日光御成街道(岩槻街道)



皇居−本郷王子十条岩淵川口鳩ヶ谷大門岩槻杉戸

いこいの広場
日本紀行



将軍が日光に詣でるときは、江戸城大手門を出て、
北に向かって神田橋を通り、筋違見付けで日本橋を発した中山道に合流した。しばらく中山道をたどったあと、本郷追分でわかれ、ひとり本郷通り−北本通り(国道122号線)を北上し、赤羽岩淵で荒川をわたって川口宿にはいり、鳩ヶ谷、大門、岩槻、幸手を経て日光街道に乗った。大手門から幸手までを「御成道」あるいは「御成街道」とよぶ。この道は古く源義経、頼朝が通った鎌倉古道(中道)でもある。岩槻城に通じる道であるため岩槻街道ともよばれた。



大手門

パレスホテルの向かいに見えるのが江戸城の正門、大手門。代表的な枡形門で、堀に面した高麗門と、石垣で囲った正方形の区画(桝形)を直角に曲がる位置に構える櫓門とで構成される。高麗門を突破してきた敵軍騎馬隊は一瞬次の行き場を失って狭い囲い地に立ち往生する。櫓の銃眼からはおもしろいほど敵の人馬を射殺せた。渡櫓の門柱は鉄鋲で固められ、まるで鎧姿のいでたちである。震災、火災などで再建を繰り返し、現在の構築物は昭和戦後のものだが、さすがにロイヤルパレスの建物だけあって、環境もすばらしく見ごたえがある。

御成街道の始発点を確認する。門の前に橋はない。そのまま外国ビジネスマンが行き交う大手町交差点まで進み、左に曲がって日比谷通りを北に向かう。日本橋川に架かる神田橋で、通りは本郷通りと名を変える。ここにも枡形の神田橋門があった。


神田橋


長さが幅よりも短い超短足の橋だ。橋を渡った右手に、「物揚場跡」の小豆色した石碑があり、「日本橋川水運の物揚場標石ここに出土す。往時をしのぶよすがとして後世に伝える  昭和58年3月  千代田区」と彫ってある。付近に建っている「内神田一丁目」の町名由来板も参考になる。

江戸時代、神田橋のたもとのこの界隈には、荷揚げ場がありました。徳川家康は、江戸に入るとすぐに江戸城の築城と町づくりを始め、城を囲む御堀(現・日本橋川)はそのための建設資材などを運ぶ水路として活用されました。古い地図を見ると、神田橋付近に「かしふねあり」と記され、ここが水運の拠点だったことがわかります。
 神田橋は江戸城外郭門のひとつで、
上野寛永寺や日光東照宮への御成道(将軍の参詣経路)となっていました。このような要所であったため、ここには明治のころまで建造物は何もありませんでした。明治初期の地図には交番と電話があるだけです。 以下略     神田橋町会

そこから、橋の東側の対岸を振り返ると、高速道路の下に隠れるようにして枡形のなごりと思われる石積みの川岸が見える。昔はそこから橋が出ていた。

小川町交差点で靖国通りを東にとる。まっすぐ行けば聖橋にでて、神田明神前で中山道に出られるのだが、聖橋は関東大震災後にできた新しい橋で、当時神田川を渡る最寄の橋は筋違橋か昌平橋だった。将軍としては、警備の整っている筋違御門を通っていくのがルールだった。
御成街道は外堀通り(都道405号)をこえた歩道橋の先で靖国通りを右に分け二股を直進すると交通博物館の西側で須田町から来た旧中山道と合流する。

ここに江戸時代、筋違見附があり、旅人は筋違橋を渡って神田川を越えた。その橋はもうない。この三角地帯には古道と鉄道の歴史が埋まっている。交通博物館はその墓守だ。

見事なアーチを埋め尽くす旧駅舎の赤レンガ壁を背に、人目につかない説明板が一人寂しく立っている。昭和51年という古い立て札だが、「御成道」を説明している貴重な資料である。

御成道
「御府内備考」に「御成道、筋違外(すじかいそと)広小路の東より上野広小路に至るの道をいう」とあります。筋違は筋違御門のあった所で、現在の昌平橋の下流50mの所あたりに見付橋が架かっていました。御成道の名は将軍が上野の寛永寺に参墓のため、江戸城から神田橋(神田御門)を渡り、この道を通って行ったからです。見附内の広場は八つ小路といって江戸で最も賑やかな場所で明治時代まで続きました。八つ小路といわれたのは、筋違、昌平橋、駿河台、小川町、連雀町、日本橋通り、小柳町(須田町)、柳原の各口に通じていたからだといわれます。また、御成道の道筋には武家屋敷が多くありました。江戸時代筋違の橋の北詰めに高砂屋という料理屋があり庭の松が評判であったといいます。明治時代には御成道の京屋の大時計は人の眼をひいたようです。また太々餅で売出した有名な店もありました。昭和51年3月  千代田区

江戸時代ここに筋違橋と見付門があって江戸市中を出入する人々を監視していた。筋違という名は日本橋からきた中山道と大手門−神田橋から来た上野御成道が見付け前の八つ小路で斜めに交差していたことによる。


昌平橋−筋違橋−万世橋の位置と名前の変遷を語るのは極めてややこしい。

@江戸時代、筋違見付けに付随して筋違橋という名の木橋が架けられていた。明治になって見付が廃止されたとき、枡形に使われていた石材を利用して、筋違橋を万世橋という石造りアーチ橋に改修した。万代(よろずよ)橋、また眼鏡橋とも呼ばれた。

江戸時代 昌平橋 筋違橋 ーーーー

A江戸時代、筋違橋の50m上流にあった昌平橋は、明治になって相生橋と改称したものの、
明治6年(1873)神田川大洪水で落橋した。

明治5年 相生橋 万世橋 ーーーー
明治6年 ーーーー 万世橋 ーーーー

B現在の万世橋の位置に昌平橋を架けた。

明治??年 ーーーー 万世橋 昌平橋

C明治32年、流失した昌平橋が再架設され、Bの「昌平橋」は「新万世橋」に変更させられた。
明治32年 昌平橋 万世橋 新万世橋

D明治36年、Cの新万世橋は鉄橋に改架されるとともに、「万世橋」としてデビューすることになった。
これにともない@の古い「万世橋」は「元万世橋」と名乗り、引退する覚悟を決めた。


明治36年 昌平橋 元万世橋 万世橋

E明治39年、「元万世橋」は撤去され、橋は「昌平橋」と「万世橋」の2つになった。

明治39年 昌平橋 ーーーー 万世橋

旧中山道の筋違橋のつもりで昌平橋を渡る。橋の名は坂上の昌平校(湯島聖堂)にちなむ。昌平橋の方から東の万世橋方面西方の聖橋を眺めてみた。どちらの風景も広重流の画面を切り裂くような小気味よい遠近法で、よい眺めであった。

橋を渡りおえて左にとり、「大江戸助六太鼓」の宗家の前を通り過ぎて右に折れる。神田明神通りで国道17号線にもどり、道はゆるやかな上り坂をたどる。左の細道をのぞくと築地に沿った
昌平坂を同年輩と思われる二人連れがゆったりと降りていく後姿が見えた。俗界を隔絶する長城のようにのびる湯島聖堂の築地塀にそって坂をすすむと、右手におおらかな神田明神の参道が出迎える。

神田明神は天平2年(730)創建、場所は皇居の辺りにあった。天慶の乱(939年)に敗れた平将門の首が付近に葬られると天変地異の怪異が続き、延慶2年(1309)に将門公を祭神として合祀した。

元和2年(1616)、江戸城の表鬼門にあたる現在地に移転してきた。
漆の朱色もあざやかな随神門をくぐると、広くて清涼な境内があかるくひろがる。中央の社殿をはさんで左に日本一大きな石造りの大国尊像、右には獅子山、茶店の横にはガラス箱入りのからくり獅子舞が機械仕掛けの音楽にあわせて休む暇なく舞っていた。賽銭も機械仕掛けで受け取るように仕組まれている。高校受験を控えた中学生だろうか、3人の少年、少女がおみくじを互いに見せ合ってケラケラと、健康な笑い声をふりまいていた。

祭神1:「大己貴命(オオナムチノミコト)」大国主命、「だいこく様」。国土経営・夫婦和合・縁結びの神。
祭神2:「少彦名命(スクナヒコナノミコト)」「えびす様」。商売繁昌・医薬健康・開運招福の神。
祭神3:「平将門命(タイラノマサカドノミコト)平安時代末に活躍した武将で、関東の英雄。江戸東京の守護神。


こぎれいな本郷通りを歩いていく。心持ち学生の姿が多い気がしてくる。本郷2丁目交差点では数人の学生が通行人にビラを手渡す中で、一人の若者がマイクを口につけつつも目は原稿からひと時も離さず、一生懸命に何かを読み上げていた。左派系政党の宣伝だが、ひじょうに丁寧で穏やかな口調がむしろ初々しい。北に進むにつれ学生の数がさらに増してくる。

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本郷 

本郷3丁目交差点は学生街の中心地だ。そこにいくつかの老舗がある。左角にかねやす、右に藤むら。

交差点の南西角をレンガタイル貼りのモダンな「かねやす」ビルが占めている。一階は若い女性向きのブティックで、二階には歯医者が入っている。このビルのオウナー兼康祐悦自身、江戸時代の歯医者だった。
兼康祐悦という口中医師(歯科医)が、乳香散という歯磨粉を売出した。大変評判になり、客が多数集まり祭りのように賑った。(御府内備考による) 享保15年(1730)大火があり、防災上から町奉行(大岡越前守)は3丁目から江戸城にかけての家は塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺を禁じ瓦で葺くことを許した。江戸の町並みは本郷まで瓦葺が続き、それからの中山道は板や茅葺きの家が続いた。 その境目の大きな土蔵のある「かねやす」は目だっていた。
 『本郷も かねやす までは江戸のうち』  と古川柳にも歌れた由縁であろう。
 芝神明前の兼康との間に元祖争いが起きた。時の町奉行は、本郷は仮名で芝は漢字で、と粋な判決を行った。それ以来本郷は仮名で「かねやす」と書くようになった。  
  −郷土愛をはぐくむ文化財− 文京区教育委員会  昭和61年3月 

本郷3丁目の交差点から本郷通りのゆるやかな坂を上がっていくと東大の赤門がある。この間の坂道に、
「見送り坂」「見返り坂」という名が付けられた。本郷三丁目の「かねやす」を越えると江戸の外。罪を犯し江戸を追放された者はここで放たれた。坂下で親類縁者が見送り、去っていく者は坂を上ったところで見送り人を振り返った。浅草、吉野通りの泪橋ほどの悲痛はなかったろうと思う。

