本荘城跡・本荘公園 尾崎 由利本荘市 秋田県
この公園は最上義光の臣、本城満茂の古城跡である。最上氏が由利所領5万5千石の本拠としてこの地に本城城を築城し、慶長18年(1613年)に漸く完成する。元和8年(1622)、跡目相続にからむお家騒動から最上家は改易となり、本城満茂も居城を明け渡して本城の地を去った。その後由利領は一旦、宇都宮城主本多正純の左遷による国替えの領地となり、ついで翌元和9年(1623年)、常陸国府中から六郷政乗が入部した。 この時由利の領地は分割され、政乗の所領は2万石余であった。そこで、政乗は満茂の築城した本城城の規模を縮小、「本丸」の内には諏訪神社(後に本荘神社に合祀)を祠り、西に干飯(かれい)櫓や、具足櫓、東に長柄櫓及び鉄砲櫓を配置、「ニノ丸」には大日堂、稲荷神社と、北の堀上の観音堂の外に馬具舎、西南に煙硝倉を設け、「三の丸」には藩主の居館と馬屋を配置した。本荘城は、尾崎城または鶴舞城とも呼称され、六郷藩の居城として栄えたが、築城様式は、土塁・堀でかためた「土塁の城」として有名であり、日本の名城史にもその名をとどめている。この名城も明治元年(1868年)戊辰戦争で自焼してしまった。 大正時代、本荘町では、城址の公園化を計画、斯界の権威、長岡安平氏に設計を依頼、こうして現在の本荘公園が誕生した。園内には、藩祖六郷政乗を祠る本荘神社を始め、招魂社(護国神社)、戊辰勤王碑、儒臣皆川宗海翁碑、勤王之志士服部平右衛門之碑など、藩にゆかりの碑版や句碑が多い。 眺望に勝れ゛南に鳥海の霊峰を望み、眼下には「江戸で関取る」と唄われる「本荘米」の産地、子吉田圃が展開していた。春至れば全山桜花に埋もれ、ついで親子植樹のツツジが咲き誇り 四季それぞれに情趣を競って、広く市民に親しまれるとともに、来園者を楽しませてくれている。