長府藩初代藩主であった毛利秀元の二男毛利元知が、その領地の一部を与えられ、長府の支藩として清末藩を始めることを許されました。関ケ原の戦いから約50年後の承応2年(1653)のことです。神田川と木屋(こや)川を東西の境として奥に広がる地域で、現在の清末・小月と菊川町の大部分を含んだ石高一万石の領地でした。 いま国道2号線の沖側に見える広大な農地はその後に干拓されたもので、当時はこの高台のすぐ下まで海が迫っていました。清末は藩内では交通の便利がよく、中でも後は山、前は海、東西を川に囲まれているこの地は、敵に攻められにくいという点で居城に最適の土地であることから、ここに藩邸が築かれていました。以来、明治維新に至るまで200余年間、清末は城下町として繁栄を続けてきました。平成4年11月設置  清末ふるさとまちづくり推進委員会

清末(きよすえ)藩邸跡 清末陣屋 下関市 山口県