佐渡奉行街道 



本庄・新町−玉村滝川・大渡り総社大久保八木原渋川

いこいの広場
日本紀行



上州と越後をむすぶ三国街道は高崎から中山道とわかれて三国峠へ向かうが、高崎−渋川の街道宿駅が整備される以前にも中山道からわかれて渋川へいく道があった。三国古道とよばれ、中山道本庄宿を後にして烏川を渡り、利根川沿いに玉村・総社、大久保・八木原の各宿場を経て、渋川宿で三国街道と合流する10里足らずの道である。高崎を通る道が三国街道の本道となった後も佐渡奉行は総社経由の旧道をとったことから三国古道は佐渡奉行街道とよばれるようになった。

佐渡奉行街道の起点は本庄宿のはずれであったが、その後承応3年(1654)に落合村と笛木村が合併して新町が誕生、新町宿が整備されるとそこから玉村へゆく新しい佐渡奉行街道の道筋が開かれた。

今回その両起点からの道筋を確認した後、烏川をわたった角渕から一本の旧道筋を辿っていく。




本庄

中山道本庄宿の西のはずれ、現在の児玉郡上里町にほど近い本庄市小島の十字路を北に向かう。国道17号の万年寺交差点を横切り、区画整理された広い真直ぐな舗装道をいくと利根川ほとりの新井集落を通過する。御陣場川をわたり集落の中の突き当りを左にとると左からの道との合流点右手に庚申塔などの石仏が祠の周囲に集められている。

ここから土手に上がると利根川と烏川の流れが合流する景色が見られたのだが、行き過ぎてしまった。上里町
八町河原に入って丁字路を左折し、観音堂十字路を右折して土手に向かう。

左に宝徳年間(1449〜1452)の創立といわれる
稲荷神社がある。説明板には境内の諸神社が記されているが、どれがどれかわかるものではない。一つだけ、地上に安置された鳥居の屋根付き笠木が生き埋めの首のようで無気味な印象だった。八丁河岸の舟運利用の水神も祀られている。この集落には「八町河岸」があって、船問屋などで賑わった場所である。

土手に上がると烏川の流れは葦原の向こうに隠れてよくみえない。手前の淀みで釣りをする編み笠の男性に
渡し場跡のことをきくと、ここがそうだと言った。対岸には打ちっぱなしのネットがみえる。玉村公園GCの施設で、そこから北へ1km足らずいくと日光例幣使街道五料宿の関所跡にでる。

右手遠くに烏川・利根川合流点のすぐ下流にかかる坂東大橋がみえる。現在、玉村町に渡るには逆戻りして坂東大橋で利根川をわたるか、中山道にもどって新町から岩倉橋で烏川を渡るしかない。八町河原の渡しはまさにその中間地点にあった。

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新町

中山道は武州(埼玉県)と上州(群馬県)の境をなす
神流川(かんながわ)を渡る。流域の倍以上もある河川敷をふくめ神流川橋は長い。群馬側の河原に白い杭が光ってみえた。「渡し跡」とでも書かれた標柱が頭を過ぎった。高崎市にはいった地点に「見通し燈籠」(常夜燈)のレプリカが立っている。埼玉側のオリジナルが大光寺にあるという。

橋を渡り終えると歩道側に
古戦場碑が建っている。天正10年(1582)6月、信長の死を受け、上州の支配をめぐって滝川一益率いる西上州軍と、北条氏5万の大軍が神流川をはさんで激戦を展開した。結果は滝川軍の敗北に終わる。

中山道はその先で国道17号と分れ
新町宿にはいっていく。旧道入口に常夜燈と「中山道新町宿」標柱がたっている。新町宿は江戸から数えて中山道11番目の宿場で、承応年間(1652〜55)に落合村と笛木村が合併してできた宿場で、中山道のなかで最も遅れて開設された。

すぐ右手に赤い鳥居に社殿としては珍しい白壁土蔵造りの
八坂神社がありそばに自然石の芭蕉句碑がある。かって神社の側に柳の大木と茶屋があったといい、柳にちなんだ句を刻んだ。

