紅蓮尼生誕跡 象潟町 にかほ市 秋田県
紅蓮尼生誕跡
紅蓮尼は象潟の商人、森隼人の娘でタニと言った。元亨(1321〜1324)の頃、父隼人が西国三十三観音巡礼の旅に出かけ、道中松島の掃部(かもん)という人と一緒になり、たいへん親しくなった。巡礼を終えて別れる際に、生涯にわたる親交の証として、森隼人の娘タニと掃部の息子小太郎を結婚させる約束をした。森隼人は象潟に帰ってそのことをタニに伝え、タニはその縁を信じてはるばる山を越えて松島へ嫁いでいった。しかし、松島へ着いてみると、夫となるはずの小太郎はちょっとした病がもとで亡くなっていた。小太郎の両親は、象潟に帰り新たな幸せを求めるようすすめたが、タニは一度も会わずとも自分は嫁いで来たのだから夫婦であり、生涯亡き夫を弔いたいと松島にとどまり、婚家の両親に孝養を尽くした。やがて掃部夫妻が亡くなると、タニは円福寺(瑞巌寺)の尼となり紅蓮の名をもらった。そして庵(心月庵)を結び、そこで小太郎と両親の冥福を祈って生涯を過ごした。

紅蓮尼の庵のそばには、小太郎が幼いころに植えた梅の木(軒端の梅)があり、紅蓮尼はその梅の木を亡き夫の形見として偲んでいた。 ある年あまりに梅が満開に咲いているのを見て悲しくなり、
    
植えおきし花の主ははかなきに軒端の梅は咲かずともあれ
と詠んだところ、翌年その梅だけが咲かなかった。
咲かないとやはりまた寂しいので、今度は、
    
咲けかしな今は主とながむべし 軒端の梅のあらん限りは
と詠んだところ、次の春から元のようにまた満開に咲いたという。
また、紅蓮尼は、米の粉でせんべいを焼いて生計を立てた。松島の人々はこのせんべいを「こうれん」と呼び、今も松島の名物となっている。   にかほ市