日光例幣使街道−2



八木−梁田天明犬伏富田栃木合戦場金崎楡木
いこいの広場
日本紀行
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八木

矢場川を新宿橋で渡った左手に「旧例幣使街道」の木札が立っており、「東 下野国 日光まで二十里六丁」 「西 上野国 倉賀野まで十一里十八丁」と墨書きされていた。東西で国が違うのがうれしい。西の群馬県が上野国、東の栃木県が下野国、ともに人名・地名としてはなじみある上野(うえの)と下野(しもの)であるが、これを「こうずけ」、「しもつけ」と読むのは容易ではない。

そのわけを言おう。

古代、現在の群馬県と栃木県にまたがって
毛野国(けぬのくに)があった。律令制に基づいて毛野国は西の上毛野国(かみつけぬのくに)と、東の下毛野国(しもつけぬのくに)に分割された(京に近いほうが上である)。その後、713年に施行された諸国郡郷名著好字令によって、全国の国名が漢字2文字に統一された。最初、「野」をとって「上毛」「下毛」とする案もでたが「上毛」はともかく「下毛」はいかがなものかと、反対がでた。そこで「毛」の字をとることにして「上野」「下野」となったのだが、読み方はなぜか、「上毛(かみつけ)」「下毛(しもつけ)」のままにおかれた。本来なら「かみつぬ」「しもつぬ」となったところである。

「毛」の字は国名からはずされたが、地域名としては上毛、東毛、西毛として群馬県にのこされている。栃木県に下毛はみあたらない。間接的に、上毛と下毛をむすぶJR両毛線の名にその痕跡をとどめるのみである。

ちなみにかっては九州福岡県南部に上毛(こうげ)郡、大分県北部に下毛(しもげ)郡があったから、下毛国があってもおかしくはなかった。私は『忠臣蔵』で「上野(こうずけ)」の読み方をはじめて知った。「野」は古代、「け」と読まれていたのだろうと推測していた。

街道はその「毛」論争を引き起こした下野国にはいり、堀込町交差点にさしかかる。角にある
宝性寺に八木節元祖堀込源太の碑と墓がある。木崎宿など例幣使街道筋の宿場に越後から売られてきた飯盛女たちが歌っていた越後民謡が盆踊り歌となり、木崎音頭となって八木宿にも伝わってきた。明治末頃に八木の隣村堀込村の馬方堀込源太がそれを進展させて「八木節」を完成させた。堀込源太は各地に招かれ飼い葉桶を叩きながらその美声で盆踊りの音頭をとった。

ところで、堀込交差点を北に2kmもいけば足利市内にいたる。なぜこの歴史ある大都市を例幣使は通らなかったのか。例幣使街道は徳川家発祥の地を通る。祖先新田氏の本拠地でもある。家康の聖地日光に詣でる旅人が新田氏の宿敵足利氏の地を通ることは許されなかった。

「ようこそ八木節のふるさとへ」の看板がむかえる八木宿へ入ってくる。現在の足利市福居町である。昔は宿内に八本の松があったので八木と呼ばれた。

郵便局辺りから東武鉄道福居駅入口辺りまで500mほどの短い宿場だが、他宿にまして多くの飯盛女をおいていた。特に街道の一路北の旧栄町を中心とする「廓街道」は近隣の飯盛女を集めて繁盛していたという。栄町の遊郭は昭和のはじめまで賑わった。その路地を歩いてみたが一軒だけ「○○道場」という看板を掲げた古い建物をみかけたほかは普通の住宅地となっている。

八木宿交差点に
「旧例幣使街道八木宿本陣跡」と書いた大きな看板を掲げる寺山商店が本陣跡である。

路傍に「八木宿」の立て札があった。
例幣使街道六番目、下野国最初の宿場である。例幣使は、毎年4月11日太田宿に泊まり、八木や梁田で小休止し、12日佐野天明宿泊りとなるのが通例であった。八木節は、当宿で働く越後出身の女性が歌った「くどき節」を原形として、初代堀込源太が創作した民謡で、ここ八木宿は、八木節発祥の地である。 西 太田宿まで2里10丁  東 梁田宿まで30丁 堀込二丁目商工振興会 足利市教育委員会 足利市重要文化財指定 足利市八木節連合会