  
傘(からかさ)におしわけ見たる柳かな

新町郵便局前交差点
から中山道と分れ佐渡奉行街道が分岐している。広い道路に合流する手前で左の細道に入り、一旦県道40号に合流したのちすぐに再び右斜めの旧道にはいっていく。烏川の岩倉橋の袂に諏訪神社がある。その北側から対岸角渕(つのぶち)とをむすぶ渡し船が出ていた。

明治になり渡し船が廃止され岩倉橋が架設されてからも洪水でたびたび橋は失われ、昭和初めまで渡し船は存続した。岩倉橋の名は明治11年明治天皇行幸のおり、新町行在所から岩倉具視を名代とする分派がこの橋をわたり前橋行在所に派遣されたことに由来している。

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玉村


岩倉橋をわたり右に折れて土手下の道をゆく。二筋目の路地奥に赤い鳥居が見える。建久4年(1193)源頼朝が烏川の風景が鎌倉の由比ヶ浜に似ているというので鶴ヶ岡八幡宮から分霊勧進したとされる
角渕八幡である。その後江戸時代になって本殿は玉村八幡宮に移された。


土手下の道にもどり用水路をこえたところで左にでている道が旧道である。対岸の諏訪神社裏から出た渡し船はここにたどりついた。また、現在の岩倉橋ができるまでは諏訪神社付近からこの地点に橋が架けられており、この通りが新町と玉村を結ぶ本道であった。今は住民だけの平和な生活道路で、どの家も道端を丁寧に草花で飾っている。蔵もちの端正な旧家が多く残る魅力的な家並みである。関根姓が多かった。

角淵集落の東はずれの田園のなかに二つの古墳がある。本庄から八町河原の渡しをへて五料に上陸する道筋は角渕に至る途中でこの二つの古墳の近くを通ってくる。一つは
梨ノ木山古墳、他は御幣山古墳。後者は天正10年神流川合戦の折、滝川一益が本古墳を本陣として軍配をふるって指揮したために通称軍配山古墳と呼ばれている。共に古墳時代のもので、烏川段丘上には他にも多数の古墳が存在していた。

県道にもどり北上する。派手な看板を出す店が立ちならぶ繁華な自動車道路である。

滝川を渡った右手の
観照寺に三基の板碑が保存されている。弘長2年(1262) 、弘安7年(1284)、文和2年(1353)という大変古いものだ。秩父青石で造られていて、おどろくほど磨耗がみられない。観照寺沿革が「玉村」のはじまりに触れている。

「当寺の創立は、鎌倉初期、土御門天皇代、元久元年(1204)明秀上人の開山による。又寺地は、これより先、平安時代天慶2年(939)にこの地を開いた郷士玉村太郎の旧地で「錦野の里」と呼ばれた。太郎は神流川合戦に於いて田原藤太秀郷と共に平将門を誅伐した事で知られる。 以下略」

玉村の地名に因む故事が残されている。相思相愛の男女が矢川に身を投げた。その後、この川に光る二つの碧玉が漂っていた、云々。そこに龍がからんで、新たに開発された新田村(上新田・下新田)は龍の玉によりできた村であるため、玉村と呼ぶようになった。

玉村ショッピングセンターの北側の道を左に入り、西光寺の手前の路地から国道354号の日光例弊使街道に出た。左におれたところ玉村6丁目バス停側に宿場の案内板が建っている。観照寺には玉村の地は平安時代に太郎によって開かれたとあったが、近世では江戸時代になって代官伊奈備前守忠次によって本格的な新田が開発された。

玉村新田町と称され、後に上新田・下新田両村に分かれる。その後両村で玉村宿がつくられた。日光例幣使街道が道中奉行の管轄下に入ると、玉村は第1番目の宿場町として繁栄する。旅籠屋62軒のうち半分以上の36軒に飯盛女が置かれ、玉村は歓楽街の様相を呈していった。

玉川宿はまた佐渡奉行街道の第1番目の宿場町でもある。毎年春から秋にかけて佐渡送り囚人が護送され、玉村宿には十数軒の囚人宿があったという。三国街道金井宿本陣でみた囚人用の地下牢もあったに違いない。囚人宿は佐渡送りだけでなく、他の護送中の罪人にも利用された。そのなかに国定忠治もいる。