赤門は、安田講堂とともに、東大の象徴的建物だ。東大の象徴は大学受験の象徴でもある。それほどに、東大の存在は大きい。赤門は、文政10年(1827)徳川11代将軍家斉の第21女溶姫が前田家へ輿入れするときに建造された御守殿門である。切妻造の門の左右に、唐破風造の番所を置いている。溶姫は21女とも34女ともいわれて順位が定まらない。家斉に16人の側室がいて子供の数は50を越えると知って、途端に興味が失せた。

「東大正門」のバス停にきた。冬で銀杏並木は枯木のたちん坊だが、かえって奥に聳え立つ
安田講堂の見晴らしがよい。安保闘争で女子学生が殺され、ゲバ棒と棍棒が打ち合い、血が流され救急車が狂い走った。いつしか潮が引くように狂騒と自己陶酔は姿を消し、今はタテカン一つもなく、清潔なキャンパスを若くて健康な男女が親しく歩いている。乾いた枯れ芝の上で、二組の男女の群れが冷たい冬ひなたを楽しんでいた。

本郷通りにもどり、赤レンガと鉄柵の構内仕切り塀を眺めながら回想にふけって歩いていく。本郷弥生の交差点で風景の断絶がわれに返らせた。本屋、喫茶店、学生の数がめっきり少なくなった。
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追分

東大農学部前のおおきな三叉路が本郷追分で、そのまま行くのは日光御成街道、中山道はここを左に曲がる。追分の角にある
高崎商店は宝暦年間(1751〜64)の創業、両替商も兼ね「現金安売り」で繁昌し、深川から川口まで10店舗もの支店を有した資産家であった。店の二階を隠すように囲ってある青い垂れ幕には「SINCE1751」と、宝暦元年の西暦が示されてある。

本郷追分で中山道と別れたころから、大気中の東大の匂いが薄まるにかわって、通りの両側から薬草を焦がしたような香の匂いが漏れ漂ってくる気配がしてくる。江戸時代、度重なる大火の対策として、寺院を江戸城郊外に移したのだが、そのひとつが現在の向丘一丁目から本駒込にかけての地域だった。特に、うなぎ縄手(植木屋が多かったところからついた小苗木縄手(おなえぎなわて)がなまったもの)とよばれる街道沿いは寺町銀座通りというほどに、次々と寺への道が口を開けている。寺とは名ばかりで、民家と区別がつかないような廃寺どうようの建物もあれば、大きくても鉄筋コンクリート造りの冷えびえとした寺もある。本郷追分けから六義園の不忍通りまでの、たかだか1.5kmほどの御成道沿道に、地図で数えるだけで30もの寺があった。街道を右往左往しながら、目だったところを記録する。

浄心寺の入り口に歩道にはみ出るようにして、大きな布袋が道行く人を見下ろしている。普通、袋を肩にかけているものだが、ここの布袋は手のひらに大きな夏蜜柑を大事そうに握り締めていた。鮮やかな彩色が、なにかしら異様だ。

本駒込1丁目歩道橋の脇の天栄寺の門前に「駒込土物店(つちものだな)跡」の石碑がある。江戸時代、駒込のやっちゃ場があったところである。近村の農民が、野菜を担いで江戸に行く途中ここにあった大きなサイカチの木の下で休み、付近の住民がその野菜を買ったのが、その起こりで、土物は大根、にんじんなど土のついたままの野菜をいう。神田、千住と並ぶ江戸三大市場のひとつで、昭和初期に豊島青果市場へ移るまで300年以上も続いた。

目赤不動尊

西に「目赤不動尊」と彫られた大きな石柱が目に飛び込んできた。南谷寺には目赤不動尊が祀られている。「目赤」と「赤目」の違いに注意。

この不動尊は、もとは赤目不動尊といわれていた。元和年間(1615〜24)万行(まんこう)和尚が伊勢国の赤目山で、黄金造りの小さな不動明王像を授けられ、諸国をめぐり、今の動坂の地に庵を結んだ。寛永年間(1624〜44)鷹狩りの途中、動坂の赤目不動尊に立ち寄った三代将軍家光から、現在の土地を賜り、目赤不動尊とせよとの命を受け、この地に移った。それから目赤不動尊として、いっそう庶民の信仰を集めたと伝えられている。(中略)江戸時代から、目赤目白目黄目青目黒不動尊は五色不動として、その名が知られている。目白不動尊は戦災で豊島区に移るまで区内の関口2丁目にあった。 
  天台宗南国寺 文京区本駒込1−20−20  文京区教育委員会  平成3年3月

江戸五色不動とは、江戸府内の名ある不動尊を指定して江戸城の東西南北中央の五方角を色で示したものである。不動尊を身体ないしは目の色で描き分けることは、密教が盛んになった平安時代にはじまった。

目赤 天台宗  南谷寺  文京区本駒込1丁目
目白 真言宗豊山派  金乗院  豊島区高田2丁目
目黄 天台宗  永久寺   台東区三輪2丁目
目青 天台宗  数学院   世田谷区太子堂4丁目
目黒 天台宗  滝泉寺(ロウセンジ) 目黒区下目黒3丁目

隣の養昌寺には、樋口一葉がひそかな想いを抱いていた憧れの人、半井桃水の墓がある

吉祥寺 

東に、築地塀をわずかに残した、重々しい吉祥寺の山門が現れる。冬平日の昼時、参道の石畳を張り替えている石工の他、誰もいない。太田道灌が江戸築城のとき井戸を掘ったところ「吉祥増上」の刻印が出たので和田倉門に「吉祥庵」を設けたのがはじまりと伝えられている。栴檀林(駒沢大学の前身)をもち、常時千人の学僧がいたという。中央線の吉祥寺はこの吉祥寺の門前の農民が新田を開いたことから名付けられた。

井原西鶴の『好色五人女』では、八百屋お七一家は吉祥寺に避難した。門をくぐった参道のすぐ左手に、「お七 吉三 比翼塚」が建っている。比翼とは、二羽の鳥が翼をならべかさねるさま、比翼塚は「情死したりした相思の男女をいっしょに葬った塚」のこと(岩波国語辞典)。「紀行文愛好家」の有志が、悲劇的な結果に終わった二人を偲んで、昭和41年のお七生誕300年を記念して建てたものである。余計なことだが、お七は現代的な意味での「好色女」でないこと、いうまでもない。人妻、独身を問わず、恋に命をかけた熱情の女性5人
(お夏、おせん、おさん、お七、おまん)が取り上げられている。

好色5人女 巻一 巻二 巻三 巻四 巻五
姿姫路清十郎物語 情入を入れし樽屋物語 中段に見る暦屋物語 恋草からげし八百屋物語 恋の山源五兵衛物語
舞台 兵庫、室津・姫路 大坂、天満橋 京都、四条通り 東京、駒込 鹿児島
女親 姫路米問屋、但馬屋九左衛門 貧農 室町商家 八百屋太郎兵衛 琉球屋
但馬屋娘お夏16歳 薬種屋女中、おせん15歳 今小町おさん 一人娘お七16歳 跡取り娘おまん
男親 室津酒屋、和泉清左衛門   暦屋大経師 武士 実親武士、養親両替商
息子「清十郎」25歳 @樽屋職人
A麹屋長左衛門
@跡取息子、以俊
A手代、茂右衛門
小野川吉三郎16歳 源五兵衛(ホモ)、両替商に養子
出会い 勘当された後、奉公先にて @老女の仲介
A法事の手伝い
@男の一目ぼれ
A女中の恋の手助け
花火大会
火災避難先での再会
おまんの一目ぼれ
関係 商家の娘と手代、主従の恋 @職人樽屋と女中の恋
A人妻と得意先主人
@幸せな結婚
A女主人と手代・女中の彼氏
商家娘と寺小姓 ホモ男と商家跡とり娘
障害 九左衛門の結婚反対
不倫関係(後家のいじめ) 子無夫婦、勘違い 親の反対 ホモ相手
アクション かけおち 不義密通未遂 ミイラになったミイラとり
駆け落ち、偽装自殺
自宅放火 出家したホモ男と、男装しておしかけ結婚
挿話 700両盗難事件 伊勢抜け参り、薬種屋手代の誘惑、
麹屋後家の嫉妬
夫出張中のできごと
女中りんと手代の恋
近江、丹後逃避行
親留守宅の逢引
小坊主珍念の裏切り
ホモ友達八十郎の死
両替商の倒産
結末:女 狂乱 自殺 死刑、りんも連座死刑 引き回し・火刑 琉球屋を継いで幸せ
結末:男 冤罪(窃盗)で死刑 引き回し・獄門 死刑 出家 同上
比翼塚 姫路、慶雲寺     駒込、吉祥寺 関係なし

おなじく通りの東側、一筋入ったところに
富士神社がある。本郷の名主が駿河の富士浅間神社を本郷に勧請したことに始まる。江戸時代、古代からの富士山信仰から発展した富士講が大流行した。毎年6月の富士山開きの日にあわせ町の代表を富士山に登拝させ、留守を預かる市民は、本社のほか、護国寺の音羽富士、白山神社の白山富士など、「江戸の富士」に詣でた。石段の両側の石碑に彫られた文字には、ことごとく赤い絵具が流し込まれている。

街道沿いに、中山道で見たJAの説明板がたっていた。滝野川のニンジン、ゴボウの後を受けて、今度は駒込のナスである。

江戸・東京の農業  駒込ナス
 幕府がおかれた事で、江戸の人口は急増しました。主食のお米は全国から取り寄せましたが、一番困ったのは新鮮な野菜の不足で、江戸城内でも野菜を栽培していた記録があります。多くの大名たちは国元から百姓を呼び寄せ、下屋敷などで野菜を作らせました。このようにして、江戸近郊の農村では換金作物として、ナスやダイコン、ゴボウなどの野菜栽培が盛んになり、当富士神社周辺でも、各種の野菜栽培が生産されるなど、大消費地江戸の供給基地として発達しました。とくに、ナスは優れたものが出来たことから「駒込ナス」として江戸庶民に好まれ、徳川幕府が発行した「新編武蔵風土記稿」にも記されています。農家はナス苗や種子の生産にも力を入れるようになり、タネ屋に卸していました。ここ巣鴨駅の北西にある旧中山道にはタネ屋が集まり、さながらタネ屋街道の趣をなし、駒込、滝野川など周辺の農家が優良品種の採種と販売に大きく貢献していました。

   平成9年度JA東京グループ  農業共同組合法施行50周年記念事業  
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六義園(りくぎえん)

六義園へは、上富士前交差点から一筋北に上がったところを左に入っていく。元禄8年(1695)、五代将軍徳川綱吉より下屋敷として与えられた駒込の地に、大老柳澤吉保が7年の歳月をかけて桂離宮の様式を取り入れて造らせた。明治時代に入り三菱創設者岩崎弥太郎の所有となった後、昭和13年に東京市に寄付された。和歌の趣味を基調とする回遊式築山泉水の大名庭園で、小石川後楽園とともに江戸の二大庭園に数えられた。

