「小壷古墳」が隣接してあった。共に芝生に覆われた手入れの行き届いた古墳である。

大きな方の後円部の頂に上る。円周に埴輪がめぐらされ、その向こうにはうわさに違わぬ美しい明石海峡大橋が淡路島につながっていた。

国道に戻り舞子公園に入っていく。橋の真下にきた。さすがに多くの観光客でにぎわっている。この狭い海峡を絶え間なく大小の船が往来する。遠くに見ているのも一因だが、橋上を疾走する自動車にくらべれば船はいかにものどかに見える。その昔、一の谷の戦に敗れた平家を乗せた小船が、谷川を流れる木の葉のように、この海峡を漕ぎ急いで四国屋島へ落ちのびていった。

街道に戻り、舞子延命地蔵を通り過ぎ、石造りの欄干が残る短い東橋を越えたところで国道から左に入ると、500mばかりの旧道が残っている。舞子六神社をみて再び国道と合流する。このあたりで、大阪梅田から国道2号を50km来た

朝霧駅の手前で明石市に入る。朝霧川を渡ってすぐ左斜めに下がっていく旧道にはいる。地名は
大蔵町、旧明石宿場町である。入口にあたる曲がり角に日蓮宗の題目碑が立っている。大蔵谷とよばれる集落の中を進んでいくと、土壁に格子窓の長屋風の民家、うだつを上げた家、屋根まで蔦を這わせた家などが見られ、垂水駅前で感じはじめた山陽道の街道気配がここにきて本格的なものになった。「大蔵市場」の看板、そのちかくに活魚を売る店があり、浜街道であることを知らされる。大蔵会館のあたりに本陣があった。

大蔵中町と本町の境の右手奥に稲爪神社がある。神門前の角地に土蔵を従えた立派な屋敷が構えている。そこから街道を北にはずれてしばらく道草を食うことにした。日本標準時の基準になっている子午線上に立つためである。稲爪神社前を西にすすみ右折して国道にでると道向かいに休天神社がある。延喜元年(901)菅原道真が九州大宰府に左遷されて行く途中、明石の駅家で一泊することになり、駅長宅で歓待を受けた。鳥居を入ったすぐ右奥に「菅公駐駕驛長宅址」と書かれた石柱がある。

国道「人丸前」交差点を右折して山陽電鉄・JRのガードをくぐる。交差点に「左人丸山三丁」と深く刻まれた
大きな道標が堂々として立っている。山陽電鉄のガード下には「両馬川旧跡」の石碑がある。一の谷の戦でやぶれて西に落ちていく平忠度が岡部六弥太に追いつかれ、二人の馬が川を挟んで戦ったので両馬川という名前が付いたという。川は暗渠となって今は見えない。平忠度の亡骸を埋めた塚が残っている。ガードをこえて坂道を上っていくと、左手に「源平合戦馬塚旧址」という低い標石がある。平経盛の子、平経正の馬を埋めた所である。明石天文台の搭が目の前に見える。

天文台の裏側に
柿本神社の参道がある。入口には柿本人麻呂の代表作「あしびきの山鳥の尾のしたり尾のながながしき夜をひとりかもねん」の歌碑がある。神社の前に日本標準時子午線標示柱が立っていた。ここが東経135度線上である。小学校の社会の教科書にでていたものだ。天文台の裏側にあたる高台のような場所で、見晴らしがよい。芭蕉の句碑もある。

 
蛸壺やはかなき夢を夏の月

『笈の小文』を結ぶ句である。明石は芭蕉の旅の西限であった。そのころから明石は蛸で知られていたらしい。

柿本神社はいうまでもなく柿本人麻呂を祀ったものだが、その祭神本人については優れた歌人であったほか、出生、身分、官職、没地、死因についてよく分かっていない。百人一首にある代表的な歌についても彼の作でないとする説があるほどだ。人麻呂は人丸とも書かれ、「ひとまる」から「火止まる」、よって火災厄除けの神徳があるという風に、伝説は拡大していった。