街並のところどころに宿場時代の面影をのこす建物が見られる。
島岡紙印刷の建物は二階の手摺に風情を残している。その向かいの福居薬局も奥行きの深い敷地に重厚な瓦屋根をのせた土蔵をのぞかせる旧家のようだ。

右手に黒々とした板造りの家がある。二階の板窓は格子で保護されている。このあたりに大黒屋という庄屋宅があった。

左手の
「母衣輪(ほろわ)神社」は八木宿の鎮守として崇敬されている。母衣とは飾りまたは流れ矢を防ぐために鎧の背につけるもの。古く倭建命が東征の折、武具(母衣)を奉納したと伝えられる。境内のイチョウは推定樹齢2〜300年という古木で、足利市重要文化財(天然記念物)に指定されている。

東武伊勢崎線の踏切を越えて行くと、左手に古い立派な家がある。二階窓手摺がなまめかしい旅籠風の建物につづいて実直そうな門構えの武家風屋敷が並んでいる。増田医院の本家のようである。

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梁田

道が大きく左に曲がる角のY字路に自然石の庚申塔とまだ新しそうな道標があり、「東南 久野ヲヘテ館林方面ニ至ル」「東 梁田佐野方面xx」と刻まれている。

国道50号の大きな交差点を横断し、「梁田町」信号交差点を通り過ぎ、700mほど先の
丁字路を左折して旧梁田宿場街にはいっていく。コンビミとうなぎや金箱の店が目印だ。
渡良瀬川から流れてくる朝霧で町は息をひそめたような静けさに沈んでいる。通りはたかだか500mほどで渡良瀬の土手に突き当たる。

中ほどにある長福寺の入口に「梁田宿」の案内板が立っている。総戸数105軒という小さな宿場に本陣が2軒もあったのは驚きだ。梁田宿は戊辰戦争に巻き込まれている。梁田宿の飯盛女も八木に劣らず評判だった。幕軍が飯盛女を相手に楽しんでいたところを官軍に急襲され、恥辱的敗戦をきした。幕軍の死者64名が渡良瀬川畔の
戦死塚に葬られたが、その碑は後長福寺に移された。

本陣があったという辺りの家並みをながめてみるが、それらしき建物はみあたらなかった。沿道の家並みは建て替えられていて昔の面影はない。

道は渡良瀬川に突き当たって、梁田宿は終わる。渡良瀬川の河川敷は赤茶けた芝生が広がるゴルフ場である。かってはここから対岸の川崎天満宮付近へ船で渡った。ふりかえると梁田の田園に
気嵐が揺らいで幻想的な風景が展開していた。

川崎橋で
渡良瀬川をわたる。霧がうすくのこって川面はまだ眠りからさめていない。今は清らかな流れで、中洲に水鳥が羽を休める平和な光景だが、明治時代はこの川に足尾銅山から排出された鉱毒が流れ込んで渡良瀬川沿岸の田畑を荒廃させてしまった。公害の原点となった川である。我国最初の公害問題に立ち向かった男を次の宿場で知ることになる。

川を渡り堤防伝いに梁田宿旧道の対岸付近までもどり、堤防下の
川崎天満宮に降りる。堤防から赤城山と妙義山のなだらかな山並みが遠くに眺められた。

例幣使は必ず川崎天満宮に参拝する習わしになっていた。例幣使が残し3人の和歌の短冊が保存されているという。その中の1人は天保14年(1843)、玉村宿の本陣に泊まったときに歌を残している綾小路有長である。
 