庭園の名称は、中国の詩の分類法(詩の六義:風・賦・比・興・雅・頌)にならった古今集の序にある和歌の分類の六体(そえ歌、かぞえ歌、なぞらえ歌、たとえ歌、ただごと歌、いわい歌)に由来したもの。柳澤吉保自身の撰した「六義園記」では、日本風に「むくさのその」よ呼んでいたが、現在では漢音読みで「六義」を「りくぎ」と読む習わしから、「りくぎえん」と読むようになった。

内庭大門をくぐると目の前にあらわれる
シダレザクラの大木は、高さより枝幅のほうが長い。3月下旬に枝いっぱいの見事な花を咲かせる。中の島に築かれた妹(女)山・背(男)山を常にみながら池の周りに、出汐の湊・滝見の茶屋・吹上茶屋・つつじ茶屋・藤代峠・渡月橋など、景勝地を配置した構成は、回遊の景色をあきさせることがない。ただ、園内に巣くうカラスが騒がしかった。頭上を低空飛行する嘴鋭い真黒装束の鳥類は、その声に加えて確かに不気味である。頭をつつかれたら、疾走する新幹線にこすられたみたいな恐怖と無力感を感じることだろう。けなげで愛らしい小鳥たちがカラスに駆逐されたのであれば、カラスは名園の唯一の汚点というべきである。

染井通り

六義園の北側角は駒込交差点で、駒込駅の南にあたる。ここにも駅に近くて立派な六義園の入り口があるのに、門は閉じられていた。枝垂桜のライトアップ期間中だけ開かれる。交差点を左斜めに入っていく道が染井通りで、
ソメイヨシノの故郷である。江戸時代この周辺の染井村は植木や茄子の産地であった。庭師や植木職人が集まるようになって、染井村は植木屋の里として知られるようになった。御成街道の整備とともに、町屋も並びはじめ、植木屋のなかには大きな観光植物園を営まむ者もあらわれた。

染井通りに下屋敷があった藤堂家に、伊藤伊兵衛という江戸随一の植木屋がいて、飛鳥山の桜や滝野川の紅葉の植栽を手がけていた。江戸末期、野生のオオシマザクラを母体に新種の桜をつくり、吉野桜と名づけて売り出したところ、数年にして江戸一帯にひろまった。吉野桜では吉野のヤマザクラと混同するというので、
「染井吉野」と改名した新種桜は全国へ広まり、今では桜の代名詞になっている。駒込駅北口前の「染井吉野桜記念公園」にも、伊藤伊兵衛の庭を描いた絵とともに由緒を見ることができる。

通りの中ほどに、子狐がひなたぼっこをしている「苗木の里」の石碑や、ブロック塀に埋め込まれた「大師道」の道標がでてくるが、苗木屋風の店は見かけなかった。路地を右に入った奥に小さな染井稲荷神社がある。

『智恵子抄』  レモン哀歌
そんなにもあなたはレモンを待ってゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとった一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まった
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう 
道なりにすすむと染井霊園に突き当たる。桜の名所としても知られる染井霊園はこれでも、都立霊園の中で最も規模が小さい霊園だそうで、ここには高村光雲・光太郎・千恵子、岡倉天心、二葉亭四迷、水原秋桜子、浜尾四郎など、多くの著名人の墓がある。
そのなかで、私は智恵子を選んだ。「1種ロ6号1側」という、暗号のような「住所」を求めてたどりついたのは高村家の先祖代々の墓だった。赤芽垣で囲まれた高村家の墓碑は光雲の建てたもので、高村家一族15人の法名が刻まれている。左から5番目が智恵子、遍照院念誉智光大姉。昭和13年(1938)10月5日没。その左が光太郎。法名、光珠院殿顕誉智照居士。昭和31年(1956)4月2日。『智恵子抄』は、思春期の少年に純情な涙をいくど流させたことか。奥州街道でも阿多多羅山が望める辺りで又、彼女や光太郎と出会えることと思う。

  
あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。

墓石の右手前には、「花をさすと人はいへどもわがつくる壷はもろ手にかき抱くべき 豊」の銘が自然石にはめ込まれている。「豊」とは光太郎の弟、鋳金家で人間国宝になった豊周(とよちか)のこと。高村家は芸術家一家であった。

霊園のさらに奥にある慈眼寺には、芥川龍之介や谷崎潤一郎の墓がある。そういえば、染井通りに「芥川」の名を見かけて、珍しい姓だなと思いながら通り過ぎたが、慈眼寺の墓とは関係がないらしい。谷崎潤一郎の墓は、京都左京区鹿ヶ谷の法然院にもある。その先は国道17号線沿いの「駒込土物店」の末裔、巣鴨青果市場である。横に由緒を記した説明板があった。

巣鴨薬園跡
このあたりは、伊勢国津藩主藤堂和泉守家の抱え屋敷の一部であったが、明和6年(1769)に伊奈半左衛門預かりの幕府御用林となった後、寛政10年(1798)頃に幕府に仕えた渋江長伯が管理する巣鴨薬園となった場所である。(中略)巣鴨薬園は別名綿羊屋敷とも呼ばれていた。これは渋江長伯が文化14年(1817)に日本で初めて綿羊を飼育し、羅紗織の試作を行ったことからきたものとされている。明治維新後、巣鴨薬園は廃止されてしばらくの間私有地となっていたが、昭和12年(1937)3月、東京市中央卸売市場豊島分場が開設され、その後東京都中央卸売市場豊島市場となり現在に至っている。  平成14年3月   東京都豊島区教育委員会

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旧古川庭園

六義園をあとにし、御成道が大きく左にカーブする左手が「旧古河庭園」である。以下、パンフレットより。

武蔵野台地の斜面と低地という地形を活かし、北側の小高い丘には洋館を建て、斜面には洋風庭園、そして低地には日本庭園を配したのが特徴です。 この土地はもと明治の元勲・陸奥宗光の別邸でしたが、宗光の次男が古河財閥の養子になった時、古河家の所有となりました。(当時の建物は現存していません)。
 現在の洋館と洋風庭園の設計者は、明治から大正にかけて、鹿鳴館、ニコライ堂、旧岩崎邸庭園洋館などを手がけ、日本の建築界の発展に多大な貢献をした英国人建築家のジョサイア コンドル(1852〜1920)です。日本庭園の作庭者は、京都の庭師・植治こと小川治兵衛(1860〜1933)で、洋風庭園にも勝るとも劣らない魅力的な名園を造り上げています。旧古河庭園は、大正初期の庭園の原型を留める貴重な存在であり、昭和57年に東京都の名勝に指定されました。

発行:(財)東京都公園協会 東部支部

以下も同じ。

石造りの洋館(大谷美術館)は英国貴族の邸宅にならった古典様式で、天然スレートぶきレンガ造り。外壁は伊豆真鶴産の赤味をおびた新小松石(安山岩)で覆われており、雨にぬれると落ち着いた色調をかもしだす。
テラス式の洋風庭園に植えられたバラは、春と秋に見事な大輪の花を咲かせ、洋館の風情と相まって異国情緒を満喫させてくれる。
日本庭園の中心は心字池。優雅な曲線が心を癒す。大滝、枯滝、大きな雪見燈篭が周囲の緑に映えて、付近の風情をいっそう深いものにしている。

庭園面積は六義園が約88、000uに対し、旧古河庭園は31,000uで、およそ3分の1に過ぎない。江戸時代の大名庭園と、近代庭園の違いが、面積の差異としても表れている。カラスの有無もそうであるのか、おもしろい。

「だんご」と書かれた布切れが風に身をまかせているのは御菓子処「平塚亭」で、傍の細長い、駐車場を兼ねた参道の奥に
平塚神社がある。どこから出てきたのか黒猫が参拝者の礼拝作法を監視しているようであった。後三年の役が終わって、奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れた八幡太郎源義家を祀っている。当地は、平安時代に豊島郡を治める郡衙のあった場所らしい。源義家はこの地の城主豊島義近に鎧一領を与えた。義近がこの鎧を埋めて、城の鎮守としたのが平塚神社の起こりである。鎧を埋めた塚が平らだったことから平塚となった。

西ヶ原一里塚は南北線「西ヶ原駅」の近くにある。左右の車の流れを分ける分離帯のようになっているのは実は南の塚で、南行き車線にあたる旧街道の北にもう一つの塚がある。北行き一方通行車線は、旧道をはさむ一里塚を保護するために造られた片側バイパスである。大正時代、本郷通りの拡幅工事にあたり、一里塚を取り壊すことになったが、飛鳥山に住む渋沢栄一が近隣の住民を動かして一里塚を残すことに成功した。

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王子 

飛鳥山

王寺駅周辺は道路が上下左右に交錯し、JRと都電が鉄路を張り、加えて台地を二分する石神井川が谷を刻んだり地下にもぐったりして、複雑怪奇な様相を呈している。

一里塚からほどなく六石坂を緩やかに下っていくと、大きな三叉路の飛鳥山交差点にでる。左からでてきた明治通りは、ここで鉤型にまがり、王子駅の東側に抜け、溝田橋で南東に方向をかえて浅草方面に向かう。神田橋から始まった本郷通りはこの先中十条1丁目まで直進し、そこで御成街道と分かれて北西方向に西赤羽根6丁目まで行く。王寺駅の東側で、明治通りから派生して北に向かう122号線は、北本通りとなって赤羽・川口へ向かう。本郷通りと共にしてきた御成街道はここで、しばらく新道と離れ、十条までJR東北本線の西側に沿って商店街を歩いていく。

飛鳥山駅から王寺駅までの区間は、また、
都電荒川線の薄緑の車両が、すさまじい車の流れの仲間に混じって、くねくねとした坂道をヘアーピンカーブ形に行き来する場所でもある。1両編成の愛らしいチンチン電車をさまざまな角度からとらえられる撮影スポットとして、写真愛好家の間で人気がある。しかし運転士にとっては、都電荒川線最大の難所といわれており、途中で次の赤信号に引っかからずに坂を駆け上がるには、王子から信号が青にかわる前に発車しなければならないといわれてきた。都電王子駅で観察したところ、青信号に変わる前に黄色で左方進行の矢印が点灯した。つまり、運転士はただ粛々と信号に従っていればよいシステムになっている。

交差点の東側一帯が上野と共に桜の名所で知られる
飛鳥山公園である。江戸の人口が増えるにつれ、上野の山の混雑は手の施しようもなくなってきた。また上野は将軍家のお膝下ということで、花見時間は日中に限られ、歌舞音曲も禁止されて、十分に羽を広げられなかったという窮屈さもあった。徳川吉宗は音無川南岸の丘陵に目をつけ、上野に代る花見の名所として庶民に開放した。飛鳥山という名前は紀州出身の吉宗が紀伊新宮の飛鳥明神の分霊を祀ったところからつけられたという。