「人丸前」交差点を横断し裁判所前の街道にもどる。手前の通りを西にいくと
忠度塚がある。両馬川で岡部六弥太忠澄に討たれ、その亡骸を埋めたところである。大蔵天神町から裁判所のある天文町―相生町にかけて鍵の手を二回通る。裁判所の東南角に、明石警察署の広報板をはさんで、慶応元年の道標「右 か古川 ひ免ぢ 道」「左 ひゃうご 大阪 道」と、「大日本中央標準時子午線通過地標識」がある。子午線標識は明治43年に地元の小学校教師が建てたもので公式のものではないが、天文台の裏に立つ子午線標示柱よりもはるかに古く、先駆的役割を果たしてきた。

鍛治屋町の先、駅前通を左折して
浜光明寺による。明治天皇が山陽道旅行の際光明寺の書院に宿泊した。鐘楼には享保14年(1729)の鋳造で、四天王像、鳳凰、獅子を浮き彫りにした優雅な和鐘が吊らされている。錦江橋を渡ると明石港である。広い駐車場の向こうに淡路島とを結ぶフェリーが定刻を待っている。明石海峡大橋の完成で、フェリーの利用客はどれほど減ったものか、乗船を誘導する係員は手持ち無沙汰なふうに見受けられた。

明石港の船溜まりを回り込むようにして
岩屋神社に寄る。明石浦の前浜の六人衆が淡路の岩屋に鎮座する神をこの地に迎えて、海難防止と豊漁を祈った。明石城主の産土神として崇敬を集めた古社である。境内に「伝承 光源氏月見の松」が植えられている。解説板はない。風光明媚な明石の浜も畿内の外。都から退去しわび住まいをきめた光源氏だが、果たして明石の君という現地妻をしっかりと手にしていた。彼女の膝枕で松越しに見た十五夜の月はまんざらでもなかったろう。

街道を横切り駅前通りを北に向かう。駅のすぐ北側が明石城址だ。途中本町1丁目に
魚の棚(うおんたな)とよばれるアーケード商店街がある。城下町の町割り(宮本武蔵が策定したといわれている)で魚町として発生した。350mほどの短い通りに鮮魚、干物、煮魚、刺身、乾物、漬物など、あらゆる魚介類を商う110の店が軒をつらね、活気ある空気に満ちている。アーケードの中央は鯛、両側には蛸の絵が飾られている。明石の二大特産物のようだ。とれたての刺身用鯛が5〜6千円、生蛸は1〜2千円、小型の凧のような干蛸が1〜3千円で売られている。アメ横だったらいくらくらいするものか知らないが、産地だからといって安いという感じではなかった。なにもここに限ったことではない。お花畑で買う花、果樹園で買う果物、牧場で買う肉やチーズもそうだ。といいながら酒のつまみに蛸の燻製を買っていった。

駅をこえて
明石城跡へいく。広い明石公園内に清楚な三層の櫓が二つ、それを白い城壁が結んでいる。元和3年(1617)信州松本から移ってきた小笠原忠政によって築かれた。最初から天守閣は造られなかった。櫓、城壁をささえる見事な石垣は穴太積みといわれている。


明石の市内観光を終え、本町一番街の街道を西に向かう。大観橋で
明石川を渡ったところで、右のわき道に入る。大阪屋質店前の最初の丁字路を右折して国道2号の高架橋、山陽電鉄の踏み切り、JRガードを続いてわたり、東王子公園(現西新町1公園)にぶつかる。住宅地で旧道は消失。西新町1バス停交差点に出て西に向かう。

すぐ右手に
十輪寺がある。境内をのぞいてみると左手に「太閤さん縁(ゆかり)の木」があった。豊臣秀吉が戦勝を祈願して手植えした杉が、第二次世界大戦の戦火で焼け残ったものである。