 
行きかえり 旅の願ひも 天満るかみのめぐみを やなだにぞ知る

渡良瀬川堤防下の道が旧街道の道筋である。道は東に向かいガードをくぐって集落の端で道なりに左に曲がっていく。最初の四つ辻を右に折れる。その角に上部が欠けた石仏が二体、向かいの窪地にも如意輪観音等の石仏がある。

旧道はその先で途絶え、県道128号に出て、尾名川、出流(いずる)川をわたる。出流川橋から1kmほどあるくと右手の小山(岡崎山)の北裾で右の旧道に入って行く。入口に
一本松地蔵尊があり「日光例幣使街道(元三大師入口)」の案内板が立っている。

旧道は旗川に沿って北に進み県道67号と合流する。この付近に一里塚があった。合流点手前左手に古い
道標が2基ある。元文5年(1740)と、寛政3年(1791)建立のもので、双方に「佐野道」とあるのがこれからめざす道である。

県道を右折して整然とした寺岡の町並みの中をすすむ。旗川の手前の丁字路を左に入る。
角にかまえる家は門と土蔵を両袖に配した立派な家である。

街道は土手にあがり、そこから例幣使は旗川を歩いて渡った。旗川は、冬は水が枯れ夏でも深さは50cmほどの浅い川である。
渡り場の土手下に立っている地蔵は寛文10年(1670)の古いもので、例幣使街道の整備時期に建てられた。

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天明(佐野)

白旗橋
を渡り、土手道を左折する。この道が寺岡村(足利市寺岡町)と免鳥村(佐野市免鳥町)の境をなす。左下の河川敷を利用したゲートボール場から一汗かいた高齢者の一団が用具を手にして引揚げてきた。隣の牛舎では暇をもてあました番犬が不審者をみつけて吠えちらす。その先の丁字路(電柱に「洋服直し田島」の看板)が寺岡渡河地点の対岸にあたる。ここを右折して土手を下り、旧道の雰囲気がのこる免鳥集落を通り抜ける。

日光例幣使街道両毛線の第二足利街道踏切兼変則十字路を斜め右方にわたり、
花岡集落にはいる。ここはさらに趣のある家並みである。漆喰をふんだんに塗り固めた白壁土蔵がまぶしい。「船渡川」という姓がなんとも江戸的でうれしくなる。
「芦畦(あしぐろ)の獅子舞」の収蔵庫、アルミ柵に囲まれた聖天宮の常夜燈、唐突に立つ新しい日光例幣使街道石柱などを見て才川の清流をわたる。

その先両毛線の第一足利街道踏切をわたって斜め前方の旧道延長をすすみ佐野市街地にはいっていく。

大橋町六差路交差点をこえて直進すると秋山川に突き当たる。左手に「諏訪大明神 帝釈天王 水神宮」と書かれた石碑が三猿を浮彫にした台座に立っている。かってはここに猿橋があって秋山川を渡ったのだが、今は右手の
中橋を渡る。短いながら古い石橋で風情を感じさせる橋である。街道は中橋を渡ったところから左におれて県道67号大町交差点に出る。ここから県道沿いに一直線の天明宿が始まる。

天明宿は佐野市の中心であるが、地名としては中橋から例幣使街道に並行して東西にのびる天明町に残るのみである。

佐野は鋳物で有名である。藤原秀郷が河内国から鋳物師(いもじ)を連れてきて武器などを作らせたのが始まりと言われている。佐野の鋳物師は8月1日の八朔に宮中へ燈籠を捧げる習わしになっていた。近衛天皇の時代(1141年〜1155年)に、天命(てんみょう)家次という鋳物師が鉄の燈籠を捧げたところ、その燈籠の光は天までも届いた。天をも明るくしたとして「天明」という苗字を宮廷から贈られた。以降、佐野の鋳物師は天明の鋳物師として全国に知られるようになった。宿場名が佐野でなく天明になったのは鋳物の所為といえなくもない。