飛鳥山は台地の北崖に位置しており、昔ははるか筑波山が眺望できた。今は林の樹木を縫って金網がはられ、網目からのぞく景色は、崖下を線引くように延びるJRの鉄路とその背後のビルの白っぽい無機質な壁であった。飛鳥山周辺には、音無川(滝野川)や王子稲荷などもそろっており、日帰り観光地として大いに人気を集めた。

わが国最初の銀行や王子製紙をはじめ、数多くの企業を創立した、近代日本最大の経済人、
渋沢宋一は飛鳥山に広大な別荘を持っていた。今も文庫(青淵文庫)と接待用小亭(晩香廬)の建物が残っている。庭にはそんな偉人とは思えないようなやさしい顔をした銅像があった。園内には渋沢史料館の他、「紙の博物館」がある。戦後間もない昭和25年に設立された世界有数の紙の総合博物館である。王寺駅東側のサンスクエアの一角に「洋紙発祥の碑」がたっている。職を求めて旧板橋宿の住民がこの地へ通う道、王子新道をきりひらいたという話を中山道で聞いた。

洋紙発祥の碑
日本の洋紙生産は、明治6年(1873)ヨーロッパの先進文明を視察して帰国した渋沢栄一が「抄紙会社」を設立し、ここ王子に製紙工場を作ったことから始まりました。田園の中、煙を吐くレンガづくりの工場は、当時の錦絵にも描かれ、東京の新名所になりました。その後日本の製紙業に大きな役割を果たしましたが、昭和20年(1945)、戦災によりその歴史を閉じました。この碑は、工場創立80周年を記念し、昭和28年、その跡地に建てられたものです。  日本製紙株式会社

飛鳥山公園内に、難解で有名な碑文があり、その横に、なぜ難解であるかの説明板がある。

飛鳥山碑
八代将軍徳川吉宗は、鷹狩りの際にしばしば飛鳥山を訪れ、享保5年(1720)から翌年にかけて、1270本の山桜の苗木を植栽した。元文2年(1737)にはこの地を王子権現社に寄進し、別当金輪寺にその管理を任せた。このころから江戸庶民にも開放されるようになり、花見の季節には行楽客で賑わうようになった。この碑文は、吉宗が公共園地として整備したことを記念して、幕府の儒臣成島道筑によって作成されたもので、篆額は尾張の医者山田宗純の書である。碑文の文体は中国の5経の一つである尚書(「書」または「書経」ともいう)の文体を意識して格調高く書かれており、吉宗の治世の行き届いている太平の世であることを宣伝したものと考えられる。碑文には元亨年中(1321〜3)に豊島氏が王子権現(現在の王子神社)を勧請したことから、王子・飛鳥山・音無川の地名の由来を説いて、土地の人々がこれを祀ったこと、寛永年間に三代将軍家光がこの地に改めて王子権現社に寄進した経緯などが記されている。異体字や古字を用い石材の傷を避けて文字を斜めにするなど難解な碑文であり、「飛鳥山何と読んだか拝むなり」と川柳にも読まれたほど、江戸時代から難解な碑文としてよく知られている。   平成9年3月31日 建設   東京都教育委員会

御成街道は本郷通りから明治通りに乗り換えて、飛鳥山の南裾を北に進み、
「音無橋」の前で右下がりの坂を下ってJRガードの手前で細い路地を左に入っていく。

石神井川・音無川・滝野川

JR親水公園口の前から音無橋にかけて、石神井川の流れの一部を取り入れて浄化し、小滝、水車、木橋、桜などを配して公園を整備した。昭和記念公園、日比谷公園、上野公園、水元公園、代々木公園とともに、 日本の都市公園100選に選定されている。昔はこの
音無川に幾つもの滝があって、春の桜、秋のもみじと、行楽客で賑わった。今はコンクリートの高い堤防に囲われ、流れを楽しむ場所は、ところどころにかかっている橋の上から眺めるほかない。音無橋の下で石神井川は地下にもぐり、王寺駅の東側、堀船一丁目で再びその姿を現す。高速道路の下になって、日本橋川のような扱いを受けている。

親水公園口から親水公園を望んで、その背景にそびえる大木が
王子神社の大イチョウで、目通り幹囲は6.4m、高さは19.7m。イチョウの下に青銅色の社殿屋根がのぞいて見える。本殿は徳川幕府により寛永11年(1634)に建てられたが、第二次大戦の空襲で焼失し、現在の権現造りの社殿は昭和38年に再建されたものである。鳥居近くの石碑に「若一王子縁起絵巻」よりとられた王子田楽の絵がある。毎年8月、王子神社の例祭で、神前に奉納される伝統芸能で、花笠をつけ、楽にあわせて踊るものだ。社域の片隅に朱色の祠があった。「髪の祖神」関神社という。寄進者の名を赤々と彫った石柱をみると、床山とかつら屋である。祭神は蝉丸、逆髪姫と古屋美女――と、それらの奇妙な名前のとり合わせが益々興味をそそった。
蝉丸公は延喜帝の第4皇子にして和歌が巧みなうえ、琵琶の名手でああり、又髪の毛が逆髪である故に嘆き悲しむ姉君のために侍女の古屋美女(ふるやのびじょ)に命じて「かもじ・かつら」を考案し髪を整える工夫をしたことから「音曲諸芸道の神」並びに「髪の祖神」と博く崇敬を集め「関蝉丸神社」として、ゆかりの地滋賀県大津の逢坂山に祀られており、その御神徳を敬仰する人達が「かもじ業者」を中心として江戸時代ここ王子神社境内に奉斎したのが、当「関神社」の創始なり。  昭和20年4月13日戦災により社殿焼失せしが、人毛業界これを惜しみて全国各地の「かもじ・かつら・床山・舞踊・演劇・芸能・美容師の各界に呼びかけ浄財を募り昭和34年5月24日これを再建せり。  王子神社宮司

親水公園の右側にみえるビルは新柳屋ビルで、その三階に江戸時代から続く料亭
「扇屋」がある。音無川沿いには水茶屋や料亭が並び、中でも扇屋と海老屋は有名だった。扇屋は今でも江戸時代の製法を受け継いだ「釜焼玉子」焼きを売っている。卵16個を使い、30分かけて焼き上げるという。ビルの正面入り口に、厚焼き玉子を売る売店がある。4月の土曜日、妻と飛鳥山の花見に来たついでに寄ってみたところ、焼きたてを売っていたので厚焼き玉子一個630円を買って帰った。甘い汁をたっぷり吸い込んだ厚焼き玉子はその日の二人の夕食に十分だった。売り子の女の子に聞いたところでは、料理店は3年前に止めたということだった。現在の玉子焼き業務は、ビル貸し業の副業みたいな存在だろう。

森下通り商店街を進むと、角から順天学園の若やいだ声が聞こえる交差点に出る。左におれる上り坂は
「権現坂」と名がついていて、王子神社の鳥居付近までのぼっていく。 交差点の手前左手に小さな石標が電柱の傍に建っている。「三本杉橋」の親柱だ。古地図をみると、森下通りに沿って音無川の支流が走っていて、この交差点にあたるところに三本杉橋が架かっていた。旧街道はこの交差点を左斜めに進んで「王子大坂」を上っていく。

王子大坂
飛鳥山に沿って東におりた
岩槻街道は、 石神井川を渡って左に曲がり、 現在の森下通りを抜け、三本杉橋の石の親柱から北西に台地を登るこの坂が王子大坂である。 江戸時代、徳川将軍の日光社参の道で日光御成道と呼ばれた。登リ口に子育地蔵があったので地蔵坂とも呼ばれ、 昔は縁日で賑わった。 また、坂の地形が海鳥の善知鳥(うとう)の嘴のようなので、「うとう坂」の名もある。

坂の麓にある子育て地蔵の脇に、氏子の手になるものであろう、素朴な由緒書きがあって、地蔵の御利益として縁結びがあることをいいたがっている。理由がまた素朴だった。皇女和宮が中山道から江戸入りするにあたって、板橋の縁切り榎をさけるため、川口から日光御成道にはいってここを通ったからだという。板橋から川口への道順については触れていない。ちなみに、板橋区教育委員会の説明では、「和宮の折には榎を菰で包み、その下を通って板橋本陣に入った」とある。

王子大坂の急坂を上がりきったところで、たねや榎本徳次郎商店の前を通る。旧中山道の滝野川でみた、三軒家「榎本重左衛門」の分家であろう。本郷通りに出る直前で、右に曲がって王子稲荷の坂をくだると左手に紅白の幟が賑やかな、神社入り口が見えてくる。

王子稲荷は関八州の稲荷の総本山である。昔は地名にちなんで岸神社と称していたが、元享2年(1322)に豊島氏が王子権現を勧請し、このあたりが王子という地名になってから王子稲荷と呼ばれるようになった。商売繁盛のほかに、火防せ(ひぶせ)の神としても信仰を集め、毎年2月の初牛に「火防守護の凧守」が授与されるようになり、境内では縁起の凧を売る凧市が開かれるようになった。何にもまして有名なのは、大晦日に開かれる狐の関東年次総会であろう。ここに参集するまえに、狐達はまず、別のところで正装に装束を改めた。その場所へ行ってみよう。

王寺駅北口から北本通りを数分あるくと、街灯に小豆色の布地に「おうじぎんざ」と白抜きした旗がゆれている。路地を一本はいると角に装束稲荷がある。はためく赤幟を払って祠に近寄ると左右に、それぞれ玉と鉤をくわえたスリムな狐が待ち受けている。サラリーマンや若い女性、近所の主婦や店主風の男性など、ありふれた平日の真昼でも、入れ替わり立ち代って寄っていく人が多かった。広重の錦絵では、ここから田畑越しに王子稲荷神社の森が望めたはずだが、いまや視界は50mも広がらない。毎年大晦日になると関東中の狐たちが、ここにある榎の大木の下に集まってきた。

かつてこの辺りは一面の田畑で、その中に榎の木がそびえ立っていました。毎年大晦日の夜、関東各地から集まってきた狐たちがこの榎の下で衣装を改めて王子稲荷神社に参詣したといういいつたえがあることから、木は『装束榎』と呼ばれていました。狐たちが灯す狐火によって地元の人々は翌年の田畑の豊凶を占ったそうです。 江戸の人々は、商売繁盛の神様として稲荷を厚く信仰しており、王子稲荷神社への参詣も盛んになっていました。やがて、王子稲荷神社の名とともに王子の狐火と装束榎のいいつたえも広く知られるようになり、左の広重が描いた絵のように錦絵の題材にもなりました。 昭和4年(1929)、装束榎は道路拡張に際して切り倒され、装束榎の碑が現在地に移されました。後に、この榎を記念して装束稲荷神社が設けられました。平成5年(19993)からは、王子の狐火の話を再現しようと、地元の人々によって、王子「狐の行列」が始められました。毎年大晦日から元日にかけての深夜に、狐のお面をかぶった裃姿の人々が、装束稲荷から王子稲荷までの道のりをお囃子と一緒に練り歩く光景が繰り広げられます。  
    平成9年3月 東京都北区教育委員会

