ひだりいかやまとみち
鈴鹿の関
「日本書記」天武元年(672)の「壬申の乱」に関する記述に「鈴鹿関司」が登場することから、これ以前に鈴鹿関が設置されていた可能性があります。「続日本書紀」延暦8年(789)の記述に「三国之関一切停廃」とあります。廃止の理由として、軍事防護に用いることがなく、交通の阻害要因になっていることがあげられています。しかし、その後も有事の際には固関が行われた記録が残ります。

鈴鹿関跡西城壁築地の発見
西城壁築地痕跡は、平成17年に亀山市関町新所字西町北地内の観音山の裾部に発見されました。100mほど南には、近世の東海道と大和街道が合流する「西の追分」があります。付近は、鈴鹿山系と伊勢平野の境目で、近世関宿が所在する台地の西端にあたります。
西の追分  関町新所 亀山市 三重県