天明宿を歩くまえに関東三大大師である
佐野厄除け大師(惣宗寺)に寄っていく。もと春日岡にあったものが佐野信吉の佐野城築城の際ここに移転してきた。

垂木の先を金色に輝かせた山門をくぐると怪しげに鈍い輝きをはなつ
金の梵鐘が目を引く。鐘楼の下に来てどのように感動してよいものか考えてしまった。素朴な印象は「金メッキじゃないの」という疑問。次に、「純金なら柔らかくて打てばへこむんじゃないの」という疑問。合金なのだろう。案内板には「金の釣鐘」としか書いていない。多分この鐘は撞かないのだろうな。

右手奥に
東照宮がある。天海徳川家康の霊柩を久能山より日光遷霊の途中、元和3年(1617)3月27日惣宗寺に一泊したのが縁で、諸大名の寄進により造営された。

墓地の入口に
田中正造の墓が立つ。田中正造は佐野市に生まれ明治23年(1890)の第1回衆議院議員選挙で当選し、生涯足尾銅山の鉱毒問題に取り組んだ元祖エコ活動家である。その話に感動した石川啄木の歌を刻した碑がそばに建っている。

  
夕川に葦は枯れたり 血にまとう民の叫びの など悲しきや

青梅街道が成木の石灰を、三国街道が佐渡の金を、そして足尾の銅を江戸に運んだのが銅(あかがね)街道である。田中正造を理解するにはこの道を歩くに限る。

肝心の本殿が一番印象薄かった。祈願受付は大きな間口を開けて、各種祈願料のメニュが掲げられている。月祈願が5千円、毎日祈願は1万円、特別祈願になると3万円から5万円にはねあがる。費用対効果でいえば毎日祈願1万円が割安にみえる。願書受付のように、あるいは集団健康診断のように、すべてが流れ作業である。

門前で佐野ラーメンを食って宿場入口の大町に戻った。

天明宿の家並みはモダンな建物に混じって古い家が多く残っている。左手に重厚な屋根造りの家が二軒ならびそのとなりには蔵造りの店が続いている。近寄ってみるとその一軒には
「大真縫製株式会社」と墨書きされた板看板がかかっていた。

本町交差点角の
「土佐屋」は昔ながらの屋根付き看板を出している。交差点から昭和通りにはいった左手にある4軒長屋風建物が昭和時代の懐かしさを起こさせる。一階の出入り口の様子こそちがえ、二階の造りは見事に4軒そろって同じであった。

右手の創業弘化元年(1844)創業の菓子司
「大坂屋」は重厚な店蔵で、二階の格子と板看板が紋様白壁を両側に配して端正な佇まいを見せている。

次の交差点手前左手の
小沼呉服店も間口一杯に紺暖簾をかかげ、一階屋根には唐破風屋根付き立て看板を乗せた趣ある店である。「家紋のまち佐野」キャンペーン参加店のようだ。

その先群馬銀行の前に「あいさつ通り」と題したパネルが設置され、この辺りに本陣があったことが記されている。

駅入口交差点を左にとって佐野城跡の城山公園に向かう。途中、駅前南口ロータリーに
司馬遼太郎の記念碑がある。彼は戦時中の一時期、ここに住んだ。そのときの町の印象が良かったようである。
この町は、13世紀からの鋳物や大正期の佐野縮など絹織物による富の蓄積のおかげで町並には大きな家が多く、戦時中に露地に打水などがなされていて、どの家もどの辻も町民による手入れがよくゆきとどいていた。軒下などで遊んでいるこどももまことに子柄がよく、自分がこの子らの将来のために死ぬなら多少の意味があると思ったりした。