案内板の地図によれば道向かいに高札場と問屋、その後ろに
木島本陣があった。問屋は上新田・下新田に1軒ずつあり交代で務めた。玉村宿は幾度もの大火で全焼し宿場町を偲ばせる建物は残っていない。僅かにみられる古い家も大正・昭和初期の建築であろうと思われる。

すぐ先の十字路角「太平人」町田酒造店の脇に
「玉村道路元標」の石標があり、そのむかいの路地入口に「木島本陣跡歌碑」の案内標識がたっている。案内にしたがって路地をはいり右におれると、民家の庭先に屋根を被った歌碑があった。天保14年(1843)帰路も中山道を辿った例幣使参議有長の歌である。往路は中山道−例幣使街道、帰路は日光街道−東海道を辿る慣例に反し、この使者は帰りも中山道を歩くつもりであった。

  
玉むらのやどりにひらくたまくしげ ふたたびきそのかへさやすらに 

  
今回無事使命を果たし、玉村宿にふたたび戻ってきたが、前途の木曽路も一路平安であることを祈る

街道にもどり300mほどいくと右手に
玉村八幡宮の赤い鳥居がでてくる。角渕八幡を元宮とする。この参道が上・下新田をわける境界線になっている。神社の前に井田酒造が古い佇まいをみせている。今は泉酒店として営みをつづけているようだ。同じ路地を神社と反対方向にはいると称念寺境内に「家鴨塚」がある。ヤクザ国定忠治の病気をきづかう目明しが家鴨の生血を飲ませた話が説明板に記されている。目明しも犯罪者あがりのならず者だった。家鴨こそいい迷惑を被った。


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高崎市滝川町から前橋市大渡町まで

玉村宿を抜けると街道は次の惣社宿まで3里半の長丁場となる。その間にいくつかの集落を通っていくのだがところどころに旧街道の証人たちがひっそりと住んでいる。それらを訪ねつつ道をいそぐことにしよう。

関越自動車道の手前を流れる滝川の手前で例弊使街道と分れ、
滝川の東岸堤防を北にたどっていく。道は草むらだったり、轍が残る土道だったり、車が走れる舗装道路だったり、それらが交互にあらわれ、そのたびに川に橋がかかって自動車道をくぐる道がつけられている。やがて川の西側に遺跡の発掘現場が現れた。住居跡らしいがまだ名がついていない。

最後の道なき草むら土手をかきわけて進むと伊勢崎街道の
上滝橋東詰めに出た。手前の水路脇に道しるべと石仏があって、旧道であることを暗示している。横断して直進すると、左から来る車道と合流。車道の合流点手前に多数の小さな地蔵が集められている。


宿横手集落を通り抜けると北関東自動車道の手前に小堂の諏訪神社があり、旧道はそこから利根川土手の自転車道路になる。北関東自動車道をくぐり西横手町の東端をかすめ利根川堤防下に延びる工場団地の東側をすすんでいくと荻原町にはいり、自転車道の路傍に「萩原の道しるべ」が立っている。卵形の自然石に「之よりひだり江戸みち 之より右ち〃ぶみち」と刻まれている。

県道27号の昭和大橋西詰めをくぐってからは萩原集落の中を抜けていく。集落の中ほど、路傍で三人並んで夕陽を背に受け午後の時間をつぶしているおばあさんに
萩原の渡し跡の位置を聞くと、すぐそこを入った自転車道に碑があると教えてくれた。対岸が公田(くでん)町で、公田の渡ともよばれる。利根川の流れは河川幅の数分の一にすぎない細いもので徒歩で渡れそうだが、かっては深さ9mもある激流であったという。渡し船は昭和40年まで200年近く続いた。石積みや河岸の痕跡はないが、コンクリートの遺物があった。

古い民家がのこる萩原集落尾をぬけると新興住宅街にはいっていく。三差路でまちがって右にとり大利根緑地公園に出てしまった。落日前のひとときを憩う人々がそれぞれの方法で楽しんでいる。利根川の水を飲む犬と、川に石ころを投げ入れる親子の写真を撮って三差路にもどる。

