吉田松陰拘禁之跡 4丁目 下田市 静岡県 
幕末の志士吉田松陰は海外事情を学ぶため鎖国の禁を犯し密航することを決意した。長崎に来航したロシア船への便乗を佐久間象山に勧められ急行したが間に合わず翌嘉永7年(1854)3月再航したベリー艦隊の後を追って弟子金子重輔と下田へ来た機をいかがい夜中柿崎より小舟でペリー艦隊ボーハタン号に漕ぎ着け、渡米を懇請したが、ペリーに拒絶された。壮図空しく破れた松陰等がいさぎよく自首して拘禁された場所がここ宝光院長命寺(廃寺)であった。さらに平滑の獄に移され、同年4月11日には江戸伝馬町の獄に送られた。松陰等が下田に滞在した期間は24日の短いものであり、また海外渡航は失敗に終わったが、その行動は幕末開港の歴史に欠くことのできない重要な一頁を刻むものであり、後に与えた影響は大きかった。  下田市