駅の北口から城址公園に直結している。
佐野の歴史は平安時代の武将藤原秀郷にさかのぼる。天慶3年(940)天慶の乱で平将門を破り下野守になった秀郷は、犬伏宿北方4kmにある唐沢山に唐沢山城を築いた。その子孫が佐野氏である。慶長7年(1602)、第30代唐沢山城主佐野信吉の時、家康の山城禁令で唐沢山城は廃され春日岡に城を移した。その後間もなく佐野氏は改易となり、佐野藩は井伊家領や天領に細分された。築かれたばかりの
佐野城(春日岡城)も廃城となった。今は石垣、濠、石畳が残るばかりである。

駅の自由通路を通り抜けて再び街道にもどる。
「佐野女子高入口」信号をこえた次の信号交差点を左折して県道141号(唐沢山公園線)に入る。右手に大谷石と思われる石蔵、その先でJR両毛線の「例幣使街道踏切」をわたり、続いて東武佐野線の高架下をぬける。道は妙願寺に突き当たり、右折して犬伏宿にはいっていく。妙願寺の大屋根は優に三階建ての高さに匹敵して目を見張らせた。

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犬伏

堀米町交差点をこえると、犬伏上町、仲町、下町、新町と往時の宿場割を維持している。家並みは概して新しいが所々に面影を残す家や土蔵もみかけられる。

圧巻なのは、下町の犬伏小学校向かいの旧家であろう。複雑に入り組んだ甍、医薬門をはさんで両袖にながくめぐらされた土壁と格子板の塀は肌色に統一されて暖かい。塀に仕切られたくぐり戸や覗き窓が愛らしさを増す。東端にどっしりと構える土蔵は一部の漆喰がはがれてひなびた屋敷全体と調和を保っている。かっての商家であったらしい。

本陣は向かいの小学校にあった。今は碑もない。郵便局の東隣の蔵造りの柳月堂も古そうな店である。
民家の敷地奥にめずらしい形の小さな蔵をみた。越屋根が立派で櫓のようだ。

その先の十字路を北に4kmほどいったところが唐沢山で、平安の昔そこに藤原秀郷が城を築いた。

犬伏新町の東端にあるこんもりとした小山は
米山古墳で、北関東最大の前方後円墳であるという。街道傍に不動堂がある。

街道は米山古墳をまわりこむように坂を下り、東北自動車道の高架下を通ってすぐ左に折れ道なりに右にまがって川を渡る。元は自動車道高架手前から続いていたはずだ。
関川町の短い旧道沿いに天保2年(1831)の立派な常夜燈がある。車道から50m離れただけで旧街道の落ち着きが残っている。

すぐに車道にもどり三杉川をこえ両毛線の第二佐野街道踏切を越えて交通のはげしい県道67号に合流する。前方に横たわる丘陵は三毳山(みかもやま)で、万葉の時代から歌にも詠われた古い土地柄である。

  下野の三毳の山の小楢のす ま妙(ぐわ)し児ろは 誰が筒(け)か持たむ (巻14 3424)
 
下野の三毳山に生えている小楢のみずみずしい若葉のように美しい娘は、誰の食器を手にするのだろう。誰の食事の世話をし、誰の妻になるのだろうか。

三毳山の南麓あたりに律令時代の官道、東山道の三鴨駅家(うまや)があった。北側は金属加工工場地帯で、万葉の里どころではない。産業団地を過ぎ上り坂の手前の二股に
地蔵堂があり、台座に「右日光道 左いわ舟 にっこう似ぬける道」と刻まれている。地蔵はめずらしく青色の前掛け姿であった。

街道は右を行き、佐野市を離れて下都賀郡岩舟町下津原に入る。

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富田(とんだ)

岩舟町に入ってすぐ右手に「慈覚大師誕生の郷」の案内標柱が立っている。慈覚大師、円仁は最澄の高弟で非常に優秀だった。出生地については壬生という説もある。壬生寺には産湯の井戸まであった。