まっすぐな広い道は国道175号を横断すると、急に狭い坂になって曲がりくねりだした。この坂「和坂」を
「蟹が坂」とよぶ。昔このあたりに大きな蟹が出てきて旅人を困らせたとか。かっての海岸線はここまであったのか、あるいは大きな沢でもあったのか。場所は変わるが東海道の鈴鹿峠をこえて近江にはいったところにも同じ名の蟹ヶ坂があって、そこでは旅人を襲う山賊のことを蟹とよんだらしい。ここの蟹ヶ坂を和坂と変えた経緯は知らない。右手坂上寺の門前には安永9年(1780)の「大師舊跡」の石標がある。旧道らしい落ち着いた和坂集落をとおりぬけ、「西明石町五丁目」信号で国道2号と合流したのち次の「松の内」信号交差点先で左斜め前に入り西明石駅前に出る。

この先加古川宿まで旧街道は国道2号に沿って、途中工場や学校に分断されながらも斜めに交差しながら、ほぼ一本道に伸びている。新興住宅地と近郊農地、ときおり大工場と溜池が入り混じった沿道風景のなかで、集落にはいると町家や屋敷風の古い家並みを残している。行き交う車の姿をほとんど見かけないのんびりした街道である。明石から加古川までも、5里20kmという長丁場である。道々であう道標、石塔、地蔵などは略し、街道を急ぐことにする。

国道2号の「中谷東」丁字路を右にはいり、一筋目を左折して、雲楽池の前で国道を斜めに横断する。谷八木(たにやぎ)川に向かって坂をくだると
大久保集落にはいる。大久保は明石宿と加古川宿の間宿で、茶屋本陣があった。

JR大久保駅の北側を通過して、突き当りを右におれ、国道「大久保西」交差点に出る。その先、富士通と近畿コカコーラプロダクツの工場によって旧道は消失、コカコーラ工場の西側「大池東」信号を北に入った一筋目から復活する。

魚住町
金ヶ崎を抜け長坂寺、清水集落にはいる。次々と左右に溜池が現れる。瀬戸川、清水川を渡り県道を横切って土山に入る。駅前通りとの交差点角に趣ある旧家がある。一階はフルーツショプだが、二階をみるかぎりでは旅籠風でもある。そこを通り過ぎたところで明石市から加古川市に入り地名は加古川市平岡町土山となる。街道の両側に焼板塀、長屋門などの古い家並みが残り、宿場であったかと思わせる雰囲気である。「上田」姓が多かった。

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加古川 

JR山陽本線の踏切を渡り
高畑集落に入る。県道381号をこえてまもなく国道を斜めに横切り平岡小学校に突き当たる。小学校の北側角で国道から反対側に出ている道が旧道で、西谷集落をぬけ東加古川駅の手前新在家五叉路を左斜め(新在家第2公園西側)に進んでいく。

新在家北交差点角に立派な旧家が目に付く。道はサティショッピングセンターに突き当たるが、その手前右手の小さな公園の中に室町時代初期ともいわれる古い五輪塔がある。ショッピングセンターの通路を進み、西隣の「東加古川ハイタウン」内の歩道を突き抜けると、そのまま
野口神社の前を通る旧道に通じている。

神社を過ぎ大洋化成工場角の辻を左折し国道の「野口農協前」交差点を横切ると大きな溜池がある。
駅(ウマヤ)ケ池といい、付近は律令時代の賀古駅(カコノウマヤ)があった場所だといわれている。

街道にもどり
教信寺に寄る。寺をもたず、ただひたすら念仏を唱えながら旅人や土地の農民を助け、「野口の念仏っあん」と親しまれた教信上人の草庵跡である。駅ケ池も教信上人の事績である。その後清和天皇(850〜880)が教信の徳をしのんで伽藍を建てて観念寺とし、崇徳天皇が大治元年(1126)に念仏山教信寺と改めた。山門前に新しい「西国街道」「風土記の道」と彫られた石標がある。野口小学校への道の入口に野口村道路元標があった。

