戸沢藩境石標 舟形 舟形町 最上郡 山形県
石標は、従是北新荘領の上部「従是北」の字句が欠落している。元和8年(1622)戸沢政盛が新庄へ入部したとき拝領した6万石は、大石田・尾花沢の2万石を含めたものであった。新庄古老覚書に「山形領は舟付き1ケ所もこれ無き故、谷地2万石を以て大石田・尾花沢を取り替え賜るべくの御所望に依って、政盛公も左京様の事なる故、背き難く思召され其意に任せられ候」とある様に、政盛と同年に山形へ入部した鳥居忠政より大石田の河岸場を欲しいと要請され、谷他郷2万石と尾花沢・大石田2万石を交換したとされる。新庄藩は、領内12郷制度を成立させ代官をおいたのが寛文年間(1661〜1673)といわれる。その12郷へ覚書を裏付けるように上谷地郷・下谷他郷がある。寛永13年(1636)保科正之が、20万石の山形藩主として入部すると寒河江領2万石と尾花沢・大石田2万石は公収されて幕領となった。石標の建立年不明であるが、このような経緯によって建てられたものと思われる。  撰文 溝□仁  舟形町教育委員会