岩舟町下津原から静、和泉と県道67号を東進する。岩船駅南方に馬宿という地名が残っている。馬家のなごりではないかと考えられ東山道三鴨駅家比定の根拠の一つとされた。

和泉交差点で県道11号を横断する。岩船町にはいってここまで3度、県道の北側に残る短い旧道をゆく区間があった。いずれも車が通らないことを除いてはあまりかわらない風景である。

旧街道は和泉交差点の次ぎの丁字路、岩船静和郵便局の手前を左にはいる。天満宮のところで左にまがり県道11号を大きく横切ってパチンコ店の前から旧道の続きを歩く。弓なりにすすんで再び県道の変則四差路交差点を斜めに横切る。ここから大平町富田地区である。

複雑な四差路の中央に例幣使街道の標識がたっていて、ここで曲がるのではないと教えている。その先小公園のところを左に入っていく。結局先ほど左にでていた道に合流し、旧富田宿場街にはいっていく。右手に
薬師堂があり、昔はここに宿場の南木戸が設けられていた。

街並は整っていて広い敷地に大きくて立派な家が多い。左手民家のブロック塀に「旧例幣使街道 京都…(中仙道)高崎−足利−佐野−富田宿−栃木−今市−日光」と書かれたパネルが貼り付けられている。街道歩きの好きな主人の家だろうか。「富田宿」にだけ下線がしてある。

宿場の中心付近と思われる富田交差点の左手角の和久井氏宅が本陣跡である。南入口門に
富田宿本陣跡の標柱がある。建物は白壁土蔵のほかは新しく建て替わっている。

八坂神社を通り過ぎ道が右にまがるところに明治時代の洋館を思わせる建物がある。用水路の西側にある大平下病院の前身であろうか。その先碓井クリニックの北隣は道沿いに二階建て蔵造りの家が建つ広い敷地だ。

この庭に樹齢300年の
モチノキがあるというのでのぞいていると、おばあさんが出てこられて案内してもらった。雌雄二本あるうち、水路に近い雄の木が枯れたという。「かわいそうに。水を吸えなくなった。」 水路の護岸工事で庭が乾燥したというのである。

そこから300mほどの沿道は格子造りの古い家が残り宿場の面影が色濃い家並みである。右手の
旅籠屋島田屋安兵衛跡といわれる家は連子格子が見事な主屋と右側に控える棟門が上格の旅籠を偲ばせる。

紅柄塗りの地蔵堂のところで宿場は終わる。道が広く直線となり、ここから以北は区画整理がなされたことがうかがえる。旧道は県道「ぶどう団地入口」交差点をかすめ、右斜めの細道にはいっていく。すぐ左手に胴部分の竿から上がない
常夜燈がある。竿には「日光山」「太平山」等と刻まれている。石段の両側に狛犬が控える立派なものだ。

その先は田圃の中を在来の家と開発住区がまじりあい、旧道の道筋は殆んどが失われている。永野川近くになって旧道がのこり、川沿いの民家の前を通りぬけて堤防にでる。土手下に
十九夜塔など古い石仏が隠れていた。永野川に架かる永久橋の古い方をわたる。

堤防の道をすすみ最初の丁字路で右におりて堤防下の道を北にたどるのが旧道の道筋である。すぐに堤防の道に合流し、県道11号の川連交差点にさしかかる。

右手の林に
川連天満宮がある。この場所は中世時代、川連氏の城があったところである。昭和50年代まで、交差点のすぐ北の両毛線跨線橋の下は掘割の跡とおもわれる低地になっていた。

川連交差点を横断し、「栃木南高校入口」信号を左折してまもなく栃木市境町に入る。

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栃木

町工場地帯をすぎてその先両毛線の高架下をくぐり、境町で東西に走る広い通りにでる。
旧道はそこから右に一筋移動して水路沿いの道を北に入る。クランク状に曲がるので鍵の手のようだが、最近まですんなりと一本の道であった。駅前の整備事業で斜めの近道が削られた結果現状のギザギザ形になったものである。