王子稲荷神社の境内は幼稚園が占領していて、神社の鳥居は幼稚園関係者でなければ通ることができない。入り口は、しかたなく、横道の稲荷坂の中腹に設けられた。正門が面する森下通りを西に進むと左手に「名主の滝公園」の古風な門構えが現れる。王子村の名主であった畑野家が、その屋敷内に滝を開き茶を栽培して、一般の人々に開放したことからはじまった。園内に池や茶室をしつらえてあるが、六義園のような精錬された庭園でなく、錆びれた趣があるのは大名と名主とのちがいだろうか。安藤広重が描いた「男滝女滝」を含めて、4つの滝を再現してある。この辺一帯は、飛鳥山ー上野まで続いている武蔵野台地が北側に落ちこむ崖面の一部で、音無川を中心とした水流が形成する滝の多い地形ではあった。念のため管理人のおじさんに聞いてみた。
「この滝の水源はどこでしょうか」
「ポンプでくみ上げて巡回させているのです」

北側の公園の北端をまわりこむようにある「三平坂」をあがって、能登屋豆腐店の横の本郷通り・旧御成道にでる。「中十条1丁目」交差点で、神田橋以来付き合ってきた本郷通りに別れをつげ、御成街道は直進方向の細い通りに入っていって、十条−赤羽へと向かう。

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十条 

それまでの表通りの晴れやかな雰囲気から、次第に郊外の裏通りをゆく趣が濃くなっていき、沿道の家並みも、細い通りをいく人や車も、なぜか遠慮がちに見えてくる。左手にあらわれた地福寺の参道をのぞいて見た。参道の右端に、苗を植えつけたばかりのまばらな垣根が設けてある。碑に「茶垣の参道」とあった。王子は茶の産地でもあったらしい。

中十条2丁目交差点の左は歩行者天国の
「中十条中央商店街」で、JR京浜東北線中十条駅と埼京線十条駅を結ぶ繁華街である。「演芸場通り」という赤い旗のほうがむしろ目につくほどで、商店街のほぼ中間地点に篠原演芸場がある。浅草木馬館とならんで、東京に二つしかない大衆演劇場だそうだ。むかし、八日市の田舎には毎年このような旅芸人がやってきて、竹を半分に割ったカスタネットのような道具を器用に鳴らしていたものだった。中学のころ、同級の早熟な女の子が劇団の座長にあこがあれて一緒についていくという一大事件が起こった。一日、行方不明になった女の子の名を呼んで、クラス総出でアカマツ林の中を探しにいったものだ。そんな昔を思い起こさせるような一角であった。  

荒川小学校の横にある中十条公園内に、御成街道と富士塚の説明碑がある。御成街道の説明は目新しくもなかったが、
富士信仰についての説明は、いままで見たものの中で、最も詳しく要領を得たものだった。個人の名がでてきたのは初めてである。
富士講と富士塚
富士山は水神や火神のやどる霊山として古来から人々の信仰を集めてきました。室町時代、富士山へ登拝すると数々の災難から逃れることができると人々から堅くしんじられるようになり、富士山への参詣を通じた富士信仰が形成されてきます。
 富士講は、こうした信仰を背景に江戸時代、関東地方を中心に都市や村落社会に結成された庶民の慣習的な信仰団体です。
 講による富士信仰の基礎となったのは、江戸時代初期に江戸市中で呪術的な医療活動によって流行病の治癒につくした
畫行藤仏(長谷川武邦)という修験道系統の修験者の活動です。また、中期には村上光清食行身禄(伊藤伊兵衛)といった富士信仰中興の修験者があらわれます。特に身禄は、幕府の政治・経済政策の混乱、封建制の身分秩序による人々の苦難が「弥勒の世の実現」という富士信仰思想によって救済されると述べ、これを男女の平等や日常生活のうえで人としての守るべき規範の積極的実践という考え方から説きおこしていきます。
 こうした考え方は社会秩序の混乱や男女差別・身分的差別に苦しむ当時の人々に広く受け入れられ、各地に富士山に登拝できない人々のために遥拝所として富士塚が築造されるにいたりました。十条富士塚も、このような富士塚の一つで、江戸時代には毎年5月晦日と6月朔日、現在では毎年
6月30日と7月1日に富士山の開山にともなう祭礼が催され、露店が立ち並び、数多くの参詣者をあつめています。

筋違いに
十条富士塚があった。右に西音寺をみて、馬坂で環状7号線を横ぎる。道はなだらかな長い下り坂となって、JR京浜東北線と接するように降りていく。

途中に道路標識があって、清水坂の由来が記されている。かなり磨耗していたが、なんとか読めた。
十条の台地から稲付の低地に下る岩槻街道(旧日光御成道)の坂である。昔はけわしく長い坂道だったので十条の長坂などとも呼ばれた。切り通しの崖からはたえず清水が湧き出ていたので、清水坂の名が付けられた。現在は崖が削りとられて、その跡に児童公園が設けられているが、そこは貝塚遺跡でもあった。
そばの八幡山児童遊園地内を一まわり見渡したところ、貝塚遺跡を示すものはなかったようだ。丘の上なのかもしれない。左からJR埼京線が迫ってきて、「河童天国」で、埼京線の王子道ガードをくぐると、赤羽に入る。
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岩淵(赤羽)

法真寺へいく道が左に出ている交差点の右角に、鋭角な角地にあわせた五角形の古い家がある。沿道には木造アパートが残り、昭和30年代の匂いがぷんぷんする。空家の向かいに警察の派出所があってその前を西に延びていく細道のブロック塀際に庚申塔と標識が見えた。道は真正寺坂といい、庚申塔の右側面には「これより いたはしみち」と刻まれている。これまで、岩槻街道と中山道を結ぶ道を幾つか見てきた。白山の土物店新道、駒込の染井通り、王子の稲荷道、十条の馬坂道(環7)、板橋仲宿からの王子新道、そしてこの真正寺坂道。二つの旧道は、本郷追分以来ここまでほぼ平行に進んできたからに違いないが、ここからは両者は扇状に距離を広げていく。互いの連絡はこれが最後と思われる。

普門院の中国風楼門をみて、民家のガレージ横に「稲付一里塚」の立て札を見つけた。本郷追分、西ヶ原につぐ3里目の塚跡である。車で通っていたらまず見逃がしていただろう。ゴミすて場に間違えられそうなところにある。場所は東京都北区赤羽西2丁目8−19付近。「江戸時代、ここは稲付村と呼ばれて日光御成道の沿道にあたり、一里塚の築かれていた場所です。以下略 東京都北区教育委員会」

「池田屋」のところで左にはいると、正面に40段ほどの石段があり、右側に「
稲付城跡」の石柱が立っている。背後にあるのは静勝寺で、その境内一帯に太田道灌が築いたとされる稲付城があった。江戸城と岩槻城の中継地に設けられた砦城の役割を果たしていたものと考えられている。建物・石垣などの遺構はなく、昭和も終わりの1987年に、堀跡が発掘された。静勝寺は太田氏の菩提寺で、道灌堂には太田道灌の木像が安置されている。

JR赤羽駅の西口バスターミナルの北側ガードを東口に抜け、すぐ左折して線路沿いの商店街を歩いていくと大通りにぶつかる。目の前にある宝幢院の門前に元文五年(1740)のものという古い道標が残っている。この地点で西から来た板橋道と南の江戸から来た日光御成街道が合流して、東の川口・岩槻へ向かって流れていた。石柱の正面には「南 江戸道」、右側面に「東 川口善光寺道 日光岩付道」、左側面に「西 西国冨士道 板橋道」とある。このあたりが岩淵宿の入口だった。岩淵宿は日光御成道の最初の宿場だが、川口宿との合宿で、荒川の氾濫で足止めとなったときの臨時宿場の性格が強かった。

赤羽交差点で、王子でわかれた国道122号に再会し、新荒川大橋で新河岸川と荒川を渡って埼玉県川口にはいる。旧街道は交差点角の大満寺、国道沿いにある都内唯一の蔵出し酒屋である小山酒造と、マンションの前にある「岩槻街道岩淵宿問屋場址」の碑を見て、荒川の岩淵渡しを舟で渡った。小山酒造はさいたま市小山本家酒造の分家。本家は播州(兵庫県)出身、文化5年(1808)創業の老舗酒蔵である。


新荒川大橋は二つの川を渡る。川越から流れてきた新河岸川と荒川である。昔、荒川は隅田川となって江戸市中に流れていた。隅田川はよく荒れた。治水対策として、荒川を東に放流し、隅田川との間を水門で隔離した。一方で新河岸川を隅田川につないで現在の形に至っている。関東の水系の歴史をたどるのは日本の歴史を紐解くほどに大きな仕事であるが、その一部が図入りで描かれていて、わかりやすかった。大橋と青水門までの間は、よく整備された河川公園になっていて、犬を連れて散歩する人やジョギングに汗をながす人が多かった。荒川の水はきれいで見晴らしが良い。なによりも青いビニールシーツを見ないのがすばらしい。これより東京都から埼玉県に入る。


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川口 

川口といえばキューポラのある街――と、おおらかな先入観をもって新荒川大橋を渡っている。心は鋳物工場を見学したくてたまらない。この町に、白いブラウスに黒のカーデガンが似合う、明るくてかわいい女子中学生が住んでいた。名はジュン、県立高校への進学を目指して頑張っていた。だけど家には、弟が二人、出産直前の母親、会社をクビになったばかりの父親を抱えて、ジュンはパチンコ屋でアルバイトを始める。家庭は苦しかったけれど、まわりには暖かい友達とやさしい先生がいた。1963年、吉永小百合は、本作で史上最年少のブルー・リボン賞主演女優賞を受賞した。古くから鋳物の町として栄えた川口には、明治末期150軒ほどの鋳物工場があったといわれる。「キューポラ」とは鋳物を溶かす炉のことで、コークスをもやして高い煙突から黒ぐろとした煙をたなびかせていた。今では電気炉にかわっていて、公害になるようなものはない。

橋の上から向こう土手の左手をながめると緑の屋根を頂いた
善光寺が見える。建久6年(1195)の建立で、信濃善光寺にちなむこの寺は、江戸近郊で手軽に善光寺参りができるとあって「善光寺参り」で賑わった。この寺の名を付けた機関車が東京の交通博物館で余生を送っている。上野−熊谷間(現JR高崎線)を走った日本最初の私鉄「日本鉄道」の蒸気機関車第1号善光寺号は、荒川の水運を利用して英国製の部品を川口に運び、善光寺の裏で組み立てられた。善光寺は荒川河川敷に設けられた自動車教習所を見下ろす堤の上にある。隣の空き地には、墓石、石仏、灯籠などが打ち捨てられて無残な姿をさらしていた。

