義士墓 泉岳寺 東海道
赤穂城主浅野内匠頭長矩は、士道を弁えぬ吉良上野介義央の仕打ちに抗して刃傷に及びし咎により即日切腹を仰せ付けられた。家臣はこの処断に承服せず、筆頭家老大石内蔵助良雄を統領に47士が結束して主君浅野内匠頭長矩の無念をはらすため元禄15年(1702)12月14日本所吉良邸に討ち入り主君の辱めを雪ぎ、その墓前に吉良上野介義央の首級を供え成就を報告し、敢えて官に裁きを求めた。義士一同は、12月15日夕刻細川家(17名)、松平家(10名)、毛利家(10名)、水野家(9名)の4家に預けられた。翌元禄16年2月4日、幕府は苦心の末、武士の体面を立て、切腹せしめた。直ちに主君の墓側に各々4家に分けて葬られた。