旧道は三角空き地をそのまま突っ切っていたものと思われるが今は個人所有地に隔てられ、道はやむなく左に迂回する形で鍵の手にまがって前橋市下新田の住宅街を真直ぐに北上する。下新田の落ち着いた家並みをぬけたころ、
下新田町公民館前の三差路に道祖神が並んでいる。なかでも丸石の窪みに浮彫された文化12年の双体道祖神はほほえましい。

街道は利根川からはなれて北西の方向にむかっていく。県道13号に合流するすこし手前に八幡宮があり、そこに
「史跡佐渡奉行街道」の石碑が立っている。平成10年の新しいものだ。

県道13号との合流点に小さな道標がある。大正6年のもので三方向を示し文字は赤色でなづられ分かりやすい。道は
上新田町、小相木町を経て下石倉町に入る。

下石倉町交差点角の
菅原神社境内に元首相故福田赳夫の書による旧佐渡奉行街道の石碑がある。並んで設けられた街道の略図碑によると、このあたりがちょうど中間地点のようだ。本庄から5里、渋川までまだ5里ある。次の惣社宿はもうすぐだ。

両毛線のガードをくぐり県道109号を横断、短い旧道を歩いて群馬トヨペットの北側から県道12号に出て北に向かう。国道17号を越え石倉町にはいり、広いイチョウ並木通りを進んでいくと、石倉町5丁目で東に一筋はいったところに
石倉上二ノ丸公園がある。文明17年(1485)上野国守護代、上杉憲景の築城した石倉城があった。戦国時代信玄、謙信による争奪戦を経て、天正18年(1590)徳川勢によって滅ぼされた。

大渡町交差点の北東角に
「王山古墳」がある。公園になっていてあまり古墳らしくないが、墳丘が川原石で覆われた「積石塚」という珍しいものだそうだ。東に進むとすぐに利根川堤防にぶつかる。このあたりに大渡の渡し場があった。渡し跡をしめすものは見当たらなかった。対岸にみえるグリーンドームは前橋競輪場である。


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総社

県道にもどって大渡町をぬけようやく総社町にはいってくる。その境目交差で右の旧道にはいる。民家の生垣の側に数基の供養塔などが無造作に並べられている。細い道のつきあたりが総社城の南木戸の外側にあたる位置で、そこに野馬塚神明宮が隠れるようにある。そばに宝永3年(1706)の道祖神や享保6年(1721)の双体道祖神がある。隣の家は色付いた雑木林の一角に廃家ともみえる静けさを保って、秋の趣がしみじみと伝わって離れがたい魅力を感じさせた。

県道にもどり、大渡橋西詰交差点を左折し、総社宿に向かう。総社は慶長9年(1604)総社領主秋元長朝が築城とともに整備した城下町である。宿場はその一環として形成された。多くの住民が元総社から移住させられた。元総社は上野国総社神社があるところで、古代の国府所在地と考えられている。その西北方向に三国街道から寄り道した国分寺跡がある。

総社町総社交差点の北西角に
本陣があったというが今は標柱が立っているだけで痕跡もない。東南角には問屋福田家があった。現在はマンションスペランザの裏に本宅があり、通りを南にまわって前庭をうかがうとちょうど奥さんがでてこられるところだった。

問屋であったことを訪ねるが要領をえない。
「おとうさんだったらしっていたでしょうけど、夏になくなって。みんな若い者ばかりになったから誰もしらないよ」と他人事のようである。こちらが「問屋だったんですよ」と教える側になってしまった。
「家の写真を撮らせてください」
「布団がほしてあるけど」と、ちょっと屋根を気にした。

佐渡奉行街道宿場は交差点からまっすぐ北にのびていた。すぐ左手の路地入口に
光厳寺の門がある。ここを入ってつきあたると白壁の塀の中央に臙脂色の楼門が異彩を放って建っている。立派な長屋門も入口は臙脂である。なかにはいると鐘楼も同じ色で塗られていた。なにか由緒があるのか臙脂の色にこだわりを見せている。光厳寺は元総社の徳蔵寺を移してきて秋元氏の菩提寺としたものである。