街道は、岩淵渡しから、善光寺の東方あたりに上陸して、本町一丁目商店街(本一通り)を通っていた。川口宿は岩淵宿との合宿である。下町商店街風の本一通りには、酒屋の田島屋本店、浜田接骨院や中西日進堂薬局などの古い建物が宿場町の面影をとどめている。鋳物工場は一筋西の通りに多かったという。

横道にはいって、本町と金山町をわける通りに出る。「ここは準工業地域であるから若干の騒音がでるかもしれない」という警告板を数ヶ所でみかけた。金属音とフォークリフトのエンジン音が絶え間ない。
川口宿の本陣を勤めた「永瀬家」の自宅と工場が隣接してある。門も塀も頑丈そうな鋳物造りで、川口の伝統を象徴している。

本一通りを出たところの交差点中州にちいさな川口宿のモニュメントがあって、宿場の地図と江戸時代の鋳物屋の絵タイルが貼ってある。通りを横切り細道を北に入ると、右側に親柱と一跨ぎでこえそうな欄干だけを残した
「凱旋橋」を足元にみて、突き当たりに錫杖寺がある。

錫杖寺は養老元年(717)に行基が本堂を建立したと伝えられる古刹である。江戸幕府2代将軍徳川秀忠が日光社参の際にここで休んで以来、歴代将軍の休息所として利用された。当寺の銅鐘は由緒あるもので、寛永18年(1641)に川口の名主職であった宇田川氏が、川口鋳物の祖と言われる永瀬治兵衛守久に作らせ奉納したものであるという。鐘楼に登って鐘をぐるりと回ってみた。鐘のどこかに、「昭和云々」の年代をみて、由緒ある銅鐘は別に保管されているのだとわかった。同じ掲示板には『川口宿絵図』の説明もある。
左の図は、旧川口宿の本陣であった永瀬洋治家に伝わる文政4年(1821)に描かれた『川口宿絵図』です。この図からは、将軍家が日光墓参のために整備した、日光御成道の岩淵宿につぐ第二の宿場として発達した、旧川口宿の往時の姿をうかがうことができます。街道に沿って町屋が軒を並べ、その西側には裏町が形成されていたことも見てとれます。現在「本一通り」として、その景観の一部を残しています。なお、「鋳物のまち」としての川口は、この裏町を中心に発達しました。錫杖寺は、この宿の来たのはずれに位置しています。まさに川口宿のかなめとして、まちの発展を見守り続けてきました。

錫杖寺より西に数分あるいたところに広い敷地をしめて
川口神社がある。社伝によれば、平安時代に大宮の氷川神社より分祀され、その後変遷を経て、明治時代に金山権現を合祀して川口神社となった。社地の奥には、満開の梅と赤い幟に隠れて、梅ノ木天神社もある。

「川口宿と鋳物業の発祥」の碑があった。寺も、神社も、この町では鋳物なしにすますことはできない風情である。
鎌倉時代の大納言源雅忠の娘が書いた『とはずがたり』には、現在の川口にあたる「小川口」の情景が描かれています。当時このあたりは、鎌倉街道中道が通っていました。そして江戸時代、日光御成道が整備され、岩淵宿につぐ川口宿が成立しました。
 江戸時代後期の『遊歴雑記』には、「この駅の南 うら町筋に釜屋数十軒あり、但し鍋のみ鋳家あり、釜のみ作る舎あり、・・・」と書かれており、当時現在の裏町通り沿いに鋳物屋がならび、鍋・釜・鉄瓶といった日用品を製造していた様子が記されています。川口鋳物は、室町時代末期にはすでに行われていたようですが、鋳物に適した砂や粘土がとれたこと、この街道や荒川と芝川の船運、江戸という大消費地に隣接していたことなどの要因によって盛んになっていきました

国道122号線にもどって鳩ヶ谷に向かう。車の流れがけたたましい。

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鳩ヶ谷 

旧道は変電所前交差点で国道と分かれて、右斜めに県道105号線がはじまる。坂下町あたりから宿場にはいり、下宿、中宿、上宿と北へあがっていく。

昭和橋の手前で、重厚な三段構えの屋根と板壁の旧家の中へ、若い男性が自転車からおりて消えていった。若者が住人として似つかない、いぶかしさを感じさせるほどに、建物が圧倒的である。道が右にまがりはじめるところで、
見沼代用水路東縁に架かる吹上橋を渡る。4基の親柱の上で遊ぶ幼児の石像がかわいらしい。見沼の代用水は、将軍吉宗のとき、見沼を干拓したためそれまでの見沼溜井に代わる水源を利根川に求めて、行田市から延々84kmの農業用水路を掘り開いた歴史的遺産である。生活廃水を集めて流れとなったドブ川と違って、水の量は豊かで、濁りはすくない。大門宿を過ぎた後、さらに広やかな場所でもう一度であう予定である。

緩やかな坂をのぼって本町、中宿にはいる。宿場の中心地だ。左の一角に
「御成坂公園」が設けられている。川口から幸手まで、埼玉県内の御成道絵地図と26ヶ所の必見地を絵と添え書きで紹介している。これとおなじ大判絵図を岩槻相野原と杉戸和戸でも見るが、必見場所の番号のふり順がそれぞれ違っているので、番号に頼って混乱しないように。小僧が鐘つくカラクリ時計はご愛嬌。定時になると、ほかの面の隠し扉が開いて、武士や町民も飛び出すとか。

本陣跡地

本町3丁目中宿の、洋品店の藤屋と不動産屋の魚野商事にまたがった広大な敷地に本陣船戸家があった。今は立て札や碑さえもなく、ただその付近の空気をかいで想像をかきたてるしかない。
郷土資料館の人によると、史料には「船戸」とあるが、実際は「船津」だそうだ。本家が没落して、敷地が区画整理にかかったとき、取り壊すべきところを鳩ヶ谷市里にある船津家が真光寺の本堂として引き取ることになった。この真光寺の場所が実にわかりにくい。やっとの思いでたどりついたところ、本堂は普通の住宅に変わっていた。石柱と、うしろに立つ青瓦の小さな楼門だけが史跡らしい。勝手口の道沿いに本陣跡の石標があった。

筋向いに石蔵を従えた
(株)十一屋北西本店があった。「文楽」のほか、幅広い酒類を扱っている。十一屋は猫田をルーツとする日野商人の屋号である。上尾市にある文楽酒造のかってのオーナーは北西といって、そのルーツも近江日野であった。ふれあい広場の前にも若所帯の新家らしい建物があって、母屋との間は、小型トラックが出入する大きな倉庫でつながれていた。

北西宅の脇を西にはいったところに鳩ヶ谷総鎮守の氷川神社が奥ゆかしく隠れている。同社は応永元年(1394)の創建でスサノオノミコトを祀る。1600年、徳川家康が奥州出陣の途中に同社境内で休息したという由緒もある。

本町2丁目は上宿にあたり、宿場もおわりに近づいてきた。玄関先に赤い郵便ポストを置いているのは
豊田屋商店である。主家の右には豪快な石蔵を、左には一段低くした千本格子の木造町屋がつらなっている。

豪商の屋敷の残像が消えない間に現れた、数軒先のバス停後ろにある「市神」の祠は、みじめなほど貧弱にみえた。鳩ヶ谷では三八市と呼ばれ、3と8の日に市が開かれていた。

宿場の終わりから、県道161号線が右に出ている。苗木栽培で知られる安行を経て越谷に通じる道である。右に折れてすこし奥まったところにある地蔵院によってみた。地蔵院へは何があると知ってきたわけではないが、幸運にも門前の一角に道標を見つけた。教育委員会の標柱にはそっけなく「道標 文政5年(1822)」とあるだけで、内容を教える気もないみたい。
「従是こしがや道 二里」と、読んだが、念のため鳩ヶ谷教育委員会にEメールで確認をとったところ、翌日に丁寧な返事をいただいた。
「・・・ほかの三面は:四国八十八箇所徒 五十九番 地蔵院(徒は「うつし」と読みます)、月山 湯殿山 羽黒山 百番札所 四国遍礼 供養塔 、皇和文政五歳次壬午八月穀旦 願主浦寺村山田忠兵衛・・・」

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新井宿・赤山

三叉路にもどって105号線を直進する。なだらかに坂をくだって、新井宿駅の西側で埼玉高速鉄道をくぐり新井宿にはいる。新井宿に宿場があったというわけでもなく、「宿」の由来はしらない。安行の近辺であるせいか、沿道に苗木畑をもつ造園、苗木販売の業者が多い。川口市消防第7分団の北側に
氷川神社と宝蔵寺がならんである。新井宿の中心地にあたる場所だろう。氷川神社の石碑のひとつに「武州足立郡赤山領 東新井宿村」と刻まれていた。「新井宿」とは昔からあった地名のようだ。

首都高速川口線をくぐり、東京外環自動車道をくぐると石神地区にはいる。すぐ右手の
真乗院に寄る。境内にある高野槙は、目通り4.5m、根回り7.8m、高さ18m。枝間に差し込む朝の光が照らすのは、彼岸で墓参りに来た人たちが炊く香の煙である。やわらかな初春のそよ風がゆれると霞は消え、大気がなぎるとまた現れる。山門近くの地蔵に刻まれた道しるべは「東江戸あさくさ道」と読めた。

真乗院の東、東京外環川口東インターのほぼ北の方角にあたる、西立野の高台にある西福寺をたずねる。いりくんだ田舎道の道順は記しがたい。土地の人に聞きながらも、背景をあけっぴろにした農村の青空に、楚々として立つ三重の塔を望む場所にたどりついた。苗木畑や竹やぶ、田畑に囲まれ、ぽつんとたたずむ塔の風景は、どこか昔たずねた大和、斑鳩の里を思い出させた。

西福寺は平安時代初頭、弘法大師(空海)が建立したもの。三重の塔は徳川三代将軍家光の長女千代姫が奉献したと伝えられている。五重より控えて、乙女の恥じらいをふくんだやさしい姿である。で、ありながら、高さは23mあって県下で一番高い木造建造物という栄誉を誇っている。西福寺はまた、「百観音」とも呼ばれ、観音堂には西国、板東、秩父札所の100の観音像が安置されている。ここだけで、100ヵ所の観音霊場と同じだけの功徳があるというので、多くの参詣人を集めた。

赤山城(陣屋)跡 

西福寺からどうたどったのか思い出せない。とにかく県道161号にぬけ出た。「安行西」で外環をくぐり、300mほど南西にいったところの信号交差点で、車の幅一杯の狭い道を右にはいっていく。すぐ右にある山王神社に駐車しないと、後に引けない。突き当たったところは一面植木畑のような風景がひろがるが、堀跡からようやく城跡であることを認識する。やがて梅林の一角に碑と案内板が現れた。ここは代々関東郡代として、関八州の幕領を管轄し、水利・新田開発に天賦の才を発揮した、
伊奈氏の居城跡である。伊奈氏は天才的な国土省官僚家系といえる。

