新吉原花園池(弁天池)跡千束3丁目 台東区
新吉原花園池(弁天池)跡  台東区千束3丁目22番
江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦3年(1657)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋め立て、日本橋の遊廓が移された。以来、昭和33年までの300年間におよぶ遊廓街新吉原の歴史が始まり、特に江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。遊廓造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊廓楼主たちの信仰を集めたが、現在は浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参拝者が訪れている。
 池は花園池・弁天池の名で呼ばれたが、大正12年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死したという悲劇が起こった。弁天祠付近の築山に建つ大きな観音像は、溺死した人々の供養のため大正15年に造立されたものである。昭和34年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋立工事のため、池はわずかにその名残りを留めるのみとなった。   平成10年3月   台東区教育委員会