県道を離れて道なりに北に進むとすぐ右手の路地口に
「例幣使道」の案内標柱がある。東山道から説き起こしたユニークな道標だ。例幣使道の案内のうち「東へ(約300m)旧沼和田村川間の分去れから左へ巴波川大橋を渡り栃木町を経て日光・宇都宮方面へ」とあるのが、これから歩こうとする道である。「旧沼和田村川間の分去れ」とは旧道が新県道31号と合流する地点を指す。そこを直角に左折していく。

「旧沼和田村川間の分去れ」までの間に同様の標柱が3ヶ所にあった。

開明橋で
巴波(うずま)川をわたったところが栃木宿入口である。すぐ先の栃木警察署前で「蔵の街大通り」に合流する。私は蔵が好きだ。小細工を施さずに愚直にたたずむ地味な姿が好きである。白壁も、薄黒壁も、土壁も、海鼠壁も、板壁でも、石蔵でも、家紋がなくてもよい。漆喰がはがれていたり、土壁がくずれて藁が露出しているのも親しげで好ましい。どこかでピンク色の土蔵さえみた。

しばらく蔵ばかり見て歩く。建物の前に説明板が立っている特別のものもあれば、営業中の普通の店舗である場合も多い。蔵でなくとも古くて風情ある木造建築も多い。一々説明するのは省く。

栃木は皆川広照が天正19年(1591)に築いた栃木城の城下町として始まり、皆川氏没落後は巴波川の船荷集積所として、また例幣使街道の宿場として発展した。例幣使は4月13日、本陣の長谷川宅で昼食をとるのが習わしであったという。場所は倭町交差点の先左手ということだが、何の手がかりも見つけられなかった。

栃木宿は万町交番前の信号交差点で終わる。旧道はここを左折、すぐに五差路を右斜めに鍵の手状にまがっていく。ゆるやかなうねりを描く細道をとりまく家並みはまさに小江戸の雰囲気である。町名の「嘉右ヱ門」は当地屈指の
旧家岡田嘉右衛門に由来する。岡田嘉右衛門は江戸初期この地に移住して荒地を開墾し新田を開発した。名主役本陣を勤めた他、畠山氏の領地時代には代官職を代行している。その広大な屋敷が畠山陣屋跡・岡田記念館として保存されている。

神明神社の向かいも千本格子が美しい商家である。江戸情緒豊かな道をすすんでいくと芳ばしい臭いが漂ってきた。ヤマサみそ製造工場で、白壁土蔵の屋根ごしに白い煙突がみえる。

左手の二股路に栃木市最大級という庚申塔がどっかと坐っている。寛政12年(1800)の建立だ。

その先の
油伝(あぶでん)は天明年間(1781〜89)の創業という老舗である。油屋からはじまり2代目から味噌の醸造を始めた。暖簾といい、門構えといい、簾のアーケードといい、時代劇映画に格好のセッティングを提供している。店の板塀の前に「日光例幣使道」の石標とがっしりした案内板が立っていて、このあたりは古い家並みが残っていると、宣伝している。
江戸時代に日光東照宮の例祭(陰暦4月16日)には、朝廷から幣帛を供えるために、毎年勅使が差遣された。これが日光例幣使である。この奉幣使は京都から中山道を下り、倉賀野宿(群馬県高崎市)で分れ、梁田宿(栃木県足利市)・天明宿(佐野市)・栃木宿・楡木宿(鹿沼市)を経て、今市で日光街道に合流して東照宮に到着する。この倉賀野宿・楡木宿間を一般に日光例幣使街道と称している。栃木宿から次ぎの合戦場に向かう道筋は、古い家並みが残り往時を偲ばせてくれる。

旧街道は「例幣使通り」交差点をこえ、大町郵便局の先の二股を右に行く。分岐点に新しい道標が立つ。ここに栃木宿の
北木戸があった。平柳町1丁目交差点で県道3号に合流し、栃木市から下都賀郡津賀町合戦場にはいる。