寺に隣接して小山のような国指定史跡
宝塔山古墳がある。7世紀に造られた方墳で、上部には秋元家12代の墓がある。

近くにある
総社資料館に寄った。大きな本間酒店の屋敷の一部を利用したものだ。佐渡奉行街道の情報を探したが全ルートを示すマップ類は見当たらなかった。
「伊香保道中絵巻」の写しの一部が展示されている。18世紀前半に描かれたもので副題として「佐渡奉行街道 総社−大久保」とある。伊香保への湯治客一行は大久保宿の先から西にわかれて伊香保街道を辿っていたのであろう。

「国府想定位置図」も参考になった。国分寺、国分尼寺、山王廃寺跡も国府の近距離にある一連の古代史跡である。後、その中心機能が現総社町に移されたのちは、「元総社」町となった。

庭先に芭蕉句碑がある。旧暦元禄5年(1692)10月3日の句。新暦では11月10日にあたる。ちょうど今頃だ。芭蕉はまだ49才である。昔と今では気温は3度、寿命は15年ちがうか…。

 
けふばかり 人もとしよれ 初しぐれ 芭蕉

 
時雨の寂しさは老いの心を象徴する。(若いあなたがたも)今日ばかりは年寄りの心境になって、初しぐれの情緒を味わってみては?

本間酒店からは大きな切妻造りの家並がつづく。通りの中央あたり右手に
総社神明宮がある。入口に総社町道路元標が設置されている。総社城大手門の西にあたり城下町の中心だった。社殿は小さな造りだが総社町の鎮守である。傍に公民館がある。年配の婦人が入っていくところだった。
「昔問屋をしておられた曽我さんの家はどこでしょう」
「すぐそこだけど、本人が公民館にいるから会っていったら? 区長をしておられるんですよ」
「いえいえ、家だけわかればいいんです」

道向かいの「総社郵便局前」バス停そばに「旧佐渡奉行街道総社宿」の説明板が立っている。それによれば福田、曽我のほかにもう一軒猿谷家も問屋だった。

街道は三つ目の鍵の手を左に折れて天狗岩用水を渡る。立石橋の東詰めに
西木戸跡の石柱が立っている。城下町と宿場の木戸を兼ねていた。この場所は用水路をせき止めて発電した群馬県水力発電所発祥の地でもある。県で最初、全国では5番目の水力発電所であった。

JR上越線踏切を渡って総社町高井交差点を右折する。北西角に長い塀をめぐらせた武家屋敷のような大きな民家があり、立派な門前に白い標柱がみえる。近寄ってみると
「旧前橋城冠木御門」とあった。払い下げを受けたものだろうか。文化財扱いにはなっていないようである。


交差点を北にはいる。わずかながら旧道の景観が復活する。すぐ左手に
高井観音堂敷地内に嘉永4年(1851)の馬頭観音ほか、二十三夜塔、庚申塔などが集められている。また、「旧佐渡奉行街道(三国道)」の説明板が立てられており、高井は総社宿と大久保宿の中間にあって、大名・奉行が通行したときには総社宿や玉村宿まで助郷として人馬を差し出したとある。

道は植野集落をぬけ、午王頭川(ごおうずがわ)の手前で北群馬郡吉岡町大久保に入る。

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大久保


午王頭橋の袂に
石仏群が円陣を組んでいる。
川をわたると
大久保宿の標柱と説明板がある。ここから北へ2kmにわたる大久保の長宿がはじまる。下・中・上宿にわかれ、それぞれに問屋があった。本陣はなさそうである。沿道には町屋風の家こそないが、ナマコ壁の土蔵や蚕室造りの家などがみられ、大きな農家が続く静かな町並である。

道の左手に笠付きの立派な
供養塔が立っている。台座に女人講中とあり塔身には赤子を抱いた仏の浮彫が施されている。この塔身だけが新しい石のようであり、そこに彫られたレリーフの赤と白の彩色とともに、他の古びた石材と不釣合いで妙に気になる石塔であった。

宿場のなかほど、大通りの手前に
大泉寺がある。ここにも目をひく石仏がいる。一つの石から掘られたという不動尊も赤々と燃える炎を背にしてこちらを睨みつけている。檻に入れなくてもいいだろうに。

