菅江真澄墓 寺内大小路 秋田市 秋田県
菅江真澄翁(本名白井英二)は、宝暦4年(1754)に三河の国(愛知県東部)で生まれた。天明3年(1783)に旅に出た時から白井秀雄と名乗り、文化7年(1810)から菅江真澄と称した。文政12年(1829)7月19日に仙北の地で亡くなったが墓碑には76、7とあるので、当時の秋田の友人も正確な年齢はわかっていなかったようである。人生の大半を旅に生きた翁は、百種二百冊におよぶ著作を残した。著書には詳細な図絵が挿入され、読む人に感動を与えている。日記・地誌・随筆・図絵集などの体裁をとっているが、その内容は民俗・歴史・地理・国学・詩歌・考古・本草などの分野に及んでいる。人々はこれを「菅江真澄遊覧記」と総称している。(中略) 秋田を歩き、秋田を誌し、秋田を愛した翁は、取材途中梅沢(旧田沢湖町)で病に倒れ、角館に運ばれて没したとも、梅沢で亡くなったとも伝えられている。翁の遺骸は友人鎌田正家(古四王神社の摂社田村堂の神官)の墓域に葬られ、天保3年(1832)の三回忌をもって墓碑か建立された。墓碑銘は翁の弟子鳥屋長秋が書き、長文の挽歌が刻まれた。平成26年3月25日 秋田県史跡指定   秋田市教育委員会