毛受兄弟の墓 余呉町新堂 長浜市 滋賀県
毛受兄弟は愛知県春日井郡稲葉村の人で兄を茂左衛門、弟を庄助といい共に柴田勝家に仕えた。中でも弟庄助は12才で小姓となり、17才の時には長嶋の合戦で武功をあげ勝家の名をもらって、庄助照景を勝助家照と改めたという。後に小姓頭となり一万石を領した。賎ヶ岳合戦には勝家に従い狐塚に出陣していたが、戦い不利となり撤退するに当たり、主君の身代わりとなるため、勝家の馬標を受け取った。そして兄弟力を合せ手兵200人で怒涛の秀吉軍を食い止め、ここで打死した。秀吉兄弟の武勲に感じ遺体を丁重に葬り、遺族をさがし厚く保護したという。明治9年滋賀県令籠手田安定氏は兄弟の遺徳を偲び墓碑を建立した。以後全長寺は菩提寺としての供養を勤め、土地の人々は毛受兄弟史蹟保存会を組織し、毛受兄弟の遺徳は今も此の地に生きている。 余呉町教育委員会