三代忠治の時、寛永6年(1629)に小室(現北足立郡伊奈町)から移ってきて、以来10代163年間にわたってこの地に住んだ。関東を旅するとき、関東平野を流れる河川のことを知らずに歩くことはできない。多くの川があるのみならず、それらの川は頻繁に流れを変えた。また、人が東西南北に用水を掘って流れを付け変えた。新しい流れには新しい川の名を付けた。新と元の二通りの水系ができたりもした。なかでも最大の事業は
利根川の東遷と、荒川の西遷、それにともなう付随の工事であった。気の遠くなるような土木工事を、幾世代にわたって担当してきたのが伊奈氏だった。あちこちで伊奈氏の事業を断片的に見てきたが、ここで全体を見ておこうと思う。格好の資料が入り口に掲示されている。

伊奈氏の系譜
伊奈家初代・伊奈忠次は、天文19年(1550)、三河国小嶋城主・伊奈忠基の末子としてうまれた。天正18年(1590)、徳川家康の関東入国に際して代官頭に任命された忠次は、慶長4年(1599)には備前守の称号を与えられ、荒川や利根川の改修をはじめとする治水・灌漑事業や新田開発、検地の実施などに大いに手腕を発揮した。忠次の死後、幕府内での伊奈氏の地位を不動にしたのは、三代忠治である。当初8百石の勘定方として出発した忠治は、寛永19年(1642)には関東郡代に任ぜられ、忠次からの事業を引き続きおしすすめていった。江戸幕府初期の支配体制・財政基盤確立に果たした忠次・忠治の功績は非常に大きい。


忠次(初代) 1591 天正19 小室(伊奈町)に陣屋を設ける
1594 文禄3 千住大橋の架橋
1604 慶長9 備前堀の開削
忠政(2代)
忠治(3代) 1618 元和4 赤山現源長寺を菩提寺とする
1621 元和7 利根川改修と新川開削
1624 寛永1 荒川の川瀬の改修
1625 寛永2 権現堂川下流に江戸川を開削
1629 寛永6 赤山陣屋を設ける  見沼溜井の造成・八丁堤の築提
1638 寛永15 勘定奉行となる
1642 寛永19 関東郡代となる
忠克(4代) 1660 万治3 幸手用水の開削   びわ溜井用水の開削   葛西用水の開削
忠常(5代) 1666 寛文6 両国橋の改築
1672 寛文12 多摩川通り六郷橋の修築   千住大橋の架け替え
1673 寛文13 赤山源長寺境内に頌徳碑を建てる
忠篤(6代) 1692 元禄5 飛騨郡代を兼務する
忠順(7代) 1700 元禄13

深川埋め立て普請工事   永代橋の架橋

1704 宝永1 本所堤防の修築
1705 宝永2 浅草川の修復
1707 宝永4 富士山噴火の被害調査、復旧処理
忠連(8代) 1719 享保4 びわ溜井用水の改修
忠辰(9代) 1764 明和1 中山道伝馬騒動を解決
忠宥(10代) 明和2 勘定奉行となる
忠敬(11代)

1775

安永4 勘定吟味役となる
忠尊(12代) 1784 天明4 勘定吟味役となる

1787

天明7 江戸打ちこわしの収拾   江戸貧民の救済措置

1792

寛政4

関東郡代を罷免される   伊奈家改易     勘定奉行の関東郡代職兼任

1806

文化3

関東郡代制の廃止

161号線にもどり南西にすすむと、鳩ヶ谷宿の地蔵院三叉路にまいもどってきた。右にまがって再び新井宿を通り過ぎる。戸塚をぬけ、JR武蔵野線をこえると東川口である。街道は台地の東端を縦走する地形になっていて、右手の崖下に広く東川口の町がひろがっている。かっては低湿地だったが、武蔵野線開通に伴って開発された。一本木公園にある諏訪神社の簡素な社殿の後から、眼下にひろがる眺めがよい。

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大門 

右に大きく下っていく坂がでてくる。付近に昔、貝塚でもあったのか、貝殻坂となづけられた急坂は、御成り道の旧道がたどった道で、鎌倉街道の道筋であったのだろうと思われる。旧道は坂を下りて畷橋をわたり、綾瀬川の東岸を北上して岩槻へ出た。現在の国道463号線が岩槻市に入る手前で綾瀬川をわたるところは、かって
畷河岸とよばれた場所で、綾瀬川水運の要所であった。今は橋の北西に鰻屋が大きな店を構えている。

新御成り道の県道105号線も、坂を下って国道463号線に合流し、左に折れてゆく。左手の民家になつかしいつるべ井戸をみた。
大門小学校入口をみて、いよいよ大門の宿場町にはいってくる。入り口にあたる所で、赤い鳥居の奥に長い参道を構えているのが
大門神社。宿場のなかほどに茅葺の本陣と脇本陣の表門が、斜めに向かいあって陣取っている。

会田家の
本陣表門は茅葺寄棟造りの大きな長屋門である。元禄7年(1694)建立され、番所がついている特徴をもつ。将軍は、岩槻城に宿泊したので、大門宿では休憩する程度であったが、安永5年(1776)の徳川家治の日光社参では、ここ本陣に松平定静(松山城主)が、はす向かいの脇本陣に酒井忠以(姫路城主)がそれぞれ宿泊した記録が残っている。

本陣の斜め前に武笠家の
脇本陣表門が残っている。表門は、本陣と同じく寄棟茅葺きでくぐり戸のある長屋門であるが、番所がつかないこと、両袖が土間であること、本陣の白壁にたいし真壁であることなど、本陣に遠慮しているのがよくわかる。表門だけとはいえ、本陣と脇本陣がほぼ原型のままで近くに対比できる宿場はめずらしい。

国道463号線は大門上交差点で左へ折れて逃げてゆく。街道105号線はそのまま進んで国道122号線を斜めに横切る。その手前にある
大興寺へよってみた。茅葺屋根の鐘楼が珍しくおもしろかった。その脇の細道が旧街道の残骸だが、立体的に複雑に入り組んでいる浦和インターチェンジを、斜めにくぐりぬけるのは、知恵の輪を解くほどにややこしく、車で挑戦する価値はない。

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見沼

国道122号線の西側にでた御成り道は東宮下まで、見沼代用水東縁の東側をつかずはなれずに沿っていく。南部領辻の野田小学校手前の三叉路から、きれいに整備された「緑のヘルシーロード」が代用水の流れに向かって延びている。代用水の西側には広大な見沼田圃が広がって、都市近郊にある農地とは思えない。野菜や苗木の畑が多かった。ロードの両側は桜並木がつづく遊歩道で、ぜいたくなほどに豊かな自然に抱かれている。

ハンドルを手放したくなる開放感の衝動を抑えて、総持院に車を止めた。用水に架かる小橋のふもとの竹やぶに「緑のトラスト保全第一号地」の案内板が立ってある。
この斜面林は、緑のトラスト保全第一号地として、「さいたま緑のトラスト基金」により取得・保全したものです。ここは、見沼代用水沿いにある斜面林の中でも、周辺の景観と一体になって、最も見沼らしさを残している埼玉の原風景の一つです。この原風景を末永くみんなで保全していきましょう。
     埼玉県    財団法人さいたま緑のトラスト協会

ここから
国昌寺までのおよそ500mの区間は、代用水原型保全区間となっていて、護岸工事が施されず、斜面林がそのまま水辺に足を濡らしている。

U字形に湾曲した用水に沿って、対岸の木々をながめながら散策しているうちに、国昌寺橋につく。たもとに見沼の龍神灯の伝説を記した案内板がある。さわりだけ紹介しておこう。
将軍吉宗の命を受けた井沢為永は、このあたりの見沼を干拓し、利根川から代わりの水を引く工事をしていました。ある晩のこと、為永は夢をみました。見沼の主で龍神という美しい女が現れ、私の住む所がなくなる、新しい住家を探すまで工事を中止してほしい・・・・と言います。来春の稲の作付けに間に合わせるため工事は一日も休めません。 以下略

国昌寺の山門にも伝説がある。龍神灯の女性とちがって、すこし気味悪い。
昔、愛宕社(大門神社の境内社)の崖下の池に龍が棲んでいた。この龍が田畑を荒らすので、困った村人たちは、日光に向かう途中の左甚五郎に頼んで、竜を彫ってもらい、これを欄間に五寸釘で打ち付けた。作物荒らしはおさまったが、その後葬式の列がこの門を通るたびに、棺が急に軽くなるという風説が広まった。なんでも龍が棺の中身を食べるらしい。それ以来この門は扉を閉めたまま使われなくなった。この寺は「開かずの門」と「釘づけの龍」で有名である。

街道にもどって北に進む。浦和東高校をすぎたあたりで、左に公園入り口が出てくる。手前がさぎ山公園、用水路を隔てたその奥が
見沼自然公園。江戸中期、このあたりの屋敷林で、さかんに鷺が繁殖した。見沼干拓でドジョーなど鷺の餌が豊富になったからと考えられている。特にこの地、新染谷村の名主守富家の屋敷林には鷺が集まって、吉宗将軍の囲い鷺となり、10代将軍家治は、日光参詣の途中、ここによってうわさの鷺を見物した。やがて「野田の鷺山」から鷺の姿が消えて、さぎ山記念公園となった。

上野田から膝子にはいる。岩槻と大門の間にあって、将軍が休憩所として使ったという光徳寺をすぎてまもなく、右手に
膝子一里塚の跡がある。塚はやせ細って、根回りのふくらみだけがようやく残されている体であった。

街道は七里中学校前で県道105号線と別れ、一時細道にはいった後、すぐに県道64号に移っていく。700mほど行ったところで、変則五叉路交差点を右斜め前に進んでいく。交差点の東側の畑に育つ野菜のように、ちいさな道標石がある。目を上下斜めからこらしても読めない。そばの説明板にも「判読は難しい」とあってほっとした。古簀子橋で深作川を渡る。深作川は、すぐ下流で綾瀬川と合流していた。国道16号を渡って、すぐに県道2号線を右に曲がり、大橋を渡って岩槻市に入っていく。

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岩槻 

「人形の町岩槻」の創業者は、日光東照宮の造営、修築にあたった工匠たちだといわれている。このあたりは昔から桐の産地で、箪笥や下駄などの桐細工が盛んだった。工匠たちは、この桐のおがくずを糊と練り固めて人形をつくると発色がよく、岩槻の水がご粉に適していることを発見した。人形つくりはやがて下級藩士の内職としても広まっていった。

大橋をわたるとさっそく人形店が現れた。第一号は
秀月だ。城のようにも、ラブホテルのようにも見える。昨年、民事再生法のもとで再建がスタートしたばかりである。この交差点を北に折れて逆U字形に東北自動車道をよこぎり琴平神社を通ってわらべ人形像の角にでるのが旧道だという話もあったので、歩いてみたが特にそれらしき史跡もみなかった。浄国寺の広い臨時駐車場に車を止めて散策をはじめる。10時をすぎてようやく人形店が幟を出し始めた。観光客はまだすくない。2月下旬から4月3日までまちかど雛めぐりキャンペーン中で、町内69店がそれぞれ所有する自慢の雛人形を店先に公開展示する。