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合戦場

東武日光線をわたるとそこはもう合戦場宿である。何の合戦場であったかといえば、戦国時代の大永3年(1523)、宇都宮忠綱と皆川宗成の軍が戦った川原田合戦である。宇都宮忠綱は鹿沼地方を制圧した勢いに乗じて皆川(栃木宿の北西6kmの地)めざして侵攻してきた。河原田(合戦場宿の西方1km)で迎えうった皆川軍は激戦のなかで当主宗成と弟の成明が討死、皆川方は総崩れの状態にあったとき小山・結城・壬生氏の連合軍が皆川方に駆けつけて宇都宮軍を敗走させた。

郵便局手前の交差点を左におれて、東武日光線の西側にある磐根神社による。途中、左手に医薬門を構えた大きな家がある。立板塀をめぐらせ、主屋の壁面も板で覆われた暖かい感じのする家である。旧本陣かと思ったがそうではない。

線路をこえ
磐根神社の古びた石鳥居をくぐってすがすがしい表参道をいくと慶長元年(1596)創立の古社が静まり返った森の中に鎮座していた。

街道に戻り、合戦場郵便局の道むかいにある板造りの二階建ての家は日立製作所の創業者小平浪平生の生家である。小平浪平は、明治7年この地で生まれた。

すぐ先「合戦場公民館入口」の路地に面して建つ家は
若林繁氏宅で脇本陣跡である。その向かいの秋田章氏宅が本陣跡。いずれも建物は新しく、往時をしのばせる面影はない。合戦場宿は500mほどの小さいもので、すべてがここに集まっているようだった。

宿場をぬけ升塚集落の右手に
「升塚」の案内標識が立っている。街道からすこし入った一角に小さな塚が築かれ上に「升塚」と刻まれた板碑が立っている。これが合戦場宿の由来となった川原田合戦の戦死者を葬ったものである。

街道沿いに石蔵が目に付くようになってきた。石材は大谷石で、独特の肌合いをみせている。宇都宮に近づいてきている。

街道は家中地区にはいってすぐ右斜めの短い旧道にはいる。途中右手に赤い地蔵堂があった。

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金崎


家中集落をぬけるとしばらく単調な道が続く。

北関東自動車道の下を通り上新田交差点で3号バイパスと交叉し「重要文化財薬師如来」の案内標識をすぎると東部金崎駅に近づく。そのあたりから宿場がはじまるのだが、そのような雰囲気は感じられない。

数軒の古そうな家が残っている。そのうちの一軒は一階が見事な格子造りで、二階窓のてすりや入母屋造りの一階入口などは遊郭を思わせる建物である。門から中をのぞくと内側にも門があってその後ろには姿のよい松の木と白壁の土蔵がみえた。

宿場のはずれに
旧本陣の古澤利氏宅がある。長い黒板塀に棟門のある大きな屋敷である。
金崎宿の散策はそれで終わる。
例幣使街道最後の宿場としては少々ものたりなかった。

旧街道は集落の終わりにある宮崎商店前の二股を右に入る。すぐに
思川の土手につきあたり、国道293号に出て思川に架かる小倉橋を渡る。見晴らしが良く、遠くに見える雪で輝く山は男体山であろう。橋をわたると鹿沼市だ。


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楡木

橋を渡って堤防をしばらく歩いて国道293号に合流する。
まもなく右手に小さな
磐裂根裂(いわさくねさく)神社がある。合戦場にあった磐根神社も祭神は磐裂神、根裂神だったから、磐裂根裂は磐根のフルネームのようだ。磐を砕き根を裂く開墾の神、農耕の神ということであろうか。

磯町集落には敷地もやたらと大きく立派な門構えの家が目立つ。感心しながら豊かな農家を眺め歩いていくうちに終点の楡木追分に到達する。

分岐点に見慣れた追分道標があった。


(2009年1月)
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