「鐘塚の碑」と呼ばれる
芭蕉の句碑がある。昭和62年の建立だが標柱には誰が建てたともなぜここにとも書いていない。

  鐘つかぬ里は何をか春の暮


中の宿に入ると強烈な大屋敷があらわれる。長屋塀に沿って菊の花を満載した30個ものプランターがずらりと並べられている。入口をのぞくと紅柄袴板に白壁の堂々たる長屋門を構えている。中を覗くと中庭にもプランターが一杯。母屋は高覧付きの二階建てで、屋根には煙出しにしては大きすぎる長い越屋根を置いてある。植え込みの奥に淡い肌色の色気ある土蔵がその一部を恥じらいながら見せていた。唖然と見とれるばかりである。

道の反対側には医薬門を構え、煙出しに見越しの松を配した几帳面で真面目そうな佇まいを見せる家がある。これが中町の問屋らしい。

上町には二一夜念仏供養塔と、素朴な双体道祖神が道端にならんでいる。


宿場の出口近くには二体の
子育て地蔵尊が立っている。足元に幼児の浮彫がある。二体一対で作られ双体地蔵とよばれているめずらしいものである。骨折したひじを固めているかのような前掛けが窮屈そうだった。

すぐ左手に
三津屋古墳の標識があり、路地をはいると住宅地の真ん中に珍しい正八角形をした二段の古墳があった。縁辺部分も扁平な天井部分も隙間なく石で葺かれている。山王古墳の解説にあった「積石塚」と同類のものか。土も草もなくコンクリートで固めたような冷たい古墳に見える。

駒寄橋で長い宿場が終わる。三差路に
伊香保街道が分岐する追分道しるべがある。「右 ゑちご 志ぶ川 左 いかほ 水さハ」とある。伊香保道中絵巻の連中はここを左にとっていったのだろう。佐渡奉行はまっすぐ右の細い道を行く。

人家が途絶えたところで上越線の長坂踏切にさしかかる。電車を期待してしばらく休んでいると、警報がなりだした。現れたのは幸運にも特急水上号だった。踏切をわたり坂をくだる。視界が開け田園が広がる。左手の線路から電車の音が聞こえてきた。今度はかわいい2両編成のローカル線だ。

駒寄以来ここまで旧街道は西側の大久保と東側の漆原の境界をなしてきた。吉岡川をわたりサントリー榛名工場をかすめて川久保踏切を渡ると吉岡町から渋川市にはいる。今度は旧道が西の八木原と東の半田を分けてすすんでいく。

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八木原


集落にはいってまもなく、三国街道金子宿からくる道との合流点によくめだつ常夜燈とならんで
八木原の道しるべがある。天保4年(1833)の建立で、三角錐形の自然石に「右高崎」「左江戸」と大きくあり、下部に広範囲にわたる里程が刻まれている。一番近くは高崎まで4里、遠くは讃岐金比羅まで175里とある。北方から来た旅人のための追分道しるべである。

土手に10月桜が美しい
滝沢川をわたって宿場に入る。町並に宿場の面影を偲ぶ建物はのこっていない。県道26号を越えた右手に八木原宿場碑、八木原由来碑、すぐ先に高札場跡の碑があって、ここが宿場だったと知るくらいである。宿場の規模も500mほどと大きくない。

途中、左の路地を入って
清泰寺に寄った。静まり返った境内は秋色に彩られている。あたりには土蔵をもった越屋根付きの大きな農家も見られる。

街道への帰り道、トレーニングウェアに大きなバッグを担いで帰る数人の女子中学生が前を歩いていた。元気な声がはじき飛ぶ。鳥の群れが渦をまいては急に位置を変えるように、歩みが一定していない。追い越そうとする前、少女たちの動きが止まりしばらくの沈黙があった後いっせいに「こんにちは」と大きな声をかけられた。「こんにちは」と答えると、2,3秒後には元のざわつきにもどった。あの沈黙は発声タイミングの打ち合わせだったとしか思えない。

