鎌倉、室町の頃、鈴鹿の八風峠、千草峠を越えて近江と伊勢の間を往還する商人群があった。彼等は保内の野々郷(現八日市市金屋、中野、今崎、蛇溝、市辺、小今、)三津屋、玉緒そのほか石塔、沓掛、小幡などの人々で、世に山越商人と呼ばれている。
 保内商人の活動が史料に出てくるのは平安末期からである。この平安から鎌倉期は、我国商工業の勃興期にあたっているから、ここに現れる近江商人こそ、日本商業史の第一頁に登場した人達ということができよう。
 この頃の商人は、後世の近江商人のように、一人二人が天秤棒を担いで行商をするというのでなく、多人数がキャラバンを組んで行動していた。応仁2年、京都の僧が千草越で道づれとなった近江商人の一行は、「荷を担ぐもの百余人、護衛の者六、七十人、荷を積んだ駄馬はその数を知らず」という盛んなものであった。このような集団としての団結と自治の気構えは、「今堀日吉文書」に残る多くの村掟からも推察することができる。
 江戸期に入って、近江商人の活動が全国的に宣伝されたその前段階に、郷土から輩出した、不屈の行動力と、豊かな先見性、時代に先駆けた自治の精神を有した商人群があったことをこの群像建立により、長く記憶にとどめておきたいと念ずる。
  昭和56年5月29日  創立20周年記念   八日市ロータリークラブ
山越商人像 八日市 滋賀