まだ新しい「旧日光御成街道」の石標の奥にあるのは、東久人形歴史館で、もの静かな和装の女性が案内してくれた。一階は昭和時代の名作展、二階は古い貴重品だ。撮影禁止だった。何気なく、八雲神社の境内の奥に建っている第1区自治会館の窓をのぞきこんだ。立派な古雛が飾ってある。座敷に詰めていた二人の男性と目があって、靴の紐を解いて上がらせてもらうことになった。
「岩槻の人形はみんなここで作っておられるのですか」
「たくさんの工程がありましてね。最後の仕上げはここでやります。職人さんは浅草に多いですね」
「京都も人形は盛んですよね」
「ええ。京都で作った人形をここで売るとき『京人形』といってはいけないのです。『京風人形』といいます」
「ああ。京都はプライドが高いから。あはは」

右手「わた忠」のガラス窓に多彩な紐がつらされている。「つり雛」というのだそうだ。
駅前通りを越え本町交差点手前の左の路地をのぞくと奥の方に茅葺の寺が見えた。願生寺という。本堂の前に古雛が飾られ、左の庭では野点が開かれている。

本町交差点の東北方向に、堂々とした白壁土蔵の建物がある。門を構えた築地塀を廻らせて、中にもう一つの土蔵が見えた。蔵店に入ると正面にたくさんの古雛がいく段にも並んでいる。江戸、明治、大正、昭和と、それぞれの時代を代表する宮廷雛の勢ぞろいは豪華である。頻繁に出入する買物客でもない見学者に、丁寧な説明を繰り返しているのはこの家の主人だろう。隅にしまわれている木造りの消火道具も展示品の一部のようだ。長谷川家自体は人形店でもなく、昔は呉服屋だったそうだ。ここは雛がなくても観光名所に値する。

本町交差点をこえ右手の市役所の前に一里塚跡の碑が作られている。その後ろにみえる白壁土蔵とその傍のしだれ梅が立派だった。

渋江町交差点を南に100mほど下った左手の小さな公園に、「岩槻にすぎたるものが二つある。児玉南柯(こだまなんか)と時の鐘」とうたわれた時の鐘がある。木戸門の一つ、渋江口に建てられて、城の内外に時を告げた。現在は鐘の隣に住む旧藩士の子孫が毎日朝夕6時に撞いているという。
なお、児玉南柯とは藩士にて儒学者で、
遷喬館(せんきょうかん)という私熟を開いて藩士の教育にあたった。私塾は後に藩校となる。「我々にはすぎたるもの」と、岩槻村民は謙遜深い。

渋江口から城内にはいる。城跡公園はそこから10分ほど南西に歩いたところ、東に元荒川をのぞむ小高い台地の端にある。入り口近くに表門と裏門が保存され、奥まったところには朱色の八橋を渡した池を700本をこえる桜の木が縁取っている。毎年4月29日には琴の音が流れる中、この池に願いを込められた雛が浮かぶ。
公園入り口にある福祉会館で、元祖
「豆腐ラーメン」を注文した。麺にあんかけ豆腐が惜しみなくかぶさっていて、豆腐一丁分は喰ったと思う。汁も麺もうまかった。玄関にみやびやかな江戸時代の雛人形が展示されていた。

 岩槻城は室町時代末に築かれた城郭です。築城者については太田道潅とする説、父の太田道真とする説、そして後に忍(現行田市)城主となる成田氏とする説など様々です。16世紀の前半には太田氏が城主となっていましたが、永禄10年(1567)三舟山合戦(現千葉県富津市)で太田氏資が戦死すると小田原城の北条氏が直接支配するところとなりました。北条氏は、天下統一を目指して関東への進出を図っていた豊臣秀吉と対立。やがて天正18年(1590)5月20日からの豊臣方の総攻撃を受けた岩槻城は2日後の22日に落城してしまいました。同年、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと徳川家康が江戸に入り、岩槻城も徳川の家臣高力清長が城主になりました。
 江戸時代になると岩槻城は江戸北方の守りの要として重要視され、幕府要職の
譜代大名の居城となりました。
 室町時代から江戸時代まで続いた岩槻城でしたが、明治維新後に廃城となりました。城の建物は各地に移され土地は払い下げられて、およそ400年の永きにわたって続いた岩槻城は終焉の時を迎えました。  (中略)
 城というと、一般的には石垣や天守閣がイメージされますが、岩槻城の場合、石垣は造られず、土を掘って堀を造り、土を盛り上げて土塁を造るという、関東では一般的な城郭でした。
 以下略

渋江町交差点から左に、県道65号岩槻幸手線がはじまる。ここから幸手まで、街道が県道をはずれることはない。唐突に、古びた米屋の前に「日光御成街道」の看板が出ていた。東武野田線の高架をくぐり、最初の信号を右におれてしばらく行くと久伊豆神社の参道入り口に着く。広い駐車場に「車の御祓い」の宣伝広告がある。

森の中の長い参道を歩いていくにつれ、あたりはいっそう森深くなっていく。実際、神社の周囲は県の「ふるさとの森」と、「埼玉の自然百選」に選ばれて、社の森は植物と野鳥の楽園である。境内も例外ではない。酉歳の開運招福にちなんでか、鶏が放し飼いされている。人なつっこい。金網のなかから、キーっという下品な鳴声が聞こえてきた。鳴かねば優雅な孔雀であった。故あって飼われている。


慈恩寺橋で元荒川をわたり、2km弱いったところの観音入口交差点に、「是より右慈恩寺道」と刻まれた石の道標がある。看板の指示通りにいくと突き当たるように慈恩寺の山門にぶつかる。広い境内の山門よりに、三本の藤の古木をささえる大きな藤棚が組んである。明日の彼岸を前に、墓参の人たちが絶えない。観音堂の前で香煙を顔や頭にかけ、堂に拝して合掌する。みんな礼拝の行儀を心得ている人達だ。


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白岡

慈恩寺から街道に戻って北にむかうと相野原の日枝神社あたりを中心にしておよそ300mにわたって、まばらな杉並木が残っている。地元では
「岩槻市御成道ふるさとの並木道」として、保存に心を用いている。一部の杉木の葉が、心持ち赤茶けて見えたのは季節のせいであろうか。ぜひとも健やかに育っていって仲間を増やして欲しい。エメラルド・プレイランドの前に「日光御成道のみちすじ」掲示板があった。名所旧跡に付された番号を除いては、鳩ヶ谷にあったものと同じだ。

県道78号線の岡泉交差点を越え、
隼人堀川に架かる往還橋を渡る。欄干代わりのガードレールがあるだけで、親柱はない。ガードの左右両側端を確認したが橋名もみあたらなかった。川の名は、標識で「一級河川 隼人堀川」とわかる。この小さな川に架かる何の変哲もない橋だが、昔、岩槻の村人はこの橋まで来て日光参詣の一行を見送った。この橋で義理を果たしたので、地元ではひそかに「義理橋」と呼んだ。お上には聞かせられない話ではある。

まわりの風景にますます田園の色彩が濃くなっていく。
下野田一里塚に来たときは、沿道の民家も途絶え、道から離れて時たま農家が見える程度である。一里塚が道の両側に残る貴重な例だが、最初は東塚の存在に気付かなかった。それほどに、塚木の育ちといい、枝ぶりといい、富士山のような華麗な塚の土盛といい、西塚が断然に目立った。

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杉戸 

和戸橋をわたると杉戸の北端に出る。左手に巨大な一里塚かと思わせるような塚があり、近づいて見ると立派な大落古利根川治水事業記念碑であった。右には既に2回見て、なじみになった大きな案内板が建てられていた。付近の道筋や名所旧跡が示されている。
「西行の松」と、それに隣接してある「永福寺」を見ていくことにした。50mほど右の道を進んで左の細道へ入ってゆく。永福寺境内にある松はいままでにない種類のものか、新緑よりもなお淡い黄緑色の葉は、合歓の花のように柔らかそうに見える。

通りに面して西行の
「見返りの松」があった。背はけっしてたかくはないが、枝振りのバランスがじつによい。代は経ていても姿よく育てられていた。
西行法師見返りの松碑
西行法師は、文治2年(1186)69歳のとき、東北地方への旅の途中、ここ下高野のお堂(後の東大寺)に参拝したが、激しい雪の日の寒さと旅の疲れとで病に倒れ村人たちの親切な看護を受けた。そして、西行は、静養中に庭の松をとても愛し、病気が治ると村人たちにお礼を言ってこの松を振り返り、振り返り再び旅立った。その後、村人たちは、この松を「西行法師見返りの松」と呼んだと伝えられている。(後略)    杉戸町教育委員会

一里塚は和戸橋から600m進んだ右手、コンビニの西側にあった。江戸から12里、東塚だけが残る。塚は十分な基礎をもって、原型の5間(9m)四方をとどめているのではないか。塚の上には葉を落とした老木にならんで松の若木と立派な石碑がある。半年前は隣地が造成工事中で、不動産会社の黄色の幟がひるがえり、ブルドーザーが土煙をあげていたが、今はきれいに舗装されてコンビニとの間に空間を作っている。

街道にそって民家がならんではいるが、その一軒後ろには田畑がひろがる田園地帯である。下野にはいって、左手に2本の松が街道並木の面影を残していた。松であれ杉であれ、道の傍にただ一本立っているだけで街道の風景を数倍にも美化するのは、なぜだろうと、あらためて思う。水平に対する垂直のフレームか。直線に対する曲線のいたわりか。緑の安らかな彩づけか。電柱や電線が並木に化ければ、日本中の道はどれほど美しい景色を提供することだろうかと、つくづく思う。

幸手市に入り二つ目の信号、上高野T字路角に
「史跡・道しるべ」がある。正面は馬頭観音、裏に「武州葛飾郡幸手領上高野村」とある。御成り道側に「右 日光 左 いわつき 道」、久喜市側に「く記 志ようぶ かず 道」と刻まれている。文化14年(1817)の古いものだ。利根川にあまり遠くないこの一帯の低湿地を開拓したのが伊奈氏4代忠克である。「琵琶溜井」をつくる一方で、東遷させた利根川とその残骸である大落古利根川を結ぶ葛西用水を開削し、多くの支水路を整備した。交差点の北西角は葛西用水事業の記念公園となっており、葛西用水はそこに設けられた水門で流れを三つに分けている。

ベルクというスーパーの前で右からくる日光街道と合流し、御成道の終点、幸手宿に入っていく。日光街道はこのあと宇都宮まで奥州街道とともにし、奥州街道はそこから独り白河の関をこえて平泉を訪ねる。源義経が青春の夢をはせ通い、むなし悲しく燃え尽きた道である。

(2005年3月)
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