街道にもどりすぐ
諏訪神社への道を入る。低い石鳥居は元禄15年(1702)のもので渋川市最古の鳥居だとある。境内には道祖神や馬頭観音などが枯葉の絨毯を敷いて並んでいた。

集落をでると道は二手にわかれ、旧道は左に折れて関越自動車道に向かって進む。午王川を越え自動車道にぶつかったところで旧道は消失。やむなく、自動車道に沿って北へすすみ、上越線第一堰上踏切をこえて左折し自動車道をくぐり、さらにその先の跨線橋の下でみちなりに右に曲がって旧道筋にもどる。

左にはカインズ、しまむら、ユニクロなどの集まるショッピンセンター、その東側を上越線が斜めに走っている。
右手遠くに赤城山のなだらかな稜線が左にながく尾を引いている。低くなだらかにしたハワイのダイヤモンドヘッドのように見える。

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渋川


茂沢川
にかかる更生橋をわたり中村集落にはいる。橋からみた茂沢川の景色が紅葉盛りの大木とその向こうにみえる二つの尖った峰を配して美しかった。

集落の入口民家の脇に深く刻字された文化8年(1811)の道祖神がある。門をかまえた古い民家がみられ、街道筋の雰囲気を残す家並みである。県道をよこぎる手前に
延命寺。県道をこえてから集落の終わりにある早尾神社までの道がすばらしかった。色付いた蔦がからまる土蔵に挟まれて自然なくねりをみせる道をすすむと、こんどはたわわにつけた柿の実とモミジの大木が秋の暖色で道の行く手を彩っている。100mの街道に田舎の秋が凝縮されていた。

早尾神社の見上げるようなケヤキの大木をみて中村集落をぬける。広い自動車道を横切って左斜めの細道をたどると、渋川駅東口の駐車場にぶつかる。おそらくかっては駅の西側につづいていたのだろう。大きく右にまわりこんで、跨線橋を渡って駅の西側にでる。最も線路に近い道を北にすすみ平沢川にかかる庚申橋を渡る。
橋の袂には地蔵がブロック祠に祀られている。

角屋食堂の交差点を左折し県道33号の大きな新町五差路交差点に出る。
「へそ石・へそ地蔵」の案内標識にひかれて寄ってみた。寄居町交差点角に楽しげな一角が設けられている。自然石のへそ石、地蔵の腹についている小豆色のへそ。いづれもへそは出べそである。へその意味することは、ここが地理的に日本の中心にあたるということらしい。北緯36度29分、東経139度0分。暇があれば地図を開けて日本の東西南北端を探してみよう。領土問題があるからなあ…。

渋川宿は県道33号に沿って、下ノ町・中ノ町・上ノ町・川原町・裏宿と、西に延びていた。上・中・下ノ町には交互に市が立って賑わいをみせた。特に下ノ町の
四ツ角はかって宿場の中心として賑わった辻だが、今は周辺を含めた四ツ角周辺土地区画整理事業が進行中で、辺りは家屋が撤去されて空き地が目立っている。一筋北のかっての路地裏は今や手前の空き地で明るみに出てしまったが、長屋風の建物や岸家の土蔵とケヤキの巨木は往時の面影を残している。

中ノ町にある
旧渋川公民館は昭和6年(1931)に建てられた3階建て鉄筋コンクリート造りである。石や赤レンガタイルの外壁にはうっすらと色づき始めた蔦が屋根までのびてレトロ風情を醸している。

その斜め向かいには黒々とした
店蔵が保存されていた。堀口家の表札が架かっていた。ただ「登録有形文化財」の青銅パネルが貼り付けられているだけで寡黙な佇まいである。

道が右に折れるところに創業100余年というそば処「けむりや」が店を構えている。看板の脇に明治10年の
渋川村里程元標がたっている。もともと石標だったと思うが木の柱に白ペンキ書されている。「伊香保村へ2里7町12間1尺 金井村へ25町○5間3尺」と里程は厳密であった。

「けむりや」からやや右に道はまがり、すぐ先で左に出る道がある。頭上に「渋川女子高等学校20m」の案内標識がでている。高崎を出発した新しい三国街道はここに出た。三国街道古道である佐渡奉行街道の終点である。


(2008年11月)

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