道は県道386号を横切り、坂元集落を通り、別府川を渡って一旦「平野東」で国道2号に接するが、右側歩道をすすむとそのまま国道を左に分けて細道の旧道に入っていく。

道端に平野町内会・氷丘まちづくり実行委員会が立てた「ぶらり ええとこ ひおかの郷」の立て札が「旧山陽道」、「龍泉寺五輪塔」を案内してくれる。龍泉寺五輪塔は康永3年(南北朝時代)の古いものだ。

龍泉寺からまもなく、小川のほとりに赤い布を巻いた
胴切れ地蔵がある。女の子が大人のスカートを首からはいている様にみえる。首なし地蔵か、胴体より上のない地蔵かと思ったが、全身の地蔵菩薩が彫られているようで、赤地のスカートは胴の傷跡を隠すためであろうと思われた。

区域は加古川宿のあった寺家町に入る。黒壁に黒塗りの格子で固めた二軒長家が宿場町への近づきを感じさせる。一階の格子窓をさらに囲った連子格子は格子塀とでもいうのか。加古川宿場の中心地は駅前商店街の寺家町(じけまち)である。寺家町商店街(旧来の駅前商店街)のアーケードはベルデモール(現代のモダンな駅前商店街)と直角に交叉する産業会館JAビルから始まるが宿場の中心はつぎの小門口南交差点からの西半分に位置していた。

なかほどまで進むと左手の工事現場に
「慶応元年加古川駅御本陣跡」と見出しを貼り付けた大きな案内板が設置されている。加古川(賀古河)宿は、元弘2年(1332)倒幕計画に失敗した後醍醐天皇が隠岐に流される途中で宿泊したという古い宿場町である。商店街の終わりほど右手に陣屋跡山脇邸がのこされているが前庭の植え込みに隠れて建前はよく見えなかった。
本町ロードを一路西に進んで国道に合流したあと、加古川大橋をわたる。

日本毛織工場の先で国道と分かれて右の旧道に入り米田町平津集落を経て県道43号の高架をくぐり宝殿駅の前に出る。これより加古川市から高砂市に入る。街道は
加古川と姫路の間に高砂市の北部を横断するかたちで通っているだけで、その間に山陽道の宿場はない。

宝殿駅の西側で踏み切りをわたり、駅で分断された旧道にもどる。街道沿いに生石神社一の鳥居が立っている。
生石(おうしこ)神社とは石の宝殿ともよばれ、謎めいた巨石を神体とする。宮城県の塩釜、宮崎県高千穂の天逆鉾とともに「日本三奇」の一つとされている。寄ってみたかったが2km近くもありやめた。鳥居の前に常夜灯がたっているがこれは山片播桃が結婚記念に寄進したもの。角地の民家脇に「山片播桃幼時父と酒屋を営んでいた家跡」と記されたプレートをはめ込んだ石碑がある。つまり生家ということか。ともかく江戸後期の実学思想家山片播桃はここ、高砂市神爪(かづめ)に生まれた。

覚正寺、「神爪の五輪さん」を見て加古川バイパスをくぐり、
魚川橋で法華山谷川をわたり、阿弥陀町魚橋集落に入る。安楽時、正連寺をみて魚橋西交差点(阿弥陀歩道橋)で国道2号を斜めに横切る。

阿弥陀町
北池集落に入り鹿島川と県道395号を渡り、阿弥陀小学校をすぎたあたりで左手に明治天皇御遺跡地蔵院がある。山陽本線曽根駅手前の高架下に道標が4基集められていた。金網と自転車を避けて目的物だけを撮るのはけっこうむずかしい。曽根駅前を右にカーブして国道豆崎信号手前の細道を左にはいってそのまま国道を横切って行く。豆崎集落の中を通り、播州倉庫の手前で高砂市をぬけ、姫路市に入る。

(2007年5月)

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